第3話 弁当の本命を探せ
翌朝、俺は普段より十五分早く登校した。
理由は簡単だ。
氷見坂葉月の弁当が、誰に渡るのかを確認するためである。
自分で考えていて、かなり気持ち悪い。
だが仕方ない。これは覗きではない。観察だ。いや、言い訳の響きが犯罪者に近い。よくない。
俺は昇降口の柱の陰に立ち、登校してくる生徒を見た。
人の流れは、朝の食堂に似ている。
急いでいる者。友人を待つ者。眠そうな者。スマホを見ながら歩く者。だいたいの感情は、歩幅に出る。
瀬名は八時十七分に来た。
部活用の大きなバッグを肩にかけ、同じバスケ部の男子と笑っている。明るい。朝から太陽みたいなやつだ。
氷見坂は八時二十二分に来た。
いつも通り無表情。
しかし、鞄の持ち方が違った。
左手で通学鞄を持ち、右手には淡い青色の小さなランチバッグ。布地の端を、指先でそっと押さえている。中身を崩さないようにしている動きだ。
手作り弁当、確定。
俺の心拍が少し上がった。
いや、俺が緊張することではない。氷見坂の恋愛イベントであって、俺はただの観察者だ。
氷見坂が昇降口に入る。
その瞬間、実況が入った。
『持ってきた。持ってきてしまった。重い。物理的には軽い。精神的に重い。渡せる?
渡せない? いや渡す。お礼。お礼です。合法です』
合法って何だ。
俺は靴を履き替えるふりをしながら、氷見坂の視線を追った。
彼女は周囲を見ている。
瀬名は少し前方。神代はまだ来ていない。俺は柱の陰。
氷見坂の目が、わずかに右へ動いた。
右には瀬名。
やはりか。
俺は朝の時点で、瀬名本命説を第一候補に引き上げた。
瀬名は人気者だが、悪いやつではない。数学のプリントを借りたときも、きちんと礼を言っていた。氷見坂が惹かれる理由はある。
問題は、瀬名の周囲には常に人がいることだ。
弁当を渡すには二人きりの隙が必要だろう。
つまり、俺が作るべきはその隙。
恋のキューピッドと呼ぶには地味すぎるが、やることは分かった。
「颯太」
背後から陽菜の声。
俺は肩を跳ねさせた。
「何してんの、柱と同化して」
「朝の人流調査」
「言い訳が弱い」
「文化祭の動線に使える」
「まだ企画も決まってないよ」
陽菜は俺の視線を追い、氷見坂と瀬名を見た。それから、俺を見た。
「あー」
「何だ」
「なるほどね」
「何がなるほどなんだ」
「颯太、今日一日でどれだけ間違えるか、ちょっと楽しみ」
「不吉なことを言うな」
「もう不吉は起きてるから」
陽菜はそれだけ言って、教室へ歩いていった。
どういう意味だ。
聞き返そうとしたが、氷見坂が階段を上がり始めたので、俺も追った。
距離は取る。
怪しまれないように。
しかし、氷見坂は二階の踊り場で足を止めた。
その先には瀬名がいた。友人に呼ばれ、振り向いている。
チャンスだ。
俺は心の中で拳を握った。
氷見坂、行け。
渡せ。
ランチバッグを今こそ。
『今。今です。前方に人。いや違う。違わない。渡す? 渡すなら今。心臓うるさい。お弁当が揺れる。中の卵焼きも震えている気がする』
氷見坂の指が、ランチバッグの持ち手を握り直した。
瀬名がこちらへ歩いてくる。
俺は自然を装って、階段の端に寄った。二人の間に余白を作る。
氷見坂が一歩、前に出る。
俺は息を止めた。
「氷見坂、おはよ」
瀬名が爽やかに言った。
「……おはよう」
『挨拶できた。えらい。けど違う。違う違う違う。今じゃない。いや今だけど、今じゃない』
違う?
