第6話 笑わない理由
人の変化に気づくのは得意だ。
でも、その理由までは分からない。
それが俺の限界だと、昔から知っている。
味噌汁の蓋を少しずらしてほしい客の気配は読めても、その人が昨日どんな夜を過ごしたのかまでは分からない。学校で作り笑いをしているやつがいれば気づけるが、何を隠しているかまでは触れない。
見えるのは、今この瞬間の端っこだけだ。
だから昨日、体育倉庫で見た氷見坂の口元の揺れと、その直後の硬さが、朝になっても頭から離れなかった。
笑いそうになって、閉じた。
しかも、ただ照れたという感じじゃない。
見られた瞬間、身を守るみたいに閉じた。
あれは何だ。
俺は答えのないまま、大根を刻んでいた。
「颯太、今日ちょっと危ない」
母さんが味噌汁をよそいながら言う。
「何が」
「包丁の音。考え事してるときのリズム」
母さんは本当に細かい。
俺は包丁を置いた。
「そんな分かる?」
「分かるよ。あんた、人のことばっか見てるくせに、自分のこと見えてないから」
最近いろんな方面から同じことを言われている気がする。
「……そんなにか」
「そんなに」
母さんはため息まじりに笑った。
「まあ、考え事の中身までは聞かないけど。玉ねぎ切ってるときだけは気をつけな」
「了解」
中身まで聞かれたら困る。
同級生の無表情美少女の脳内実況が聞こえる上に、その子が笑えない理由を考えています、なんて言ったら、病院か恋愛相談の二択になる。
そして俺には、そのどちらの準備もない。
*
学校へ着くと、陽菜が珍しく朝から写真立てみたいなものを抱えていた。
「何それ」
「文化祭で使うかもしれない昔の写真。クラスの思い出コーナー案が出てるんだって」
「へえ」
何気なく覗き込んで、俺は止まった。
写真の端に、見覚えのある横顔が写っていたからだ。
「……これ」
「ああ、氷見坂さん」
中学の体育祭らしかった。ジャージ姿の生徒が何人も並んでいて、その中に氷見坂がいる。
今より少し髪が短い。
そして何より、笑っていた。
はっきりと。
口元だけじゃない。目まで細くして、隣の誰かに向かって笑っている。
別人みたい、というほどではない。
ちゃんと氷見坂だ。
でも今の彼女を知っている俺からすると、その笑顔は驚くほど遠かった。
「……笑うんだな」
「そりゃ笑うでしょ、人間なんだから」
「いや、そうじゃなくて」
自分でも妙なことを言っていると思う。
陽菜は写真を見下ろし、少しだけ表情をやわらげた。
「中学の最初の頃は、今より普通に喋ってたよ。静かではあったけど」
「最初の頃は、ってことは」
「途中から今みたいになった」
そこで陽菜は口を閉じた。
「理由は?」
「知らない」
即答だったが、少しだけ間があった。
全部知らないか、全部は言わないか。そのどちらかだ。
幼馴染の勘で言えば、後者寄りの間だった。
「……そっか」
「気になる?」
「まあ」
俺が曖昧に答えると、陽菜は写真立てを俺の顔の前から取り上げた。
「気にするのはいいけど、勝手に答え作らないこと」
「最近そればっかり言うな」
「必要だから」
そう言って教卓の方へ行ってしまう。
写真の中の氷見坂の笑顔だけが、しばらく頭に残った。
笑えない人じゃなかった。
笑わなくなった人だ。
その違いは大きい。
できないのと、しないのは違う。
怖いのかもしれないし、やめたのかもしれないし、やめるしかなかったのかもしれない。
理由が一つとも限らない。
でも少なくとも、今の氷見坂だけを見て「そういう人なんだ」と決めつけるのは違うと分かった。
人は変わる。
けれど、その変化をいつも本人が望んで選んだとは限らない。
*
一時間目のあと、氷見坂は窓の外を見ていた。
風の強い日で、カーテンが少し揺れている。彼女の視線は外にあるのに、焦点はどこか別のところにある感じがした。
実況が入る。
