第5話 距離感バグり実況
体育の授業には、二種類の面倒がある。
一つは純粋に体を動かすこと。
もう一つは、ペア決めだ。
高校二年にもなって何を、と思うかもしれないが、ペア決めには人間関係の縮図が詰まっている。すぐ組めるやつ、余るやつ、余らないように目立たず動くやつ。誰と誰が自然に並ぶかで、その教室の見えない線がだいたい分かる。
そして今日の俺には、そこへさらに一つ面倒が追加されていた。
氷見坂葉月の本命候補と、どう自然に接点を作らせるか。
我ながら余計なお世話である。
自覚はある。
でも、体育みたいな接触の多い場面は、恋愛イベントが起きやすい。漫画でもドラマでも、ボール一つで距離が縮まる。現実はそこまで都合よくなくても、きっかけにはなる。
氷見坂が誰かを好きなら、こういう場面を使いたいはずだ。
……たぶん。
俺は更衣をしながら、候補者リストを頭の中で並べた。
瀬名亮。運動が得意で人気者。体育イベントとの相性は高い。
神代司。立ち回りがうまく、誰と組んでも自然。だが、こういう場では裏方に回ることも多い。
あとは保留。
そして、当然ながら俺の名前は除外。
昨日、氷見坂に名前を呼ばれたからといって調子に乗るほど、俺は自分に都合よくできていない。
あれはたぶん練習だ。
練習台がたまたま俺だっただけ。
そう考えていれば安全だ。
たぶん。
*
体育館に入ると、床のワックスの匂いがした。
今日の種目はバドミントン。二人一組でラリーを続け、回数を競うらしい。
ただラケットを振るだけの授業なのに、こういう日は教室の空気が少しだけ浮つく。
運動が得意なやつは目立つし、苦手なやつはどう失敗を軽く見せるか考える。見ていると、普段の席順や成績とは別の序列が一瞬だけ立ち上がる。
そういうとき、人は案外わかりやすい。
誰と目を合わせるか。誰から視線を逸らすか。余ったときに誰の近くへ寄るか。
だからこそ、俺は余計に神経を使っていた。
氷見坂が誰を見て、誰を避けるのか。
そこに本命のヒントがあるかもしれないと思ったからだ。
先生が笛を鳴らす。
「はい、ペア作れー。余ったらこっちで決めるぞー」
ざわっと人が動く。
俺は真っ先に瀬名を探した。案の定、すでに何人かに声をかけられている。こういう場で迷いがないやつは強い。女子側からも軽く名前が飛んでいて、本人はいつもの調子で笑っていた。
神代は先生の横でシャトルの籠を受け取っている。あいつは体育の時間まで自然に仕事を見つける。
そして氷見坂は、コートの端に立っていた。
ラケットを持つ手が少し固い。誰かに声をかけるでもなく、完全に避難しているわけでもなく、ただ待っているように見える。
実況が入る。
『来た。来てしまった。ペア決めという名の公開処刑。言え。今こそ言え。灯里く――いや無理。声帯がない。どこへ行った』
また俺の名前だ。
だが落ち着け。ここで都合よく解釈したら負けだ。
たまたま今、近くにいるから。たぶんそれだけ。
俺は氷見坂の近くまで歩き、なるべく自然な声で言った。
「まだ相手決まってないのか」
「……うん」
『話しかけられた。近い。朝から近い。いや朝ではない。思考が雑になっている。危険』
「瀬名、まだ空いてるぞ」
俺が顎で示すと、氷見坂は一瞬だけそちらを見た。
表情は変わらない。けれど実況は一気に荒れた。
『そこじゃない。違う。違う違う違う。なぜそこへ誘導するのですか。私は今、目的地を見失った観光客です』
観光客みたいな顔はしていない。
相変わらず無表情だ。
でも、否定の圧はものすごかった。
瀬名じゃないのか、と俺が迷った瞬間、横から陽菜が割り込んできた。
「はいはい、余りもの出る前に決めるよー。颯太、氷見坂さん、まだでしょ」
「え」
「小林さん」
陽菜はにっこり笑う。
「同じクラス同士でちょうどいいじゃん」
