第4話 名前呼び練習事件
氷見坂葉月に弁当を渡された翌朝、俺は味噌汁の湯気越しに自分の手元を見つめていた。
卵焼きの味が、まだ舌に残っている気がする。
いや、正確には味そのものじゃない。あの弁当を差し出した氷見坂の無表情と、その裏で勝手に大騒ぎしていた実況の温度差が、妙に記憶にこびりついていた。
『受け取った。受け取った。これはもう歴史です』
頭の中に、昨日の声が勝手によみがえる。
思い出すだけで疲れる。
「颯太、ぼーっとしてると味噌汁こぼすよ」
母さんに言われ、俺はあわててお盆を持ち直した。
「朝から何を考えてるの」
「別に」
「別にって顔じゃないのよねえ。青春?」
「違う」
「じゃあ借金?」
「なんで高校生の悩みがその二択なんだよ」
母さんは笑って、焼き鮭の皿を俺の手に載せた。
うちの母親は雑だが妙に鋭い。鋭いのに、核心だけはわざと外してくることがある。たぶん、俺が自分から話すまで待つ種類の大人だ。
助かる。
今の俺は、自分でも説明できない。
氷見坂の実況が聞こえる。
でも主語だけがない。
だから、あの「好き」が誰に向いているのか分からない。
そしてたぶん、今日も分からないままだ。
ただ一つ、昨日の旧放送室で聞いた予告だけははっきりしている。
『次は名前』
あれが今日の本題だ。
つまり氷見坂は今日、誰かの名前を呼ぶつもりでいる。
好きな相手の名前を。
そう考えると、朝から変に胃が落ち着かなかった。
別に俺が緊張する必要はないはずなのに、人の恋愛の本番前みたいな空気に巻き込まれると、こっちまで妙に構えてしまう。
俺は味噌汁を三番席へ運びながら、脳内の候補者リストを整理する。
瀬名亮。
神代司。
そのほか数名。
そして、そこに俺の名前は入れない。
入る理由がない。
昨日の弁当は礼だ。看板から庇ったお礼。そこに恋愛の主語を無理やり貼るのは、自意識過剰どころか事故に近い。
俺はそういう勘違いで人に迷惑をかけたくない。
だから今日も、観察だけする。
決めつけずに。冷静に。
――と、その時点では本気で思っていた。
*
教室へ入ると、氷見坂はもう席についていた。
窓際、二列目。文庫本を開く姿まできれいで、朝の光を受けても一ミリも騒がない。見慣れたはずなのに、今日は少し違って見えた。
右手の親指が、ページの端を何度もなぞっている。
読んでいない。落ち着いていない。
その瞬間、実況が始まる。
『おはようを言うか。いや無理。今日は名前。名前から入る? 難易度が高すぎる。まずは深呼吸。私は今、会話ではなく崖を登ろうとしている』
朝から重い。
しかも内容が完全に俺の仮説と一致していた。
名前を呼ぶ。やっぱり今日だ。
「おはよ、颯太」
背後から陽菜に肩をつつかれた。
「何ぼーっと氷見坂さん見てるの」
「見てない」
「見てたよ」
「観察だ」
「便利な言葉だねえ」
陽菜は机に肘をつき、ひそめた声で言う。
「で、今日は何を間違える予定?」
「人を前提から失敗させるな」
「だって昨日の時点でだいぶ順調だったし」
「意味が分からん」
「分からないままでいてください、迷探偵」
そう言って、陽菜は自分の席へ戻った。
迷探偵は余計だ。
だが探偵ではある。少なくとも、俺の頭の中では今日の事件名がもう決まっていた。
名前呼び練習事件。
俺はノートの端に、何となくクラス男子の名前を書き出した。
瀬名。神代。森。高槻。三田村。
呼びやすい音、言いにくい音、口の開き方。自分でも何をやっているのか分からないが、好きな相手の名前を呼ぶ前に発声練習をしたくなる気持ちは、なんとなく分かる。
たとえば「かみしろ」が本命なら、その前に「あかり」で口慣らしをする、とか。
