第8話 二人きり面談
氷見坂葉月からの「放課後、二人きりで聞く」という予告を受けたその日、俺は人生で初めて他人の恋愛相談に備えて心の準備をした。
経験はない。
助言の実績もない。
なのに相手は氷見坂だ。
学年一の美少女が、よりによって俺に本命の相談を持ちかけてくる。
状況だけ見れば意味が分からないが、実況がそう言っていた以上、たぶん事実なのだろう。
問題は、何を聞かれるかだ。
好きな相手の趣味か、休日の過ごし方か、喜ぶ贈り物か。
瀬名説が濃厚だとして、体育会系の男子が喜ぶものって何だ。
スポーツタオル? プロテイン? いや、それは雑すぎる。
考えれば考えるほど、自分が向いていない分野に足を突っ込んでいる気がした。
でも、ここで逃げるわけにもいかない。
氷見坂が初めて、自分から誰かに踏み込もうとしているのだとしたら、それはたぶん大きな一歩だ。
俺はそれを邪魔したくなかった。
邪魔したくないし、できれば成功してほしいとも思う。
相手が誰であれ、氷見坂が自分から何かを言おうとしているなら、それはきっと前進だ。
笑わない理由も、嫌だと言えない理由も分からないままだけど、それでも好きな相手に踏み込めたら、何か変わるかもしれない。
少なくとも、俺はそう信じたかった。
だから昼休みのあいだ、俺はわざわざ男子の会話を盗み聞きした。
誰がどんな話題を好むのか、どんな誘われ方なら自然なのか、恋愛経験のありそうなやつらは何を面白がるのか。
得られた知識は薄かったが、無駄でもなかったと思いたい。
「一緒にどこか行くなら、飯で釣るのが早い」とか、「趣味が分からないなら消え物が無難」とか、聞いていて人としてどうなんだと思う意見も混ざっていたが。
少なくとも、俺一人の感覚よりは世間寄りだろう。
*
放課後、教室の人数が減るのを待っていたみたいに、氷見坂がこちらへ来た。
陽菜はまだ席にいたが、俺たちを見るとわざとらしく立ち上がる。
「私、職員室行ってくるわ」
「今?」
「今」
それだけ言って、陽菜は意味深な目で俺を見てから教室を出ていった。
残された空気が妙に静かになる。
氷見坂は俺の机の横で止まった。
「……少し、いい?」
「うん」
頷いた瞬間、実況が始まる。
『始まります。二人きり面談。司会進行は心臓の音でお送りします』
やめてくれ。
こっちも落ち着かなくなる。
氷見坂は少し視線を落としてから、空いている前の席へ座った。向かい合う形になる。
教室の窓から夕方の光が差し込み、机の上に長い影が落ちる。
距離が近い。
実況もすぐ荒れた。
『近い。近いけど逃げるな私。今日は聞くって決めた』
俺は背筋を伸ばした。
来る。
本命の相談が。
「……あの」
「うん」
「休日って、何してるの」
思っていたより直球だった。
俺は一瞬だけ言葉に詰まる。
休日。
なるほど。そう来たか。
デートに誘う前の下調べだ。
好きな相手が何をして過ごしているか知りたいのは自然だし、話題としても無難だ。
つまりこれは、かなり本気の相談である。
遠回しで、ぎこちなくて、でも自分で聞こうとしている。
氷見坂からすれば、それだけで大仕事なんだろう。
「休みの日?」
「……うん」
『言えた。聞けた。えらい。えらいぞ私』
実況が小さく拍手していた。
だが俺は感心している場合ではない。
瀬名みたいな男子が休日に何をするのか、俺はそんなに詳しくない。だから一般論で答えるしかない。
「人によるけど、まあ……部活あるやつは部活じゃないか」
「部活、ない日は」
「買い物とか、ゲームとか。友達と飯行ったり」
「……一人でも?」
「一人でも行くやつは行くと思う」
氷見坂はこくりと頷いた。
表情は変わらないのに、メモでも取っていそうな真剣さがある。
『なるほど。買い物。一人でも可。覚えました』
完全に情報収集だ。
俺はますます確信する。
これは本命のための下準備。たぶん誘う気でいる。
そう思うと、急に責任が重くなった。
もし俺の助言が変で、氷見坂の恋が変な方向へ転がったらどうする。
いや、もともと俺は恋愛アドバイザーではないのだが。
「……好きなものは」
「え?」
「男の子って、何が好きなの」