「いや、でも」
「でも何。バドミントンで婚姻届出すわけじゃないんだから」
「言い方」
ちょうどそのとき先生がこちらを見て、「そこ二人組なー」と雑に決定してしまった。
逃げ道が消えた。
氷見坂は小さく「……うん」とだけ言う。
実況は大惨事だった。
『決まった。決まってしまった。緊急速報。ペア確定。相手は灯里颯太。心臓がアップを始めました。いや本番前に退場する』
違う。
これは違う。
陽菜が勝手に組ませただけだ。
そこに恋愛的な意味を見出すな、俺。
そう思うほど、実況の温度だけが悪かった。
*
「じゃあ三分間ラリー。落としたら最初から数え直しな」
笛が鳴る。
俺と氷見坂はコートの両端に立った。
体育館の照明を背にした彼女の黒髪が少しだけ揺れる。ラケットを構える姿まで妙にきれいで、神様は本当に配分を考えるべきだと思う。
「無理しなくていいから。ゆっくり返せば続く」
「……うん」
『優しい。開幕から優しい。そういうフォローを自然に入れないでください。ラリーより心拍数がもたない』
シャトルを上げる。
思ったより、氷見坂は下手じゃなかった。派手な動きはしないが、まっすぐ、丁寧に返してくる。
「うまいな」
「……普通」
『褒められた。普通を褒められた。今日の私はたぶん普通ではない』
十回、十五回、と続く。
その間も俺は考えていた。
瀬名ではないなら神代か。あるいはまだ候補に挙げていない誰かか。
氷見坂の視線は当然こっちに向いているが、それはラリー中だからであって、恋愛の証拠にすると人類だいたい両想いになる。
隣のコートからシャトルが飛び込んできた。
俺はとっさに手を伸ばし、氷見坂の足元へ行く前に拾う。
「悪い!」
隣の男子が叫ぶ。
「平気」
氷見坂の口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
その瞬間、実況はスポーツ中継になった。
『灯里選手、ここで他コートからの乱入シャトルを見事処理! 会場が沸いています! 私の中だけで!』
体育だからスポーツ実況になるのか。適応力が妙に高いな、この脳内アナウンサー。
変なところで感心しているうちに、氷見坂の返したシャトルが少し甘く浮く。俺は前へ出て、なるべく優しく返した。
距離が縮まる。
コート中央あたりで、互いの影が重なる。
『近い。近い。近い。これは反則です。コートサイズの見直しを要求します』
「ごめん、前出すぎた」
「……ううん」
『謝らないで。もっと近くても……いやだめです。だめなのか。分からない』
本当に分からないのはこっちだ。
俺は一定のテンポを保ち、ラリーを続けた。三分後、記録は三十八回。クラスでも上位だった。
「けっこう続いたな」
「……灯里くんが、合わせてくれたから」
また名前を呼ばれて、俺はわずかに返事が遅れる。
「いや、氷見坂もちゃんと返してた」
『また呼べた。しかも会話が成立した。今日は祝日?』
違う。平日だ。
そう心の中で訂正しながらも、分からなくなる。
練習にしては、実況の喜び方が本気すぎる。
だが、それを俺への好意と断定するには、俺の中の常識が強く抵抗した。
人は自分に都合のいい誤読をしやすい。
だから、そこだけは疑う。
疑うくせに、名前を呼ばれるたび少しだけ反応してしまう自分がいるのも厄介だった。
体育館のざわめきに混ざって聞く「灯里くん」は、教室で聞くより近い。
運動で息が上がっているせいかもしれないし、単に俺の頭がおかしくなっているだけかもしれない。
どっちにしても、冷静ではいたかった。
*
授業後半、記録係の仕事で体育倉庫へ行くことになった。
本来なら体育委員の役目だが、先生が手を離せず、陽菜がさっと手を挙げた。
「じゃあ倉庫整理、颯太と氷見坂さんお願い」
「またか」
「まただね」