……考えれば考えるほど無理のある理屈だが、実況の方がもっと無理なので、こちらも多少は無理をしていい気がしてくる。
しかも厄介なのは、俺がこの推理をわりと真面目にやっていることだった。
教室で好きな相手の名前を呼ぶ。
それだけのことなのに、氷見坂の中ではたぶん大事件なのだ。
だったら、失敗しないための練習があってもおかしくない。
おかしくない、はずだ。
たぶん俺の理屈は穴だらけだが、実況が本当に主語を削り取ってくる以上、こうでもしないと前へ進めない。
まるで、空欄だらけの答案用紙を前にして、消去法で正解を埋めようとしている気分だった。
ただ、その答案用紙に自分の名前を書き込む勇気だけは、どうしても持てない。
もしそこを見誤ったら、きっと冗談では済まない気がしたからだ。
*
一時間目の英語。
教科書を開きながら、俺は前の席の氷見坂の背中を見ていた。
正確には、見ないようにしても気になってしまっていた。
先生がペアで音読しろと言い、教室がざわつく。氷見坂は前の席の女子と普通に読み始めた。声は静かで、きれいで、緊張しているようには見えない。
だがページを閉じる直前、彼女の視線がふっとこっちへ流れた。
実況が入る。
『今ならいける? いや授業中。何を。名前を。たった四文字。人類は月に行った。なら私も灯里くんくらい呼べる』
俺はシャーペンの芯を折った。
今、俺の名前が出た。
だが、落ち着け。
実況に固有名詞が出たからといって、好きの主語が確定したわけではない。あくまで練習台だ。たぶん。
「灯里、読め」
隣の席の男子に小声で促され、俺はあわてて英文を追った。
危ない。もし今のやりとりで顔に出ていたら終わる。
俺は別に、氷見坂に好かれている前提で世界を見たいわけじゃない。むしろ逆だ。そういう誤読だけはしたくない。
人は、自分に都合のいい解釈を信じたがる。
だから俺は、そこだけは疑う。
疑わないと、観察はただの思い込みになる。
*
二時間目と三時間目の間の休み時間、氷見坂は先生に頼まれてプリントを配っていた。
ただそれだけの、何でもない時間だった。
列ごとに歩いて、机へ一枚ずつ置いていく。誰がやっても同じように終わる仕事だ。
俺の前で止まるまでは。
氷見坂はプリントを差し出し、口を開きかけた。
だが声にならない。
実況が激しく鳴る。
『今。今だ。プリントを渡す自然な流れ。名前を言え。呼べ。呼んでから渡せ。呼べ。呼――』
「……これ」
出てきたのは、それだけだった。
氷見坂はプリントを俺の机に置き、そのまま次の列へ行く。
俺は受け取った紙より、置いていかれた沈黙の方が重く感じた。
なるほど。
これはかなり重症だ。
好きな相手の名前を呼ぶだけで、ここまで難易度が上がるらしい。
俺はノートの端の男子名リストを、今度は少し本気で整え始めた。
音の近さ、母音の並び、呼びやすさ。
「何それ」
いつの間にか、陽菜が後ろから覗き込んでいた。
俺は反射的にノートを伏せる。
「見るな」
「見たよ。クラス男子一覧表?」
「違う」
「じゃあ何。暗殺リスト?」
「もっと平和だ」
「平和でもだいぶ気持ち悪いよ」
ひどい言われようだが、否定しづらい。
陽菜は俺のノートの端を指した。
「『呼びやすさ』ってなに」
「発声」
「誰の」
「一般論として」
「一般論で男子の名前を五十音順に採点しないで」
吹き出したあと、陽菜は少しだけ真面目な顔になった。
「颯太。あんたさ、相手の言えなさを勝手に別の話へ変換してない?」
「どういう意味だ」
「そのままの意味」
それだけ言って席へ戻っていく。
勝手に別の話へ変換している。
俺が?
