第1話 定食屋の観察者
朝の定食屋は、戦場に似ている。
ただし飛び交うのは銃弾ではなく、味噌汁の湯気と、焼き魚の匂いと、母さんの「颯太、三番さんご飯少なめ!」という声だ。
「はいよ」
俺は炊飯器の蓋を開け、三番席の老夫婦を横目で見る。
おじいさんは新聞を読んでいるふりをしながら、さっきから漬物の皿を二度見していた。おばあさんは味噌汁の蓋を開けて、でも口をつけずに湯気だけ見ている。
漬物、足りない。味噌汁、熱すぎる。
俺は小皿を一つ足し、味噌汁の蓋を少しずらしてから運んだ。
「お漬物、よかったら」
「あら、ありがとう。ちょうど言おうと思ってたの」
おばあさんが笑う。おじいさんは新聞の陰で、ほんの少しだけ口角を上げた。
だいたい分かる。
箸の止まり方。視線の逃げ方。声の高さ。椅子を引く速度。人間は自分で思っているより、体の端っこで本音を喋っている。
けれど、絶対は分からない。
俺がそう学んだのは、実家の『灯里食堂』が、駅前で三十年近く人の腹と機嫌を預かってきたからだ。
「颯太、六番さんの唐揚げ、マヨなし」
「分かってる」
「あんた本当に便利ねえ。卒業したらそのまま店を継ぐ?」
「進路を唐揚げのついでに決めないでくれ」
母さんは笑い、俺の背中を軽く叩いた。
父さんは厨房で黙々と卵焼きを巻いている。うちは会話が多い家ではない。だけど、父さんが俺の弁当にたまに焦げ目の少ない卵焼きを入れてくれることを、俺は知っている。
だからたぶん、俺は人を見るのが得意なのだと思う。
人を読むのではなく、見る。
その違いを、俺は大事にしているつもりだった。
少なくとも、その日の朝までは。
*
学校に着くと、教室はいつもの温度だった。
窓際では男子が昨夜のゲームのガチャ結果で騒ぎ、廊下側では女子が文化祭の話をしている。黒板には日直の字で「HR後、文化祭係決め」と書かれていた。
「おはよ、颯太。今日も眠そうな顔」
俺の机に腰を預けて、小林陽菜が紙パックのコーヒー牛乳を揺らした。
幼馴染という言葉は便利だ。小学校の頃から家が近い、親同士が知り合い、何かあるとやたら距離が近い。陽菜はその全部を満たしている。
「朝から働いてた」
「高校生の会話じゃないね。お疲れ、労働者」
「委員長のくせに、労いが雑だな」
「労働者には糖分でしょ。いる?」
陽菜は購買のクリームパンを半分に割った。俺が断る前に、半分が机に置かれる。
そういうところが、こいつは昔からうまい。
頼んでいないのに押しつけがましくない。遠慮の逃げ道を残してくる。
「ありがと」
「どういたしまして。で、颯太」
「何」
「今日の氷見坂さん、ちょっと変じゃない?」
陽菜の視線を追った。
教室の前方、窓から二列目の席。
そこに、氷見坂葉月が座っていた。
学年一の美少女。
たぶん、本人以外の全員がそう認識している。
長い黒髪は朝の光を受けても騒がず、制服のリボンは教本みたいに正しい位置で結ばれている。背筋はすっと伸び、視線は手元の文庫本に落ちている。
ただし、表情がない。
笑わない、怒らない、驚かない。誰かが話しかければ必要なことだけ返す。声は静かで、温度が低い。
だから、クラスの何人かは陰で彼女を「氷見坂」と呼んでいた。
苗字に一文字足しただけの、安易で残酷なあだ名だ。
「変っていうか」
俺は少しだけ目を細めた。
氷見坂はページをめくっていない。
本を読んでいるふりをしているだけだ。指先が、右ページの端を押さえたまま止まっている。しかも鞄の口が少し開いていて、中に入れた水筒の蓋がゆるい。あのままだと移動
教室で漏れる。
「寝不足じゃないか。あと水筒が危ない」
「そこまで見る?」
「見えただけ」
「そういうの、たまに怖いよね」
「褒めてないな」
「半分は褒めてる」
陽菜が笑った。
そのとき、氷見坂がわずかに顔を上げた。
俺と目が合った、気がした。
いや、たぶん偶然だ。氷見坂の視線は俺の肩を通り越し、黒板の「文化祭係決め」という文字に止まった。
その横顔はいつもと同じで、やっぱり何も読ませなかった。
けれど。
右手の親指だけが、文庫本の角を強く押している。
不安。
そう見えた。
「氷見坂さん、文化祭苦手なのかな」
俺が呟くと、陽菜が少し驚いた顔をした。
「さあね。本人に聞いたら?」
「聞けるほど仲よくない」
「颯太って、変なところで常識人ぶるよね」
「常識は大事だろ」
