第2話 主語だけがない
翌朝、俺は人生で初めて「幻聴 看板 頭を打った」と検索しようとして、途中でやめ
た。
検索履歴が弱すぎる。
もし母さんに見られたら、「病院行く? それともお祓い?」と真顔で聞かれるに決
まっている。
結局、俺はスマホをポケットに戻し、味噌汁を運んだ。
「颯太、今日ぼーっとしてる」
母さんが言った。
「頭打ったから」
「病院は?」
「保健の先生には大丈夫って」
「大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃないのよ」
昨日、頭の中の実況も同じことを言っていた。
俺は危うく味噌汁をこぼしかけた。
「……何?」
「いや、何でもない」
「本当に?」
「本当に」
母さんの目が細くなる。
人の表情を読む力は、どうやら遺伝するらしい。怖い。
学校へ向かう途中、俺は昨日のことを整理した。
一つ。俺は旧放送室で頭を打った。
二つ。その後、氷見坂葉月の近くで謎の実況が聞こえた。
三つ。実況は氷見坂の感情に反応しているように思えた。
四つ。内容はやたら好意的だった。
五つ。ただし、誰に向けた好意なのかだけが分からない。
普通に考えれば、全部気のせいだ。
それで終わりにするべきだ。
俺は昇降口で靴を履き替えながら、そう決めた。
その瞬間、背後から静かな声がした。
「……灯里くん」
振り向くと、氷見坂が立っていた。
朝の光の中でも、彼女の表情は動かない。長い髪が肩にかかり、制服の袖口から白い指
先がのぞいている。
「おはよう。昨日は大丈夫だったか」
「……こっちの台詞」
「俺は平気」
「平気じゃ、ないかもしれない」
氷見坂は少しだけ視線を下げた。俺の額を見る。
保健室で貼られた湿布は、今朝にはもう外している。けれど小さなたんこぶは残ってい
た。
彼女の指が、ほんのわずかに動く。
触れるか迷って、やめた動き。
そこまでは読めた。
次の瞬間、頭の中で鐘が鳴った。
『実況開始。登校直後の接触です。今日も生きています。よかった。額、痛そう。痛いの
代われる? 代われない。無力。好き』
俺は靴箱に額をぶつけそうになった。
来た。
昨日の幻聴が、今日も出勤してきた。
「……灯里くん?」
「いや、大丈夫」
『大丈夫じゃないです。二日連続です。そういうところです。好き』
同じだ。
耳ではない。頭の中に直接響く。
しかも、氷見坂が無表情であるほど、実況のテンションがおかしく聞こえる。
俺は深呼吸した。
落ち着け。観察しろ。
まず、この声が本当に氷見坂由来なのか確かめる。
「氷見坂、昨日の旧放送室だけど」
「……うん」
「看板、けっこう壊れたよな」
「……ごめん」
『謝らないで。いや謝りたい。でも助けられた。あれは反則。背中で守るとか、少女漫画
ですか。違います現実です。好き』
氷見坂の表情は変わらない。
けれど、実況の内容は、完全に昨日の事故とつながっている。
可能性は上がった。
俺はさらに試すことにした。
「あの紙花、使えるやつだけ残しておいた方がいいな」
氷見坂の目がわずかに開く。
「……覚えてたの」
「役目が残ってるものは捨てたくない、って言ってたから」
『覚えてた。覚えてた。言った本人ですら恥ずかしくて少し後悔していた台詞を、覚えて
た。危険。記憶力で殴らないで。好き』
確定。
少なくとも、この実況は氷見坂の感情と連動している。
問題は、だから何だという話である。
俺は心が読めるようになったのか。
いや、違う。
心の声というには、あまりにも実況の癖が強い。事実と感情が混ざっている。比喩も多
い。さっきから「好き」ばかり言うが、誰が誰を好きなのかは言わない。
つまり、これは心の声ではない。
感情実況。
そう呼ぶのが近い気がした。
「……灯里くん」
「何?」
「顔色、悪い」
「寝不足かも」
本当は、朝から頭の中に実況アナウンサーが住み着いたせいだ。
言えるわけがない。
氷見坂は鞄から小さな袋を出した。
「……これ」
「何?」
「冷却シート。余ってたから」
余っていた。
たぶん嘘だ。
袋は未開封。今朝、買ってきたものだろう。コンビニのシールが貼ってある。
「助かる。ありがとう」
「うん」
『渡せた。任務完了。よくやった私。平静を装え。装えている。たぶん。いや手が震えて
いる。隠して』
氷見坂はすばやく手を袖の中に引っ込めた。
俺は見なかったふりをした。