男の子って。
雑だな、と少し思ったが、氷見坂らしいといえば氷見坂らしい。
特定個人の名を出すのが恥ずかしくて、カテゴリーに逃がしたのだろう。
ここで「人による」と返すのは簡単だが、相談として意味がない。
俺は少し考えた。
「無難なのは、使えるものじゃないか。文房具とか、キーホルダーとか」
「……甘いものは」
「好きなやつは好き」
「……じゃあ、辛いもの」
「それも人による」
『情報が曖昧です。だが前進はしている。たぶん』
実況が微妙な評価をしてくる。
俺だって曖昧だと思う。
でも相手が瀬名や神代みたいな人気者なら、あまり尖ったものより無難なものの方がいい気がする。たぶん。
それに、人気者っていうのはだいたい何でも持っている。
だからこそ、外さないことの方が大事だ。
目立つものより、普段使いできるもの。
気を遣わせない値段で、でも雑には見えないもの。
うちの定食屋で常連へのサービスを考える感覚に少し似ていた。
相手の負担にならず、それでいてちゃんと伝わるラインを探す。
恋愛と食堂の気配りを一緒にするなと言われそうだが、今の俺に使える比較対象がそれくらいしかない。
「気になる相手、そういうの分からないのか」
つい聞いてしまってから、しまったと思った。
直球すぎたかもしれない。
氷見坂は一瞬だけ固まり、それから小さく首を振った。
「……あまり」
『分かるよ。だいたい毎日見てるから。好きなパンも、歩く速さも、荷物を持つ手も、だいたい知ってる。でも言えない』
俺は息を止めた。
今のは危ない。
聞きようによっては完全に俺のことだった。
だが違う。
違うはずだ。
たまたま俺が毎日見える位置にいるだけで、本命だとは限らない。氷見坂の学校生活の視界に、俺が入りやすいだけかもしれない。
そうだ。落ち着け。
主語がない以上、ここで勝手に飛躍するな。
「そっか」
俺はできるだけ平静に返した。
「じゃあ、まずは無難なところから聞いてみればいいんじゃないか。休日何してるか、とか。行きたい場所あるか、とか」
「……行きたい場所」
「うん」
「たとえば」
「ショッピングモールとか。映画とか。飯屋とか」
言いながら、自分で妙な気分になる。
俺は今、氷見坂葉月のデート計画を後押ししているのか。
なんだこの役回り。
幼馴染でも親友でもなく、ただの同級生でしかない俺が。
いや、ただの同級生ではないのかもしれない。少なくとも氷見坂の実況を知っている時点で、もう完全にただではない。
でも、それを本人は知らない。
知らないまま、俺を相談相手に選んでいる。
そう考えると、変に裏切れなかった。
それに、もし相手が神代なら、文化祭の準備が進む前に少しでも距離を縮めておきたいのかもしれない。
もし瀬名なら、部活で忙しいやつ相手にタイミングを逃したくないのかもしれない。
どちらにしても、氷見坂の中では急がなきゃいけない理由がある気がした。
その焦りが、質問の細かさに出ている。
好きな色、よく使うもの、歩く速さ、休日の行き先。
一つひとつは小さいのに、全部合わせると、誰か一人をきちんと見ようとしている感じがした。
それは少しだけ、うらやましいほど真面目だった。
*
会話はそこで終わらなかった。
氷見坂は一つ質問するたび、少し考えて、また別の角度から聞き直してくる。
好きな色。休日に歩き回るのは平気か。荷物が多いのは困るか。アクセサリーは使うか。
どう考えてもプレゼントか、もしくはデートの下調べだ。
俺はそのたびに、できるだけ一般論で答えた。
男子全体へ向けた説明として。
個人の好みを混ぜると、たぶん判断を誤らせる。
だからなるべく無難に。
なのに実況だけは、そのたびに妙に浮かれていた。
『知れた。情報を知れた。今日は偉業の日です』
『ショッピングモール。覚えました』
『灯……いや、だめ、落ち着け』
今、危なかった。
名前が入りかけた気がする。
俺は思わず水を飲みたくなったが、机の上に何もない。
教室の空気だけが静かで、外の運動部の声が妙に遠かった。
そこへ、扉の隙間から陽菜が顔だけ覗かせた。
たぶん職員室帰りではない。どう見ても様子見だ。
「まだやってる」
「何を」
「面談」
