第7話 本命候補リスト
氷見坂葉月の「やだ」を聞いてしまってから、俺の中で文化祭は少しだけ面倒なものに変わった。
もともと好きでも嫌いでもない。クラスが騒がしくなって、普段喋らないやつまで妙に声が大きくなって、終わったあとに妙な一体感だけ残る行事だ。
けれど今年はそこに、氷見坂がいる。
しかも神代に「文化祭の顔」として指名された。
本人は断れなかった。実況は嫌だと言っていた。
だったら俺は、せめて氷見坂の本命探しを急ぐべきなのかもしれない。
好きな相手に近づければ、少しは状況が変わるかもしれないからだ。
ずいぶん短絡的な理屈だという自覚はある。
でも、笑えなくなった理由も、嫌だと言えない理由も、まだ俺には分からない。
分からないなら、今できる範囲で手を打つしかない。
そう考えて、俺は登校直後からノートの新しいページを開いた。
氷見坂葉月・本命候補リスト。
タイトルにした瞬間、すでに気持ち悪かった。
だがここでやめるわけにもいかない。
候補一、瀬名亮。
候補二、神代司。
候補三、保留。
保留が広すぎるが、現時点では仕方ない。
重要なのは、氷見坂の視線と移動ルート、会話相手を冷静に拾っていくことだ。
観察なら得意だ。
少なくとも、そう思っていた。
「颯太」
横から陽菜が覗き込んだ。
「朝から何それ」
「メモ」
「見れば分かる。何のメモかって聞いてる」
「文化祭関係」
「嘘つけ。氷見坂さんの名前、でかく書いてあるじゃん」
俺は慌ててノートを閉じた。
陽菜は呆れた顔をする。
「ほんとに作ったんだ。本命候補リスト」
「声に出すな」
「最低だなあ、字面が」
「自覚はある」
「あるのにやめないんだ」
「やめた方がいいと思うか」
聞くつもりはなかったのに、口から出た。
陽菜は一瞬だけ真顔になる。
「やめるやめないじゃなくて、あんたそれで何を助けるつもり?」
「……氷見坂が、少しでも楽になるなら」
「そう」
それ以上、陽菜は何も言わなかった。
否定も肯定もしない沈黙が、かえって痛い。
だがホームルームが始まり、会話はそこで切れた。
*
文化祭準備が本格化すると、神代は予想以上に有能だった。
黒板の前で企画の全体図を説明し、誰に何を任せるかを迷いなく振り分けていく。展示、衣装、看板、ステージ進行。全員に役割が割り当てられ、反論が出る前に「無理なら調整するよ」と逃げ道まで作っていた。
こういうやつは強い。
押しつけに見えない形で、気づけば相手をその場所へ立たせる。
しかも本人に悪意がないぶん、なおさら厄介だ。
断る方が空気を乱すみたいな形を、自然に作ってしまう。
神代自身はたぶん善意でやっている。
だからこそ、昨日の「やだ」が頭から離れない。
本人の口から出る「平気」と、実況の「やだ」が食い違っている以上、どちらか一方だけを信じるのは危険だ。
俺は配布物を回収しながら、ふと氷見坂の方を見た。
彼女は窓際で企画書を読んでいる。表情はない。けれど紙を持つ指先が少しだけ固い。
実況は、しばらく入らなかった。
代わりに、俺はクラス内の動線を見る。
神代が説明するとき、氷見坂は顔を上げるか。
瀬名が冗談を言ったとき、口元は緩むか。
誰かに話しかけられたあと、視線はどこへ戻るか。
そういう細部を拾い集めていく。
そして最初に分かったのは、氷見坂が思っていた以上に、俺のいる方角を見ていることだった。
いや、違う。
俺の「いる方角」だ。
俺を見ていると断定するのは危険すぎる。
視線の先には俺の後ろの掲示物もあるし、窓もあるし、黒板もある。
そう言い聞かせた直後、実況が入った。
『今日もいる。よかった。朝からいる。学校だから当たり前だけど、よかった』
俺は配布プリントを取り落としかけた。
危ない。
こういうのがあるから困る。
内容だけ聞けば完全に俺宛てみたいだが、主語がない以上、断定はできない。
氷見坂の中の「あの人」が、たまたま俺の近くにいるだけかもしれない。