何が違う。
瀬名が通り過ぎる。
氷見坂はランチバッグを胸の前に持ったまま、動かなかった。
俺は混乱した。
渡さないのか。
瀬名ではない?
そのとき、彼女の視線が一瞬だけ俺に向いた。
『見られた。無理。渡す? 今? いや人がいる。言葉が出ない。お礼。お礼なら普通。普通とは』
俺は理解した。
俺が見ているから渡せないのだ。
そりゃそうだ。
好きな相手に弁当を渡す瞬間を、ほとんど他人の男子に観察されたくはない。
俺は邪魔だった。
反省して、すぐ先に歩き出した。
背後で氷見坂が小さく息を吐く音がした。
うん。
俺は空気を読める男だ。
……と、そのときは思っていた。
*
一時間目が終わった休み時間、俺は瀬名を廊下へ誘導する作戦に出た。
方法は単純。
瀬名の友人に、体育館倉庫の鍵の件で呼ばれていると伝える。実際、体育委員の連絡板に瀬名の名前はあった。嘘ではない。
瀬名が教室を出る。
氷見坂も、ランチバッグを机の横にかけたまま、少しだけそちらを見た。
俺は席で息を潜めた。
行け、氷見坂。
今なら廊下で二人きりに近い。
『動く? 動ける? 今なら渡せる? でも灯里くんがこっち見てる。見てる? 見てないふりして見てる。優しい顔で余計なことしてる』
余計なこと。
俺は軽く傷ついた。
でも、恋路の邪魔をしている自覚はある。少しだけ。
氷見坂は立ち上がった。
教室が一瞬、静かになる。
彼女が動くだけで、人の視線が集まる。本人が望んでいなくても、目立つ人間というのはそういうものだ。
氷見坂はランチバッグを手に取り、廊下へ出た。
俺も時間差で立つ。
「颯太」
陽菜が俺の腕をつかんだ。
「どこ行くの」
「トイレ」
「男子トイレって廊下の逆側だよ」
「遠回りしたい気分」
「最低の言い訳」
「手を離してくれ」
「やだ」
陽菜はじっと俺を見た。
「颯太さ、何かを手伝ってるつもり?」
「つもりというか」
「それ、本人に頼まれた?」
「……いや」
「じゃあ、半分はあんたの勝手だよ」
図星だった。
俺は言葉に詰まる。
陽菜は手を離し、少しだけ表情をやわらげた。
「見るのはいいけど、決めつけないこと」
「分かってる」
「分かってない顔」
「そんな顔ばかりだな、俺」
「そうだよ」
陽菜が笑った。
俺は廊下へ出た。
瀬名と氷見坂は、階段近くで向かい合っていた。
ついにか。
と思ったが、空気がおかしい。
瀬名は困ったように笑い、氷見坂は無表情のままランチバッグを胸に抱いている。
「ごめん、氷見坂。俺、今日昼は部活のミーティングでさ」
「……そう」
「何か用だった?」
「……なんでもない」
『違う。そうじゃない。用はある。あるけど違う。渡したいのは違う。違わない。もう分からない。お弁当が重い』
俺は廊下の角で固まった。
瀬名ではない。
少なくとも、今の実況からすると、瀬名に渡したいわけではなさそうだ。
では、誰だ。
神代か。
そう考えた瞬間、階段の下から神代が上がってきた。
「氷見坂さん、ちょうどよかった」
神代は資料の束を持っている。
「文化祭の備品リスト、昨日確認してくれた分を聞いてもいいかな」
「……うん」
氷見坂は頷いた。
瀬名は手を振って去っていく。
神代は自然に氷見坂の隣に立った。距離が近い。けれど不快感を与えない距離だ。うまい。
氷見坂の実況が、また弾けた。
『近い。近い? いや近いの基準が分からなくなっている。比較対象が悪い。灯里くんはたまに距離感がバグる。あれは危険』
灯里くん?
