最終話
春の柔らかな日差しが、アーチ窓のガラスを通して、図書室の絨毯を金色に染めていた。
南向きの窓から入る微風が、古い羊皮紙と革表紙の匂いを、部屋いっぱいに運んでくる。
「んんーっ……!」
特注ソファの上で、私は手足を思いきり伸ばした。骨がぽきぽきと小気味よく鳴る。
身につけているのは、薄紅色の綿の部屋着。締めつけはどこにもなくて、袖口もゆったりしていて、本をめくる邪魔にならない。専属の仕立て屋が作った最高傑作だ。結い上げを解いた金髪は肩から背中へ無造作に散らばり、足元はもちろん素足。
「極楽ね、ここは」
現在、午後二時。朝は十時半にのそのそとベッドを這い出し、遅い朝食兼昼食を済ませてから、私はこのソファに定住している。四冊目になる冒険小説の新刊に取りかかって、もう三時間。
「奥様、淹れたてのカモミールティーをお持ちしました」
トレイを持って入ってきたアンナが、クッションに埋もれてだらしなく寝そべる私を見て、苦笑いしながらカップをサイドテーブルへ置いた。
「ありがとう、アンナ。今日のクッキー、ナッツが香ばしくて最高ね」
「料理長が、奥様が読書の合間につまめるようにと焼いたそうです。……それにしても奥様、本当にその格好で一日中お過ごしなんですね。伯爵邸で『社交界の至宝』と呼ばれていた頃が、遠い昔の夢のようですわ」
「夢じゃないわ。あれは悪夢よ。二度と戻りたくないわね」
クッキーをさくりと齧って、ページをめくる。
公爵邸に嫁いで数か月。私の暮らしは、絵に描いたような『至高の怠惰』だった。もちろん、最低限の務めは果たしている。王室主催の式典に、領地の重要書類の最終確認。対外的な場では、相変わらず『完璧なる氷の薔薇』として社交界を圧倒していた。けれど、それ以外のくだらない茶会や、腹の探り合いばかりのサロンの誘いは、すべて「読書で忙しいので」の一言で断り倒している。公爵夫人になった今、私の背後には筆頭武門の権力が控えているのだ。誰も文句は言えない。
「あの、奥様。もうひとつ」
アンナが、少し言いにくそうに、トレイの下から封書の束を出した。
「北の国境の関所から、また届いております。今月は三通で」
差出人の名は、見るまでもなかった。クロフォードの姓を剥がされたかつての婚約者の、流麗を気取った筆跡。消印は、北の果ての小さな関所のものだった。
「いかがなさいますか」
「暖炉へ。封は切らなくていいわ」
「かしこまりました」
アンナは慣れた手つきで、暖炉の火の中へ束を放り込んだ。紙はよく燃える。厚みのわりに、あっという間に灰になった。
風の噂では、ジェラルドは今も北の関所で、下級書記として数字を数えているらしい。毎日、二重計上を見つけられずに叱られているとか。エレノアは、六十近い子爵のもとへ後妻に入って、「贅沢もチヤホヤもないじゃない」と泣いているそうだ。どちらも、もう私の知ったことではなかった。
自業自得という四文字を、熨斗をつけて送り返したいくらいだけれど、送り先の住所を調べるのも面倒だ。
「……ふぅ。やっぱり、主人公が罠を暴く場面はスカッとするわね」
満足のため息をついて、お茶をひと口すする。
その時だった。
バタン! と図書室の重い扉が勢いよく開いた。
「ただいま、俺の可愛い奥様!」
廊下まで響く朗らかな声と一緒に、近衛騎士団長の軍服を着た男が、大股で入ってくる。黒髪をかき上げ、胸元のボタンをいくつか外して歩いてくる姿は、悔しいくらい絵になっていた。
「……おかえりなさい、ルーファス。今日は夕方までかかるって言ってなかった?」
「副長に書類仕事を全部押しつけて、走って帰ってきた」
「近衛騎士団長として職務放棄じゃないの、それ」
「重要な決裁は午前中に全部終わらせたから問題ねえよ。それより」
ルーファスは上着を乱暴に脱いで椅子へ放ると、迷わず特注ソファへ直進してきた。
「どっこいしょ、と」
「きゃっ! ちょっと、重いわよ!」
当たり前の顔で、私の膝の上に、大きな頭をごろんと乗せてくる。仰向けに寝転がったルーファスは、薄紅色の部屋着の上で、心地よさそうに目を閉じた。
「あー、生き返る。一日中、堅物どもと会議してると、脳みそが凝り固まるぜ」
「だからって、人の膝を枕にしないでちょうだい。重たい筋肉の塊が乗ったら、本が読めないじゃない」