「灯里、悪い。この資材室の鍵、職員室まで持ってってくれる?」
神代に頼まれ、俺は反射的に頷いた。
頼まれると断れない性格は、こういうとき面倒だ。
けれど動き回っている間も、視線だけはつい氷見坂を探してしまう。
廊下で会えば足の向き。教室で見かければ手元の動き。階段を上がるときの速度。
我ながら気持ち悪いが、観察は観察だ。
そしてそのたび、実況は妙に甘かった。
『かっこいい』
『今日も動いてる』
『汗がまぶしい。いや比喩ではなく本当にちょっとまぶしい』
『ありがとう世界』
内容だけ拾えば、運動部エースでも見ているみたいだった。
だが現実には、俺は段ボールを運び、画鋲を取りに走り、クラスの雑用をこなしているだけである。
かっこいい要素は薄い。
むしろ「便利な雑用係」が正しい。
なのに実況だけは一人で盛り上がる。
この温度差に慣れそうで慣れない。
もしこれが俺のことじゃないなら、氷見坂の頭の中では相当美化された相手像が流れていることになる。
それはそれで怖い。
俺は職員室から戻る途中、廊下の窓に映った自分を見た。
額に汗。手にはガムテープ。腕には資料。
どう見ても、かっこいいのは瀬名の方だ。
体育館から戻ってきた瀬名は、部活帰りで首にタオルをかけている。背も高いし、汗も似合う。
ああ、なるほど。
実況の「汗がまぶしい」は瀬名だ。
さっきの「かっこいい」も、たぶん瀬名。
俺はようやく一つ納得した。
同時に、候補一の名前へ小さく丸をつける。
*
昼休み、瀬名は教室の後ろで男子数人と話していた。
文化祭でバスケ部から借りるパネルのことらしい。声が大きく、よく笑う。中心に立つのが自然なやつだ。
氷見坂は自分の席でサンドイッチを食べていた。
無表情のまま、たまにそちらを見る。
分かりやすい。
少なくとも、そう見えた。
『今日も見てる。見てしまう。いや見ないで。見るけど』
実況が入る。
ほらやっぱり、と俺は内心で頷く。
視線の先にいるのは瀬名だ。
なら、この線はかなり濃い。
俺はパンをかじりながら、瀬名と氷見坂の接点を思い出す。数学のプリント。体育。文化祭の力仕事。まだ少ないが、少ないからこそ気になるのかもしれない。
「颯太」
陽菜が隣の席に腰をかけた。
「今、すごく嫌な顔してる」
「嫌じゃない」
「違う。嫌な顔じゃなくて、余計なことを確信した顔」
「そんな顔の分類あるか」
「あるよ。あんた専用で」
陽菜は瀬名と氷見坂を交互に見て、小さく息をついた。
「で、何を見つけたつもり?」
「瀬名の線が濃い」
「へえ」
「何だその反応」
「別に」
「別にって顔じゃない」
「それ、さっきのお返し?」
陽菜は笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「颯太。見えてるもの全部が矢印だと思わない方がいいよ」
「分かってる」
「分かってる人は、そんな嬉しそうに誤答へ丸つけない」
「嬉しそうではない」
「そういうことにしといてあげる」
言い返す前に、彼女は購買へ行ってしまった。
誤答。
その言葉が小さく引っかかる。
でも、じゃあ何が違うんだ。
氷見坂は瀬名の方を見ていた。実況も甘かった。ここで瀬名説を強めるのは自然な判断だろう。
俺はそう自分に言い聞かせた。
だが本当のところ、実況が甘いほど、俺の判断は少しずつ雑になっている気もした。
情報が多すぎると、人はかえって見たい形に整えてしまう。
それは観察じゃなくて編集だ。
俺はまだ、その境目をうまく掴めずにいた。
*
午後の準備時間、俺は看板用の絵の具を取りに美術室へ走り、次に購買裏の倉庫へ脚立を取りに行き、その足で教室へ戻った。
神代の指示は的確だが、その分、雑用係の移動量は増える。
ありがたいような、ありがたくないような。
教室へ戻ると、氷見坂が黒板前で紙を貼っていた。
脚立の位置が少し高い。
「そこ、俺やる」
「……平気」
「落ちたら困る」
