表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
6/30

第6話 笑わない理由

 人の変化に気づくのは得意だ。

 でも、その理由までは分からない。

 それが俺の限界だと、昔から知っている。

 味噌汁の蓋を少しずらしてほしい客の気配は読めても、その人が昨日どんな夜を過ごしたのかまでは分からない。学校で作り笑いをしているやつがいれば気づけるが、何を隠しているかまでは触れない。


 見えるのは、今この瞬間の端っこだけだ。

 だから昨日、体育倉庫で見た氷見坂の口元の揺れと、その直後の硬さが、朝になっても頭から離れなかった。

 笑いそうになって、閉じた。

 しかも、ただ照れたという感じじゃない。

 見られた瞬間、身を守るみたいに閉じた。

 あれは何だ。

 俺は答えのないまま、大根を刻んでいた。


「颯太、今日ちょっと危ない」

 母さんが味噌汁をよそいながら言う。

「何が」

「包丁の音。考え事してるときのリズム」

 母さんは本当に細かい。

 俺は包丁を置いた。

「そんな分かる?」

「分かるよ。あんた、人のことばっか見てるくせに、自分のこと見えてないから」

 最近いろんな方面から同じことを言われている気がする。

「……そんなにか」

「そんなに」


 母さんはため息まじりに笑った。

「まあ、考え事の中身までは聞かないけど。玉ねぎ切ってるときだけは気をつけな」

「了解」


 中身まで聞かれたら困る。

 同級生の無表情美少女の脳内実況が聞こえる上に、その子が笑えない理由を考えています、なんて言ったら、病院か恋愛相談の二択になる。

 そして俺には、そのどちらの準備もない。


   *


 学校へ着くと、陽菜が珍しく朝から写真立てみたいなものを抱えていた。


「何それ」

「文化祭で使うかもしれない昔の写真。クラスの思い出コーナー案が出てるんだって」

「へえ」

 何気なく覗き込んで、俺は止まった。

 写真の端に、見覚えのある横顔が写っていたからだ。


「……これ」

「ああ、氷見坂さん」


 中学の体育祭らしかった。ジャージ姿の生徒が何人も並んでいて、その中に氷見坂がいる。

 今より少し髪が短い。

 そして何より、笑っていた。

 はっきりと。

 口元だけじゃない。目まで細くして、隣の誰かに向かって笑っている。

 別人みたい、というほどではない。

 ちゃんと氷見坂だ。

 でも今の彼女を知っている俺からすると、その笑顔は驚くほど遠かった。


「……笑うんだな」

「そりゃ笑うでしょ、人間なんだから」

「いや、そうじゃなくて」


 自分でも妙なことを言っていると思う。

 陽菜は写真を見下ろし、少しだけ表情をやわらげた。


「中学の最初の頃は、今より普通に喋ってたよ。静かではあったけど」

「最初の頃は、ってことは」

「途中から今みたいになった」

 そこで陽菜は口を閉じた。

「理由は?」

「知らない」


 即答だったが、少しだけ間があった。

 全部知らないか、全部は言わないか。そのどちらかだ。

 幼馴染の勘で言えば、後者寄りの間だった。


「……そっか」

「気になる?」

「まあ」


 俺が曖昧に答えると、陽菜は写真立てを俺の顔の前から取り上げた。


「気にするのはいいけど、勝手に答え作らないこと」

「最近そればっかり言うな」

「必要だから」


 そう言って教卓の方へ行ってしまう。

 写真の中の氷見坂の笑顔だけが、しばらく頭に残った。

 笑えない人じゃなかった。

 笑わなくなった人だ。

 その違いは大きい。

 できないのと、しないのは違う。

 怖いのかもしれないし、やめたのかもしれないし、やめるしかなかったのかもしれない。

 理由が一つとも限らない。

 でも少なくとも、今の氷見坂だけを見て「そういう人なんだ」と決めつけるのは違うと分かった。

 人は変わる。

 けれど、その変化をいつも本人が望んで選んだとは限らない。


   *


 一時間目のあと、氷見坂は窓の外を見ていた。