『今日はうまく笑えたら変だろうか。いや変です。昨日あれだけで限界だった。そもそも私は何を目指しているのか』
昨日のことを引きずっているのは、どうやら俺だけじゃなかったらしい。
だが実況はそこまでで途切れた。
主語がないどころか、説明もない。感情の断片だけが落ちてくる。
俺は写真の笑顔を思い出しながら、今の氷見坂の横顔を見た。
同じ顔なのに、何かをずっと押しとどめている。
それが笑いなのだとしたら、理由はやはり過去にあるのかもしれない。
でも、勝手に悲劇をでっち上げるのも違う。
人が笑わなくなる理由なんて、一つとは限らないのだから。
*
次の休み時間、廊下ですれ違った女子が氷見坂に「文化祭の係、似合いそうだよね」と笑っていた。
悪意のない言い方だった。
むしろ褒め言葉として発されたものだ。
氷見坂も「……そうかな」と短く返していた。
ただ、その直後に袖口をつかむ指先がわずかに強くなるのを、俺は見てしまった。
似合う。
その言葉が相手を助けることもあれば、逃げ道を消すこともある。
俺は急に、昨日倉庫で見た閉じ方を思い出した。
昼休み、陽菜が購買で焼きそばパンを取り損ねて戻ってきた。
「負けた」
「戦ってたのか」
「購買は戦場」
「うちの店も朝は似たようなもんだ」
「で、颯太。今日は何見てるの」
「氷見坂」
「開き直った」
「昨日、ちょっと気になることがあって」
俺が声を落とすと、陽菜も冗談っぽさを少し引っ込めた。
「笑いそうになって、すぐ戻ったんだ。見られた瞬間に」
「ふうん」
「前は普通に笑ってたんだろ。何かあったのか」
陽菜は机に顎をのせ、少しだけ考える。
「あるかもね」
「知らないんじゃなかったのか」
「知らないよ。ちゃんとは」
「ちゃんとじゃない方は?」
「人ってさ、嫌なことがあったあと、急に何かをやめることあるじゃん」
答えのようで、答えじゃない言い方だった。
でも、たぶんそれが陽菜の限界線なんだろう。
本人から聞いていないことを、勝手に説明する気はない。
そういうところは信用できる。
「颯太」
「何」
「助けたいって顔してるけど、助け方間違えないでよ」
図星だった。
俺は少しだけ視線をそらす。
「別に、俺に何ができるか分からん」
「分からないなら、なおさら決めつけないこと」
今日の陽菜の小言は妙に刺さる。
たぶん半分以上当たっているからだ。
*
放課後、文化祭実行委員の軽い打ち合わせがあるらしく、教室には何人か残っていた。
俺は備品運びを頼まれて、廊下のコピー機前まで資料を取りに行く。
戻る途中で神代と鉢合わせた。
「灯里くん、ありがとう。先生が助かったって」
「いや、別に」
神代は相変わらず誰に対しても感じがいい。
穏やかで、押しつけがましさがない。そのくせ場を自然に仕切る。
こういうやつは、本人が思っている以上に信用を集める。
そして本人が思っている以上に、人に役割を与える。
なぜそんなことを思ったのか、自分でも少し不思議だった。
ただ、神代が教室の中を見た瞬間、その視線が氷見坂で止まったからかもしれない。
氷見坂は窓際で、配られた企画案の紙を見ていた。表情はいつも通りだ。
けれど昨日の「見られた」が頭に残っている俺には、その無表情が前より少し固く見えた。
神代は教室へ入り、自然な声で言う。
「みんな、ちょっといいかな」
何人かが顔を上げる。陽菜が「はいはい」と手を止めた。
神代は手元の紙を軽く上げる。
「今年の文化祭、二年三組は展示と小ステージを組み合わせたいと思ってるんだ。テーマはまだ仮だけど、ちょっと象徴になる存在がほしくて」
象徴。
その言い方に、俺はなぜか少し引っかかった。
神代は迷いなく視線を向ける。
氷見坂へ。
「氷見坂さん」
「……はい」
「今年の文化祭の顔になってくれないかな」
教室の空気が、そこでほんの少しだけ変わった。