陽菜は俺ではなく氷見坂を見て、それから机の距離を見て、小さく頭を抱えた。
「何その顔」
「いや、ちょっと情報量が多くて」
「意味が分からん」
「こっちの台詞」
陽菜はそう言って中へ入ってきたが、氷見坂がわずかに身を固くしたのを見て、すぐ足を止めた。
「ごめん、邪魔した」
それだけ言って、今度こそ本当に出ていく。
去り際に見せた表情は、笑っているようで笑っていなかった。
たぶん、何か言いたいことがある。
でも言わないのは、言ったら終わると思っているからかもしれない。
俺にはそこまで読めなかった。
読めないくせに、氷見坂の本命については勝手に仮説を固めているのだから、我ながら都合がいい。
でもここまで来ると、もう引き返せない感じもあった。
相談を受けた以上、途中で「やっぱ分からん」と投げる方が無責任だ。
だから俺は、このまま最後まで付き合うつもりでいた。
相手が誰か分かるそのときまで。
*
気づけば、教室には俺たちしか残っていなかった。
窓の外はほとんど夕方で、校舎の影がグラウンドへ長く落ちている。
氷見坂はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吸った。
「……ありがとう」
「いや、役に立ったか分からないけど」
「……立った」
『立った。すごく立った。大感謝祭です』
そこまでか。
少しだけ可笑しくなりそうになったが、笑うと変な意味になりそうでこらえた。
「よかった」
「……あの」
氷見坂が視線を落とす。
指先が、制服の裾を少しだけつまんだ。
緊張している。
次が本題かもしれない、と俺は身構えた。
「明日」
「うん」
「一緒に……買い物、行ける?」
脳が数秒止まった。
買い物。
一緒に。
明日。
つまり、下見ではなく本番が来た。
いや、違う。本番ではない。
本命へのプレゼント選びだ。
そうだ。そうに決まっている。
俺に相談した流れで、俺を買い物の同行役に選んだだけ。男目線の意見がほしいのだろう。
その方が自然だ。
自然で、平和で、安全だ。
そうじゃない解釈をすると、いろいろ危ない。
だからそこへは行かない。
『言えた。誘えた。今の私はたぶん無敵です。いや全然無敵じゃない。返事待ちです。心臓が』
実況だけ聞くと全然平和じゃないが、そこに意味を足すのは危険だ。
俺は頷いた。
「いいけど」
氷見坂がわずかに目を上げる。
表情は変わらない。なのに、その瞬間だけ教室の光が少しやわらいだ気がした。
「……ありがとう」
『決まった。明日。終わった。いや始まった。どっちでもいい。無理』
俺は鞄を持ち上げながら、頭の中で明日の役割を整理する。
本命へのプレゼント選び同行。
男目線での助言係。
ついでに相手候補の絞り込み。
うん、理屈は通る。
理屈は通るのに、なぜか胸の奥だけが少し落ち着かなかった。
帰り際、廊下で待ち伏せしていた陽菜が、俺の顔を見るなり深いため息をついた。
「何だよ」
「いや。ほんとに行くんだ、って」
「頼まれたし」
「そりゃ頼まれたら行くよね、あんたは」
「何だその言い方」
「別に」
陽菜は少しだけ眉を寄せる。
「で、何だと思ってるの」
「本命へのプレゼント選び」
言った瞬間、陽菜は本気で頭を抱えた。
「うわ」
「何だよ」
「いや、もう……すごい」
「だから何が」
「何でもない。頑張って」
「雑すぎるだろ」
陽菜はそれ以上言わなかった。
言えないのか、言わないのかは分からない。
ただ一つだけ分かるのは、明日、俺は氷見坂と二人で買い物に行くということだ。
そしてそれはきっと、誰かへの恋のための準備なのだろう。
そう思い込んだまま、俺は家路についた。
駅までの帰り道、陽菜は結局それ以上何も言わなかった。
ただ別れ際に一度だけ、呆れたように笑って言った。
「颯太、ちゃんと見なよ」
「見てる」
「見てるつもり、でしょ」
その言葉に返せなかったのは、心当たりがあったからかもしれない。
見ている。
でも、見たい形に並べ替えていないと言い切れるほど、自信はなかった。
それでも明日、氷見坂と二人で出かける。
その事実だけが、やけにはっきり胸に残っていた。