ここで「手、震えてるぞ」と言うのは違う。相手が隠したものを暴くのは観察ではな
く、ただの無神経だ。
だから俺は、冷却シートを鞄にしまうだけにした。
「本当にありがとう」
「……うん」
『二回ありがとうって言われた。朝から供給過多。帰って寝たい。学校来たばかりだけど
帰って寝たい。好き』
だから。
その「好き」は、誰のことなんだ。
*
教室に入ると、陽菜が俺と氷見坂を交互に見た。
「おや」
「何だよ」
「いや、別に」
絶対に別にではない顔だった。
陽菜は机に頬杖をつき、にやにやする。
「朝から一緒に登校?」
「靴箱で会っただけ」
「ふうん」
「その『ふうん』をやめろ」
「氷見坂さん、颯太に冷却シートくれたんだ」
「見てたのか」
「見えただけ」
俺の口癖を真似するな。
陽菜は小さく笑ったあと、声を落とした。
「で、颯太。あんた、何をそんなに焦ってるの?」
「焦ってない」
「焦ってる人ほど焦ってないって言う」
「うちの母親みたいなこと言うな」
「おばさんとは話が合うからね」
陽菜は俺の額を見る。
「まだ痛む?」
「平気」
「そう」
彼女はそれ以上追及しなかった。
助かった。
しかし、問題はここからだった。
一時間目の現代文。
氷見坂はいつものように静かにノートを取っていた。俺は少し離れた席から、彼女の様
子を観察する。
実況は常に聞こえるわけではない。
感情が大きく動いたときだけ、頭の中で勝手に始まる。
たとえば、先生に当てられたとき。
「では、この一文を氷見坂さん」
「……はい」
氷見坂は淡々と本文を読む。声は綺麗で、教室が少し静かになる。
読み終えると、先生が頷いた。
「よく読めています」
『褒められた。ありがたい。けど今はそれどころではない。後ろから視線を感じる。見ら
れている。なぜ。好き』
後ろから視線。
俺か。
いや、俺だけとは限らない。氷見坂を見ていた男子は他にもいる。窓際の瀬名とか、前
列の神代とか。
俺は慎重に周囲を観察した。
瀬名亮。バスケ部。背が高く、明るい。氷見坂に数学のノートを借りたことがある。
神代司。文化祭実行委員。成績上位。誰にでも礼儀正しい。今も先生の話を聞きなが
ら、余白に企画案らしきものを書いている。
他にも候補はいる。
氷見坂ほどの相手なら、誰を好きでもおかしくない。むしろ、俺だけは候補から外して
いい。
接点が薄すぎる。
そう結論づけたところで、実況が再び入った。
『消しゴムを落とした。拾ってくれる? いや期待するな。自分で拾え。あっ』
氷見坂の消しゴムが机から転がった。
通路を挟んで、俺の足元へ来る。
俺は拾って、彼女の机にそっと置いた。
「落ちた」
「……ありがとう」
『拾った。拾ってくれた。自然。優しい。好き。今の角度、手がきれい。無理』
俺は自分の手を見た。
手がきれい?
いや、これは違う。
おそらく氷見坂は、誰か別の男子の手を思い出している。たとえば瀬名はバスケ部だか
ら指が長い。神代もペンを持つ手がきれいそうだ。
俺はただ、消しゴムを拾っただけ。
それ以上の意味はない。
そのはずだ。
*
昼休み、俺は購買へ向かう途中で瀬名亮を観察した。
彼は人気者だ。
廊下ですれ違うたび、誰かしらに声をかけられている。笑顔が明るく、距離感が近い。
バスケ部のエースらしく、体つきもいい。
氷見坂が好きになるなら、こういうやつだろう。
俺は購買の列に並びながら、瀬名と氷見坂の接点を思い出す。
数学のノート。体育館での接触。委員会資料の受け渡し。
少ないが、ゼロではない。
俺と氷見坂よりは多いかもしれない。
「颯太」
後ろから陽菜が声をかけてきた。
「何で瀬名くんをそんなに見てるの」
「見てない」
「見てた」
「観察だ」
「観察対象が男子バスケ部エースなの、なかなか新しいね」
「うるさい」
陽菜は楽しそうに笑う。
「まさか颯太、恋?」
「違う」
「即答。じゃあ何?」
「人間関係の調査」
「言い方が怖い」
俺はパンを二つ買い、廊下の端に寄った。
そのとき、氷見坂が購買前に現れた。人混みを避けるように、少しだけ壁際を歩いてい
る。
瀬名が彼女に気づき、手を上げた。
「氷見坂、数学のプリントありがとな。助かった」
「……うん」
短い会話。
だが、氷見坂の指先が袖を握った。
実況が始まる。
『話しかけられた。落ち着け。普通に返せた。えらい。今どこを見ればいい? いや、見
たいのはそっちじゃない』
そっちじゃない?