「読めばいいだろ。俺はお前の太ももの上で、大人しく寝てるから」
「大人しく寝る体格じゃないでしょ、あんたは!」
文句を言いながら、私は本を持ったまま、空いた左手で彼の額にかかる黒髪をそっと払ってやった。少し汗ばんだ髪の感触。近衛の精鋭を束ねて、王宮の誰もが恐れる若き覇者が、私の前でだけは、飼い主に甘える大型犬みたいに無防備な顔をする。
「……お前、いい匂いがするな」
「カモミールのお茶を飲んでたからよ」
「それだけじゃねえよ。お前の匂いだ」
腰に腕が回って、ぎゅっと抱きしめるように力がこもる。薄い部屋着越しに、鍛えた腕の硬さと、熱い体温が伝わってきた。
「ねえ、ルーファス」
「ん?」
「あんた、本当に公爵夫人としての私に、文句はないわけ? 朝は十時過ぎまで寝てるし、昼間はずっと部屋着で本を読んでるし、家事も料理も使用人任せの、最高にずぼらな悪妻よ?」
「悪妻? どこがだよ」
ルーファスは目を開けて、下から私を見上げた。からかいの色のない、深くて甘い目。
「対外的な公務に出りゃ、誰より完璧で美しい至宝サマとして、社交界の狸どもを黙らせてくれる。俺が持ち帰った兵站の帳簿を渡せば、寝転がったまま数分でミスを見抜く。これ以上有能な公爵夫人が、どこにいるんだ?」
「……それは、まあ、そうだけど」
「それに何より」
伸びてきた手が、私の左手を取った。薬指のサファイアに、そっと唇が落ちる。
「俺の前でだけ、そんなだらしねえ顔で息を抜いてくれるお前が、世界で一番愛おしいんだよ。誰にも見せたくねえ、俺だけの宝物だ」
「…………っ」
顔が一気に熱くなった。夫婦になって数か月が経つのに、この男の真正面からの溺愛には、いまだに慣れる気がしない。
「……バカ。口が上手いんだから」
「本心だよ、クラウディア」
満足そうに笑って、ルーファスは私の膝の上で寝返りを打った。今度はお腹のあたりに顔を埋めてくる。規則正しい呼吸が、薄い布を通して伝わってきた。
「なあ、クラウディア」
「なによ」
「幸せか?」
ふいの、小さな問いだった。
本から目を上げて、窓の外の青空を見る。
あの夜、王宮のテラスで「君は完璧すぎて息が詰まる」と言われた日。私はただ、誰の期待も背負わず、部屋着で本を読み耽る暮らしを夢見ていた。他人の身勝手な型に押し込められるのをやめて、息苦しい檻から逃げ出したかった。
今、その願いは全部叶っている。それどころか、一人きりで部屋に閉じこもる寂しい自由じゃない。完璧な私も、だらしなく笑う素顔の私も、丸ごと肯定して愛し抜いてくれる人が、膝の上にいる。
息なんて、少しも詰まらない。この男の隣にいる時だけは、胸の底まで、深く息ができる。
「……ええ」
左手で黒髪をゆっくり梳きながら、私は口の端を上げた。
「最高に幸せよ。世界で一番贅沢な怠惰を、満喫させてもらってるわ」
「そりゃよかった。一生、俺の隣でだらけてろよ」
「言われなくても、そうするわよ。一生離してあげないんだから、覚悟しなさい、筋肉馬鹿」
膝の上の男が、嬉しそうに低く笑った。
それから、思い出したように、椅子に放った上着のほうへ顎をしゃくる。
「そうだ。内ポケット、見てみろ」
「え?」
「お前が待ってたやつだ。今日、発売日だろ」
上着の内側から出てきたのは、見覚えのある装丁の一冊だった。怪盗と魔術師が共闘する、あのシリーズの最新刊。
「嘘。今日の発売なのに、どうやって」
「朝イチで副長を並ばせた」
「近衛騎士団の副長を!?」
「あいつ今ごろ、書類の山と俺への恨み言で泣いてるだろうな」
あっさり言う悪友に、笑いが止まらなくなった。
「あんた、本当に最低の上司ね。でも、最高の旦那様だわ」
口にしてから、気づいた。
膝の上で、ルーファスが固まっていた。耳の先まで、真っ赤になっている。
「……今、何て言った」
「何も言ってないわ」
「旦那様って言ったよな。もう一回言え」
「絶対に嫌。一生言わない」
「じゃあ、一生かけて聞き出す」
低い笑い声が、お腹に響いた。それがだんだん、ゆっくりした寝息に変わっていく。朝からずっと駆け回っていたのだろう。
新刊を開く。
けれど、文字はひとつも頭に入ってこなかった。
膝の上の重みは、足が痺れてきても、どけてやる気になれない。
悪友の本気は、どうやら一生ぶんあるらしい。