 風の強い日で、カーテンが少し揺れている。彼女の視線は外にあるのに、焦点はどこか別のところにある感じがした。

 実況が入る。


『今日はうまく笑えたら変だろうか。いや変です。昨日あれだけで限界だった。そもそも私は何を目指しているのか』


 昨日のことを引きずっているのは、どうやら俺だけじゃなかったらしい。

 だが実況はそこまでで途切れた。

 主語がないどころか、説明もない。感情の断片だけが落ちてくる。

 俺は写真の笑顔を思い出しながら、今の氷見坂の横顔を見た。

 同じ顔なのに、何かをずっと押しとどめている。

 それが笑いなのだとしたら、理由はやはり過去にあるのかもしれない。

 でも、勝手に悲劇をでっち上げるのも違う。

 人が笑わなくなる理由なんて、一つとは限らないのだから。


   *


 次の休み時間、廊下ですれ違った女子が氷見坂に「文化祭の係、似合いそうだよね」と笑っていた。

 悪意のない言い方だった。

 むしろ褒め言葉として発されたものだ。

 氷見坂も「……そうかな」と短く返していた。

 ただ、その直後に袖口をつかむ指先がわずかに強くなるのを、俺は見てしまった。

 似合う。

 その言葉が相手を助けることもあれば、逃げ道を消すこともある。

 俺は急に、昨日倉庫で見た閉じ方を思い出した。


 昼休み、陽菜が購買で焼きそばパンを取り損ねて戻ってきた。

「負けた」

「戦ってたのか」

「購買は戦場」

「うちの店も朝は似たようなもんだ」

「で、颯太。今日は何見てるの」

「氷見坂」

「開き直った」

「昨日、ちょっと気になることがあって」

 俺が声を落とすと、陽菜も冗談っぽさを少し引っ込めた。

「笑いそうになって、すぐ戻ったんだ。見られた瞬間に」

「ふうん」

「前は普通に笑ってたんだろ。何かあったのか」

 陽菜は机に顎をのせ、少しだけ考える。

「あるかもね」

「知らないんじゃなかったのか」

「知らないよ。ちゃんとは」

「ちゃんとじゃない方は?」

「人ってさ、嫌なことがあったあと、急に何かをやめることあるじゃん」


 答えのようで、答えじゃない言い方だった。

 でも、たぶんそれが陽菜の限界線なんだろう。

 本人から聞いていないことを、勝手に説明する気はない。

 そういうところは信用できる。


「颯太」

「何」

「助けたいって顔してるけど、助け方間違えないでよ」

 図星だった。

 俺は少しだけ視線をそらす。

「別に、俺に何ができるか分からん」

「分からないなら、なおさら決めつけないこと」

 今日の陽菜の小言は妙に刺さる。

 たぶん半分以上当たっているからだ。


   *


 放課後、文化祭実行委員の軽い打ち合わせがあるらしく、教室には何人か残っていた。

 俺は備品運びを頼まれて、廊下のコピー機前まで資料を取りに行く。

 戻る途中で神代と鉢合わせた。


「灯里くん、ありがとう。先生が助かったって」

「いや、別に」


 神代は相変わらず誰に対しても感じがいい。

 穏やかで、押しつけがましさがない。そのくせ場を自然に仕切る。

 こういうやつは、本人が思っている以上に信用を集める。

 そして本人が思っている以上に、人に役割を与える。

 なぜそんなことを思ったのか、自分でも少し不思議だった。

 ただ、神代が教室の中を見た瞬間、その視線が氷見坂で止まったからかもしれない。


 氷見坂は窓際で、配られた企画案の紙を見ていた。表情はいつも通りだ。

 けれど昨日の「見られた」が頭に残っている俺には、その無表情が前より少し固く見えた。

 神代は教室へ入り、自然な声で言う。


「みんな、ちょっといいかな」

 何人かが顔を上げる。陽菜が「はいはい」と手を止めた。

 神代は手元の紙を軽く上げる。


「今年の文化祭、二年三組は展示と小ステージを組み合わせたいと思ってるんだ。テーマはまだ仮だけど、ちょっと象徴になる存在がほしくて」


 象徴。

 その言い方に、俺はなぜか少し引っかかった。

 神代は迷いなく視線を向ける。

 氷見坂へ。


「氷見坂さん」

「……はい」

「今年の文化祭の顔になってくれないかな」


 教室の空気が、そこでほんの少しだけ変わった。