誰かが「似合いそう」と小さく言う。
たしかに似合うのだろう。無表情で、綺麗で、目を引く。そういう言葉で片づいてしまうほど、外から見た氷見坂は完成されている。
でも俺は、昨日の倉庫で見た一瞬を知っている。
笑いかけて、すぐ閉じた口元。
見られた、というあの冷えた声。
だからその提案に、妙なざらつきを感じた。
氷見坂はすぐには返事をしなかった。
紙を持つ指先が、わずかに動く。
実況は――聞こえない。
静かすぎて、逆に嫌な感じがした。
もし本当に嫌なら断ればいい、と外からは思えるのかもしれない。
でも断れない人間がいることを、俺は食堂で何度も見てきた。
いらないおかずを「大丈夫です」と受け取る客。
疲れているのに「平気です」と笑う会社員。
人は追い詰められると、拒否より先に相手を安心させる言葉を選ぶことがある。
氷見坂が今どちら側なのか、俺にはまだ断定できない。
できないのに、嫌な予感だけが募っていく。
神代は責めるでもなく、穏やかに続ける。
「もちろん無理にとは言わないよ。でも、氷見坂さんにしか出せない雰囲気があるから」
氷見坂にしか出せない雰囲気。
それが褒め言葉なのか、檻の形をした依頼なのか、その時点の俺にはまだ判断がつかなかった。
ただ、彼女の返事を待つ教室の空気がやけに重い。
陽菜も笑っていない。
俺は無意識に拳を握っていた。
もし氷見坂が困っているなら、何か言うべきか。
でも何を。何を根拠に。
俺は彼女の事情を知らない。笑わない理由も知らない。なのに口を挟めば、それこそ分かったふりになる。
迷っているうちに、陽菜が一瞬だけ俺を見た。
何か言うのかと思ったが、彼女も口を開かなかった。
たぶん、見ているだけでは足りない場面と、見ているしかない場面の境目を、陽菜も測っているのだ。
迷っているうちに、氷見坂がゆっくり顔を上げた。
「……私で、いいなら」
教室の空気が少しだけほどける。誰かが拍手を始め、数人が追随する。
神代は満足そうに微笑んだ。
「ありがとう。絶対、似合うと思う」
その言葉に、俺の胸の奥が妙にざわついた。
似合う。
それはたぶん正しい。
でも、正しいことがいつも相手のためになるとは限らない。
氷見坂は席へ座り直し、配布された紙を見下ろした。相変わらず表情はない。
ないのに、なぜか昨日よりずっと遠く見えた。
そして遅れて、ほんの一瞬だけ実況が戻る。
『……やだ』
あまりにも小さく、あまりにもはっきりしたその一言に、俺は息を止めた。
顔を上げたときには、もう氷見坂は何も言わず、ただ静かに企画書を見つめていた。
教室の誰も気づいていない。
俺だけが、その「やだ」を聞いた。
聞いてしまった。
なのに、何をどうすればいいのかだけは、まるで分からなかった。
クラスのみんなは、氷見坂が役に選ばれたことを自然な流れとして受け止めている。
似合うから。目立つから。きっと成功するから。
どれも間違ってはいないのだろう。
でも、間違っていないことが、本人の本音と一致している保証はどこにもない。
その日の帰り道、夕方のホームで電車を待ちながらも、頭の中ではずっとあの一言が反響していた。
やだ。
主語も飾りもない、たった二文字。
それなのに、これまで聞いたどの実況よりも重かった。
そして俺は、そこでようやく気づく。
俺は氷見坂の本命探しをしているつもりだった。
でも今、知りたいのはそんなことじゃない。
あいつが、どうして笑わなくなったのか。
どうして嫌だと言えないのか。
それを知らないまま、恋を応援するなんてたぶん無責任だ。
電車がホームへ滑り込む音の中で、俺は小さく息を吐いた。
次は、間違えたくない。
そう思った直後、頭の奥でまた微かに声がした。
『……助けて』
振り向いても、そこに氷見坂はいない。
それでも確かに、聞こえた気がした。