今、俺の名前が入った。
いや、待て。
実況に主語が入ることもあるのか。
しかし内容は、俺の距離感が危険という話であって、好きの対象とは限らない。むしろ警戒されている可能性もある。
俺は冷静に分析した。
神代は氷見坂に資料を見せ、穏やかに説明している。氷見坂は淡々と答える。二人の並びは絵になった。
これかもしれない。
神代なら、氷見坂が弁当を渡す相手として十分にありえる。
問題は、神代は昼も文化祭関係で忙しいということだ。
ならば、弁当を渡すタイミングは放課後か。
俺の調査は、昼を越えて継続することになった。
*
昼休み。
俺は購買のパンを片手に、教室の隅で待機した。
氷見坂は自分の席でランチバッグを開けていない。まだ渡していない証拠だ。
神代は実行委員会の打ち合わせで不在。
瀬名は部活ミーティング。
候補者が二人ともいない。
氷見坂はどうするのか。
しばらくして、彼女はランチバッグを持って立ち上がった。
俺も立ち上がりかけたが、陽菜の視線に刺されて座り直した。
見守る。
決めつけない。
陽菜の言葉を思い出す。
氷見坂は教室を出て、なぜかすぐに戻ってきた。
そして、俺の机の前で止まった。
「……灯里くん」
「何?」
俺は内心で身構えた。
もしかして、神代の居場所を聞きに来たのか。
瀬名の予定か。
それとも、弁当を渡す作戦の相談か。
氷見坂はランチバッグを差し出した。
「これ」
「……これ?」
「昨日の、お礼」
教室が、少しだけ静かになった。
いや、静かになった気がしただけかもしれない。俺の耳が勝手に周囲の音量を下げた。
氷見坂葉月が、俺に弁当を差し出している。
昨日の、お礼。
それ自体は、筋が通っている。
看板から庇ったのは俺だ。だから弁当をもらう理由はある。
しかし、これは本命への弁当ではなかったのか。
いや、待て。
考えろ。
ここで俺が受け取ることに意味があるのかもしれない。
たとえば、俺を経由して本命に味見させる。あるいは、俺に協力者として食べてもらい、感想を聞く。いや、それは回りくどい。だが恋する人間は回りくどいことをする。
俺も恋愛経験はないが、物語ではよくある。
氷見坂の指先が、ランチバッグの持ち手を握ったまま白くなっていた。
受け取らないのは、失礼だ。
「ありがとう。いただく」
俺はランチバッグを受け取った。
その瞬間、実況が爆発した。
『受け取った。受け取った受け取った受け取った。灯里颯太、受け取りました。これは歴史的瞬間です。拍手。スタンディングオベーション。結婚では? いや落ち着け。お礼で
す。お礼。お礼弁当です。好き』
俺はランチバッグを持ったまま、硬直した。
結婚では?
何を言っているんだ、この実況は。
氷見坂は無表情で、ほんの少しだけ視線を落としている。
「……口に合うか、分からないけど」
「いや、助かる。昼、パンだけだったから」
『パンだけ。知ってた。購買で焼きそばパンと迷って、結局いつものコロッケパンを買っていた。知ってた。見てた。言えない』
見てた?
氷見坂が俺を?