俺が脚立を押さえると、氷見坂は少しだけ迷ってから頷いた。
貼り終わるまでの数秒、距離が近い。
実況がすぐ入る。
『近い。高低差のせいで近い。これは不意打ちです。心臓の準備ができていません』
高低差の問題らしい。
俺はなるべく上を見ないようにしながら脚立を支えた。
「もう少し右」
「……これくらい?」
「うん」
『会話が成立している。日常会話です。事件です』
大げさだな、と心の中でだけ返す。
貼り終えた氷見坂が下りるとき、靴底がぐらついた。俺は反射的に手を伸ばし、肘を支える。
一瞬だけ、彼女の体温が伝わる。
『危険です。接触。接触が発生しました。実況席、現在大混乱です』
「悪い」
「……ううん」
表情は変わらない。
だが、耳が少し赤い。
これもまた、本命に近づく練習の一環なのだろうか。
いや、練習というには実況が本気すぎる。
そこまで考えて、俺はすぐ打ち消した。
違う。
今ここで変な方向へ考えを滑らせるな。
氷見坂の感情が大きく動くのは事実だとしても、その原因が俺だと決める根拠にはならない。
俺は脚立を片づけながら、わざと瀬名の方を見た。
体育会系の作業着姿で、段ボールを軽々運んでいる。ああいう分かりやすい方が、たぶん普通はモテる。
*
放課後、教室の人数が減ったころ、俺は氷見坂の動きが少し落ち着かないことに気づいた。
窓際でノートを開き、閉じ、また開く。視線が何度か俺の方角へ来て、途中で逸れる。
神代は実行委員会へ行き、瀬名は部活へ向かった。
教室には俺と陽菜、それから数人の女子が残っているだけだ。
実況が、珍しくはっきりした未来形で落ちてきた。
『放課後。二人きりで聞く。今日こそ聞く。逃げるな私』
俺は手を止めた。
二人きりで聞く。
ついに来た。
告白相談だ。
いや、相談かどうかは分からないが、少なくとも本命について聞くつもりなのだろう。好きな相手が何を喜ぶか。どう誘えばいいか。そういう相談なら筋が通る。
しかもタイミング的に、候補者が絞れてきた今だからこそ聞きやすい。
俺はノートの端に小さく書く。
放課後、二人きりで聞く。
瀬名本命説、強。
「颯太」
陽菜が低い声で呼んだ。
「今、何を確信したの」
「してない」
「した顔」
「お前は人の顔の分類が細かすぎる」
「仕事だから」
「何の」
「誤読監視員」
訳が分からない。
だが、陽菜の目は少しだけ本気だった。
「ねえ颯太。もし誰かがあんたに何か聞くとして、それが本当にあんたの思ってる話だって、何で言えるの」
「実況の流れ」
「それ、主語ないんでしょ」
言い返せなかった。
だがそのとき、氷見坂が立ち上がる気配がした。
俺と陽菜は同時にそちらを見る。
氷見坂はこっちへ来ようとして、女子二人に呼び止められた。文化祭の衣装の件らしい。足が止まる。
実況だけが、切羽詰まっていた。
『今じゃない。いや今しかない。けど人がいる。どうする。どうする私』
俺は思った。
やっぱりそうだ。
これは本命の相談だ。
もし相手が瀬名なら、今夜あたりメッセージを送るのかもしれない。もし神代なら、文化祭準備の流れで自然に誘うつもりかもしれない。
氷見坂みたいに言葉数の少ないやつが、誰かに踏み込むためにここまで準備している。
その事実だけは、少しすごいと思った。
陽菜は頭を抱えるみたいに片手で額を押さえた。
何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
教室の時計が五時を回る。
窓の外は少し赤い。
氷見坂は女子との会話を終え、ようやくこちらを見た。
その黒い瞳が、今度こそまっすぐ俺へ向く。
実況が小さく、でもはっきり響いた。
『放課後、二人きりで聞く』
俺は無意識に背筋を伸ばした。
ついに、来る。
氷見坂葉月の本命に関する、決定的な相談が。
そしてその相談相手に選ばれた理由を、俺はたぶん根本から間違えたまま、静かに期待していた。