 誰かが「似合いそう」と小さく言う。

 たしかに似合うのだろう。無表情で、綺麗で、目を引く。そういう言葉で片づいてしまうほど、外から見た氷見坂は完成されている。


 でも俺は、昨日の倉庫で見た一瞬を知っている。

 笑いかけて、すぐ閉じた口元。

 見られた、というあの冷えた声。

 だからその提案に、妙なざらつきを感じた。

 氷見坂はすぐには返事をしなかった。

 紙を持つ指先が、わずかに動く。

 実況は――聞こえない。

 静かすぎて、逆に嫌な感じがした。

 もし本当に嫌なら断ればいい、と外からは思えるのかもしれない。

 でも断れない人間がいることを、俺は食堂で何度も見てきた。


 いらないおかずを「大丈夫です」と受け取る客。

 疲れているのに「平気です」と笑う会社員。

 人は追い詰められると、拒否より先に相手を安心させる言葉を選ぶことがある。

 氷見坂が今どちら側なのか、俺にはまだ断定できない。

 できないのに、嫌な予感だけが募っていく。

 神代は責めるでもなく、穏やかに続ける。


「もちろん無理にとは言わないよ。でも、氷見坂さんにしか出せない雰囲気があるから」


 氷見坂にしか出せない雰囲気。

 それが褒め言葉なのか、檻の形をした依頼なのか、その時点の俺にはまだ判断がつかなかった。

 ただ、彼女の返事を待つ教室の空気がやけに重い。

 陽菜も笑っていない。

 俺は無意識に拳を握っていた。

 もし氷見坂が困っているなら、何か言うべきか。

 でも何を。何を根拠に。


 俺は彼女の事情を知らない。笑わない理由も知らない。なのに口を挟めば、それこそ分かったふりになる。

 迷っているうちに、陽菜が一瞬だけ俺を見た。

 何か言うのかと思ったが、彼女も口を開かなかった。

 たぶん、見ているだけでは足りない場面と、見ているしかない場面の境目を、陽菜も測っているのだ。

 迷っているうちに、氷見坂がゆっくり顔を上げた。


「……私で、いいなら」


 教室の空気が少しだけほどける。誰かが拍手を始め、数人が追随する。

 神代は満足そうに微笑んだ。

「ありがとう。絶対、似合うと思う」

 その言葉に、俺の胸の奥が妙にざわついた。

 似合う。

 それはたぶん正しい。


 でも、正しいことがいつも相手のためになるとは限らない。

 氷見坂は席へ座り直し、配布された紙を見下ろした。相変わらず表情はない。

 ないのに、なぜか昨日よりずっと遠く見えた。

 そして遅れて、ほんの一瞬だけ実況が戻る。


『……やだ』


 あまりにも小さく、あまりにもはっきりしたその一言に、俺は息を止めた。

 顔を上げたときには、もう氷見坂は何も言わず、ただ静かに企画書を見つめていた。

 教室の誰も気づいていない。

 俺だけが、その「やだ」を聞いた。

 聞いてしまった。

 なのに、何をどうすればいいのかだけは、まるで分からなかった。

 クラスのみんなは、氷見坂が役に選ばれたことを自然な流れとして受け止めている。

 似合うから。目立つから。きっと成功するから。

 どれも間違ってはいないのだろう。

 でも、間違っていないことが、本人の本音と一致している保証はどこにもない。


 その日の帰り道、夕方のホームで電車を待ちながらも、頭の中ではずっとあの一言が反響していた。

 やだ。

 主語も飾りもない、たった二文字。

 それなのに、これまで聞いたどの実況よりも重かった。

 そして俺は、そこでようやく気づく。

 俺は氷見坂の本命探しをしているつもりだった。

 でも今、知りたいのはそんなことじゃない。

 あいつが、どうして笑わなくなったのか。

 どうして嫌だと言えないのか。


 それを知らないまま、恋を応援するなんてたぶん無責任だ。

 電車がホームへ滑り込む音の中で、俺は小さく息を吐いた。

 次は、間違えたくない。

 そう思った直後、頭の奥でまた微かに声がした。


『……助けて』


 振り向いても、そこに氷見坂はいない。

 それでも確かに、聞こえた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