陽菜は俺にだけ聞こえる声で、「せいぜい見てきなよ」と囁いた。
嫌な予感しかしない。
体育館の隅の倉庫は薄暗く、ゴムと木材の匂いがした。旧放送室ほどではないが、やはり学校の裏側の空気だ。
「上の箱、届くか」
「……少しなら」
「危ないから俺が取る」
棚の上へ手を伸ばした瞬間、下から箱を支えようとした氷見坂の肩が俺の腕に触れた。
ほんの一瞬。
それだけで実況が爆発する。
『接触が発生しました。これは偶然です。偶然ですが心臓には通じません。倉庫、急に狭くなっていませんか』
「ごめん」
「……ううん」
俺は箱を床に下ろした。
二人で同じ箱を覗き込めば、距離は自然と近くなる。旧放送室のときも、たぶんこんな感じだった。
氷見坂は膝をつき、シャトルの筒を数え始める。俺も反対側にしゃがむ。
「三ダースが二本、半端が……七」
「……八。一本、奥」
「ほんとだ」
『見つけた。えらい。褒められる? 少しだけほしい』
「よく見つけたな」
「……見えたから」
少しだけ間を置いて、氷見坂はそう言った。
俺の口癖を真似したつもりかもしれない。
それが少しおかしくて、思わず笑いかける。
「俺の真似?」
氷見坂が一瞬だけ目を丸くした。
「……ちが、う」
『違わない。少しだけ真似した。ばれた。終わった。穴があったら入りたい』
そのときだった。
彼女の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑う、一歩手前。
完全な笑顔じゃない。ただ、固く閉じられていた扉が一ミリだけ開いたみたいな揺れだった。
俺は息を止める。
きれいだ、と思った。
顔立ちの話じゃない。今までずっと見えなかったものが、ほんの少しだけ見えたことへの驚きに近い。
「氷見坂、お前――」
言いかけた瞬間、彼女の表情が消えた。
消えたというより、閉じた。
扉が勢いよく戻るみたいに。
実況の温度も急に変わる。
『見られた』
さっきまでの騒がしさが、そこで途切れた。
倉庫の空気が一段冷えた気がする。
氷見坂は視線を落とし、手元のシャトルを並べ直した。指先がわずかに震えている。
「……数、合ってる」
「あ、ああ」
俺もそれ以上何も言えなかった。
何を見たのか、まだ整理できていない。
ただ、笑いかけたその直後に、彼女が明らかに身を引いたことだけは分かった。
偶然じゃない。
笑うことそのものか、笑った顔を見られることか、そのどちらかに、氷見坂は強く身構えている。
倉庫を出るころには実況は戻っていなかった。
体育館の明るさの中に戻っても、俺の胸にはあの一言だけが残っていた。
見られた。
それは単なる照れの響きではなかった。
もっと古くて、固い何かを含んだ音だった。
授業が終わって教室へ戻る途中、氷見坂は俺の二歩前を歩いていた。
いつもと変わらない背筋。乱れない歩幅。けれど、右手だけが制服の袖を少し強く握っている。
それを見てしまうと、さっき倉庫で見たものが気のせいではないと分かる。
あの一瞬の揺れは、確かにあった。
そして今は、確かに閉じている。
放課後、陽菜に「どうだった」と聞かれても、俺はうまく答えられなかった。
「氷見坂、笑えそうだった」
それだけ言うと、陽菜は少しだけ目を細めた。
「へえ」
「でも、すぐ戻った」
「そう」
「……何か知ってるのか」
「知らないよ。あんたが見たものまでは」
その返し方が、妙に引っかかった。
けれど陽菜はそれ以上何も言わず、文化祭のプリントをまとめ始めた。
俺もそれ以上踏み込めない。
ただ、倉庫の奥で一瞬だけ開いた扉みたいな口元を、ずっと思い出していた。
そして同時に、あの扉が二度と開かないかもしれないという妙な不安も。
その夜、頭の中には実況ではなく、無音のまま消えたあの表情だけが残り続けた。