俺は瀬名の位置を確認する。
氷見坂の視線は、たしかに瀬名の少し横を通っていた。
その先には、購買のポスター。
いや、さらに奥。
俺?
ない。
俺の後ろに、神代がいた。
神代は職員室から戻る途中らしく、資料を抱えて歩いている。
なるほど。
本命候補その二、神代司。
氷見坂が見ていたのは神代かもしれない。
神代は優秀で、落ち着いていて、誰にでも優しい。氷見坂のように目立つ人間とも釣り
合う。
俺は脳内の候補リストに、神代の名前を大きめに書き込んだ。
「颯太」
陽菜が隣で低く言った。
「あんた今、すごい余計なこと考えてる顔してる」
「そんな顔してない」
「してる」
「具体的には?」
「自分だけを容疑者リストから外した探偵の顔」
「意味が分からん」
「分かんなくていいよ」
陽菜は呆れたように息をつき、俺の手からパンを一つ奪った。
「おい」
「調査料」
「いつ依頼した」
「見守りは有料です」
訳の分からないことを言って、陽菜は去っていった。
*
午後の授業が終わるころには、俺の頭は実況と候補者でいっぱいになっていた。
氷見坂の感情実況は、断片的に流れ込んでくる。
『今日も優しい』
『近い』
『見ないで。でも見て』
『ありがとうって、ちゃんと言いたい』
しかし、主語がない。
誰が優しいのか。誰が近いのか。誰に見てほしいのか。誰へありがとうと言いたいの
か。
大事なところだけ抜け落ちている。
まるで、穴だらけの答案用紙を渡されている気分だった。
放課後、俺は旧放送室へ行った。
昨日の事故現場を確認するためだ。もしかしたら、実況の原因になる何かがあるかもし
れない。
怪しい機械。古いマイク。壊れた放送卓。そういう、いかにもなものが。
だが、旧放送室はただ埃っぽいだけだった。
棚は固定され、落ちた看板は壁際に立てかけられている。紙花の箱には、氷見坂の字で
「使用可」とメモが貼られていた。
丁寧な字だった。
角がやわらかく、線の終わりが少しだけ迷う。
俺がそのメモを見ていると、背後でドアが開いた。
「……灯里くん」
氷見坂だった。
「また来たのか」
「……紙花、確認しに」
「そっか」
会話が途切れる。
旧放送室は静かだった。放課後の音が遠い。運動部の掛け声も、ここでは壁越しにくぐ
もって聞こえる。
氷見坂は紙花の箱を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
たぶん、安心している。
実況が始まった。
『二人きり。落ち着いて。落ち着いてください。紙花を見る。紙花は安全。あの人は危
険。優しすぎるから危険』
あの人。
まただ。
俺は慎重に聞き耳を立てる。聞き耳というより、頭の内側だが。
『明日。渡す。ちゃんと渡す。お礼だから。変じゃない。大丈夫。お弁当くらい普通。普
通? 普通とは?』
お弁当。
俺は心の中で背筋を伸ばした。
明日、氷見坂は誰かに弁当を渡す。
お礼。
昨日の事故のお礼なら俺だが、それは考えすぎだ。
だって、普通、弁当を渡す相手は好きな相手だろう。
それに「お礼」というのは、渡すための口実かもしれない。好きな相手に近づく自然な
理由。
俺は候補者リストを思い浮かべた。
瀬名。神代。ほか数名。
明日、その誰かに手作り弁当が渡る。
なら、俺がやるべきことは一つだ。
氷見坂の本命を見極める。
もし彼女が笑えない理由が、言えない恋にあるなら、手伝えるかもしれない。
それが、昨日助けた責任というものだ。
「灯里くん」
「何?」
「……明日」
氷見坂が何かを言いかけた。
俺は続きを待つ。
しかし彼女は唇を閉じ、首を小さく振った。
「なんでもない」
「そっか」
『言えなかった。明日こそ。明日こそ渡す。あの人に。お弁当を』
俺は頷いた。
主語はない。
けれど、やることは決まった。
明日、氷見坂葉月は好きな相手に弁当を渡す。
そして俺は、その相手を突き止める。
俺は旧放送室の窓から、夕焼けに染まる校庭を見下ろした。
その先で、バスケ部の瀬名がシュートを決めていた。
氷見坂の視線も、一瞬だけそちらへ向いた気がした。
よし。
まずは瀬名だ。
俺の推理は、まだ大きく外れていることに、もちろんこの時点の俺は気づいていなかっ
た。