いや、たまたまだろう。
購買は誰でも見る。
「じゃあ、ありがたく」
「……うん」
氷見坂は自分の席へ戻った。
その背中が、いつもより少しだけ速い。
陽菜が隣の席から小声で言った。
「で?」
「で、とは」
「何か分かった?」
「分からなくなった」
「でしょうね」
陽菜は満足そうだった。
俺はランチバッグを開けた。
中には、二段の弁当箱が入っていた。
一段目は小さなおにぎり。海苔が斜めに巻かれている。二段目は卵焼き、唐揚げ、ほうれん草の胡麻和え、ミニトマト。彩りが丁寧で、隙間なく詰められている。
そして卵焼きの形に、見覚えがあった。
うちの店の卵焼きに似ている。
昨日、保健室で俺が「父さんの卵焼きは焦げ目が少ない」と話したわけではない。そんな話はしていない。
では、なぜ。
俺は箸を取った。
一口食べる。
甘さ控えめ。出汁が効いている。うまい。
思わず顔が緩んだ。
その瞬間、実況が小さく鳴った。
『笑った。勝った。今日の私は勝ちました。ありがとうございます。いや誰に? 世界に。卵焼きに。灯里くんに。好き』
また、俺の名前。
いや、だが、これは弁当を食べた相手として名前が出ただけだ。
好きの対象とは限らない。
俺はそう自分に言い聞かせた。
言い聞かせながら、唐揚げを食べた。
これもうまい。
冷めても衣がべちゃっとしていない。下味がきちんと入っている。
「氷見坂」
気づいたら声をかけていた。
彼女が振り向く。
「これ、すごくうまい」
「……そう」
表情は変わらない。
けれど、耳が少し赤い。
『褒められた。唐揚げが褒められた。私も褒められた。たぶん。いや唐揚げだけかもしれない。でも嬉しい。無理。好き』
「特に卵焼き。店で出せる」
「……大げさ」
「大げさじゃない」
『店。灯里食堂。つまり家族公認? 早い。まだ早い。落ち着いて』
俺は箸を止めた。
灯里食堂。
なぜ知っている。
いや、同じ学校なら、実家が定食屋だという話を聞いたことがあってもおかしくない。
駅前だし、陽菜がどこかで言ったかもしれない。
そうだ。
落ち着け。
俺に向けられていると考えるのは、あまりにも自意識過剰だ。
氷見坂は誰かを好きで、その感情がたまたま俺の前でも騒いでいる。
俺はその前提を守ることにした。
でなければ、全部がおかしくなる。
*
放課後、俺は空になった弁当箱を返すため、旧放送室へ向かった。
教室で返してもよかったが、氷見坂は昼以降ずっと周囲の視線を避けていた。たぶん、人前でやり取りを続けるのは負担だ。
そう判断した。
旧放送室には、氷見坂が先に来ていた。
彼女は紙花を直していた。潰れた花びらを一つずつ広げ、使える形に戻している。
「弁当、ありがとう」
俺は洗った弁当箱を差し出した。
「……うん」
「本当にうまかった」
「……よかった」
『返ってきた。洗ってある。丁寧。そういうところ。好き。弁当箱になりたい。いや落ち着け』
弁当箱になりたい?
俺はもう突っ込む気力もなかった。
氷見坂は弁当箱を受け取ると、少しだけ迷ってから鞄にしまった。
そして、俺を見た。
まっすぐに。
彼女の黒い瞳は、表情よりずっと言葉が多い。けれど俺には、その言葉のどれが正解なのか分からない。
「……灯里くん」
「何?」
「今日、迷惑じゃなかった?」
「弁当? 全然。むしろ助かった」
「……そう」
『よかった。迷惑じゃない。次もいける? いや次とは。お礼は一回で終わりでは? でも名前。次は名前』
名前。
俺は聞き逃さなかった。
『明日。呼ぶ。ちゃんと。あの人の名前を』
明日、氷見坂は誰かの名前を呼ぶ。
それは、本命の名前かもしれない。
今日の弁当はお礼だった。
なら、明日の名前呼びが本番。
俺は空の手を握った。
瀬名ではないかもしれない。
神代かもしれない。
あるいは、まだ見落としている誰か。
観察しなければ。
氷見坂の恋を、今度こそ見誤らないために。
「灯里くん?」
「いや」
俺は顔を上げた。
「何でもない。明日も、ちゃんと見る」
氷見坂は、ほんのわずかに首を傾げた。
『ちゃんと見る。見られる。無理。好き』
その「好き」に、俺はまだ主語をつけられない。
だから、また間違える。
そうとも知らず、俺は明日の作戦を考え始めていた。