だとしても、じゃあ正解は何だ。
氷見坂は何を言いたくて、何を飲み込んだ。
答えは相変わらず、主語のない実況の向こうに隠れていた。
*
昼休み、俺は弁当を食べながら何度も氷見坂の方を見てしまった。
向こうは小さなサンドイッチを静かに食べている。友達と群れるタイプではないが、孤立している感じとも少し違う。自分で距離を決め、その外側に立っているような座り方だ。
その水筒の蓋が少し固そうで、俺は立ち上がりかけてやめた。
助けに入れば実況が荒れる。いや、荒れるのは別にいいが、今は名前呼びが先だ。変に俺が前へ出ると、練習対象としてちょうどよすぎる。
そう考えているうちに、隣の女子が気づいて蓋を開けてやっていた。氷見坂は小さく頭を下げる。
実況は、入らなかった。
少しだけほっとした自分に気づいて、俺は微妙な気分になる。
何に安心しているんだ、俺は。
氷見坂が困らずに済んだからか。
それとも、俺が余計なことをしなくて済んだからか。
あるいは、俺の前でまた名前呼びの続きをされる状況を避けられたからか。
考えたくない答えほど、すぐ目の前まで来る。
俺はあわてて味噌カツパンにかぶりつき、思考ごと飲み込んだ。
冷めていたが、味はした。
少なくとも、昨日の卵焼きほど危険な味ではない。
あれはうますぎた。
料理のうまさまで本命候補の判断を狂わせるのだから、恋愛はたぶん食欲と相性が悪い。
*
五時間目のあと、次の授業担当が遅れて教室に数分の空白ができた。
ざわつく教室。その隙間を縫うように、氷見坂が立ち上がる。
そして、まっすぐ俺の席へ向かってきた。
心臓が一拍だけ速くなる。
二人きりじゃない。周りには何人もいる。だからこそ今なら自然に話しかけられる。そう判断したのかもしれない。
実況が鳴る。
『今しかない。用件はある。英語のノートでも何でもいい。名前を呼べ。呼ばないと一生ここで立ち尽くす』
氷見坂は俺の机の横で止まった。
「……あの」
「ん?」
彼女の喉が小さく動く。呼吸を一つ、二つ。
それから、絞り出すように言った。
「……灯里くん」
たった四文字。
なのに、その瞬間だけ教室のざわめきが遠くなった気がした。
俺は返事が半拍遅れた。
「え、あ、何」
氷見坂は一瞬だけ目を伏せる。
「……英語のノート、昨日のところ。見せてほしくて」
「ああ、いいけど」
俺はあわててノートを差し出した。
氷見坂はそれを受け取り、何事もなかったみたいに自分の席へ戻る。
歩幅も姿勢もいつも通りだ。
けれど実況だけが、とんでもないことになっていた。
『言えた。今、私は世界を救った。少なくとも自分の世界は救われた。記念日。国旗を掲げたい』
俺は机に肘をつき、額を押さえた。
俺の名前で世界を救わないでくれ。
勘違いしそうになるだろうが。
いや、違う。違う。
これは練習だ。
たぶん本命の名前を呼ぶ前段階として、比較的安全な相手である俺の名前を使っただけだ。
そう言い聞かせながらも、さっき呼ばれた音だけは妙に頭の中に残っていた。
灯里くん。
それをもう一度反芻しそうになって、俺はあわててノートの端を見る。
男子名リストのいちばん下に、小さく書き足してあった。
灯里。
自分で書いたくせに、すぐ二重線で消す。
違う。
これは違う。
そういう勘違いをしないために、俺は観察しているはずだ。
している、はずなのに。
その放課後、旧放送室で弁当箱を返したとき、氷見坂は受け取る前にほんの少しだけ躊躇った。
「……迷惑じゃ、なかった?」
「弁当? 全然。むしろ助かった」
『よかった。次もいける? いや次とは。お礼はもう使った。次は……』
実況が途切れる。
そして、最後に小さく落ちた。
『次は、もっとちゃんと呼びたい』
俺は弁当箱を持つ氷見坂の指先を見た。
強く握られたその手が、何に向かって伸びようとしているのか、まだ分からない。
分からないまま、それでも一つだけ確かなことがあった。
今日の名前呼びは、練習で終わっていない。
本番はたぶん、まだ先にある。
そしてその本番の相手が誰なのか、俺はまだ知らない。
知らないままなのに、妙に胸の内側だけが落ち着かなかった。
その夜、布団に入ってからも、氷見坂の「灯里くん」が何度も頭の中で再生された。
練習台の声にしては、少しだけ近すぎる。
でも、そこへ意味を足した瞬間に全部壊れる気もして、俺は目を閉じるしかなかった。
結局眠りに落ちる直前まで、俺の頭の中では主語のない実況ではなく、たった四文字の名前だけが残り続けていた。