「自分が見えてない人ほど、そういうこと言うんだよ」
「どういう意味だ」
「そのまま」
陽菜はそれ以上説明せず、自分の席へ戻った。
自分が見えてない。
言われ慣れない言葉ではない。母さんにも時々似たようなことを言われる。客の機嫌は分かるのに、自分の疲れには鈍い、と。
けれど、別に困っていない。
俺のことなんか、俺が多少見逃したところで誰も困らない。
そう思って、クリームパンをかじった。
*
文化祭係決めは、予想通りぐだぐだだった。
うちのクラスは二年三組。やる気がないわけではないが、積極的に面倒を背負いたい人間も少ない。
実行委員は陽菜が当然のように引き受け、男子側は神代司が手を挙げた。
神代は成績上位、顔もよく、声が通る。教師からの信頼も厚い。何より、面倒な仕事を面倒そうに見せない才能がある。
「じゃあ、企画案は来週までに集めます。去年と被らず、でも準備が現実的なもの。無理に尖らせなくていいので」
神代が穏やかに言うと、教室の空気が少し整った。
こういう人間は、いるだけで場を役割に分ける。
司会、補佐、盛り上げ役、傍観者。
俺は当然、傍観者の列に入った。
そのはずだったのだが。
「灯里くん、放課後少しいい?」
HR後、陽菜が名簿を片手に来た。
「嫌な予感がする」
「旧放送室に去年の備品が残ってるの。確認を手伝って」
「神代に頼めばいいだろ」
「神代くんは職員室。男子で手が空いてて、地味に力仕事できて、かつ文句を言っても最終的には来てくれる人材が灯里颯太くんです」
「評価の中に悪口を混ぜるな」
「よろしく」
逃げ道はなかった。
放課後、俺は旧校舎の三階へ向かった。
旧放送室は、今は物置になっている。使わなくなったアンプ、古いマイクスタンド、文化祭の看板、割れた立て看板、謎の布。そういう「いつか使うかもしれない」が山になった部屋だ。
ドアを開けると、埃っぽい匂いがした。
「……灯里くん」
先に部屋にいたのは、氷見坂だった。
俺は一瞬、足を止めた。
「氷見坂も、係?」
「……小林さんに、頼まれた」
陽菜。
あいつ、俺に言わなかったな。
氷見坂は無表情で、段ボールの山の前に立っていた。腕には軍手。似合わない、というより、軍手の方が恐縮しているように見える。
「重いものは俺が持つ。氷見坂は中身の確認で」
「……平気」
「水筒、朝ゆるかっただろ。鞄、濡れなかったか」
言ってから、しまったと思った。
見すぎだ。
普通はそんなところまで見ない。少なくとも、ほとんど話したことのない同級生に言われて気持ちいい内容ではない。
氷見坂はまばたきを一つした。
「……大丈夫」
「ならよかった。悪い、変なこと言った」
「変じゃ、ない」
その声は相変わらず静かだった。
けれど、軍手の指先が少し丸まった。
嫌悪ではない。警戒でもない。判断に迷っているときの動きだ。
俺はそれ以上踏み込まず、手近な段ボールを開けた。
中身は去年の紙花だった。赤、黄色、青。丁寧に作られているが、半分は潰れている。
「これは処分だな」
「……まだ使える」
「使うなら、つぶれたところ直さないと」
「直せば、使える」
意外だった。
氷見坂は、淡々と紙花を拾い上げる。指が細い。潰れた花を、壊れ物みたいに広げてい
く。
「ものを捨てるの、苦手?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えた。
「……役目が残ってるものは、捨てたくない」
それは、氷見坂にしては長い言葉だった。
俺は頷く。
「じゃあ、使える箱に移すか」
「うん」
そのとき、窓の外で強い風が鳴った。
旧校舎は建てつけが悪い。古い窓ががたがた震え、上の棚に積まれていた看板が一枚、ゆっくり傾いた。
見えた。
看板の角度。下にいる氷見坂。距離。落下位置。
考えるより先に、体が動いた。
「氷見坂、下がれ!」
氷見坂が顔を上げる。
遅い。
俺は彼女の肩を押し、自分の背中で看板を受けた。
鈍い音。
そのあと、頭の奥で白い光が弾けた。
「灯里くん!」
氷見坂の声が、初めて大きく揺れた。
ああ、今の声は表情より分かりやすい。
そんなことを思いながら、俺は床に膝をついた。
視界が斜めになる。
埃の匂い。古いマイク。散らばる紙花。氷見坂の手が、俺の袖を掴んでいる。
指先が震えていた。
怖がらせた。
それだけは、分かった。
*
目を開けると、白い天井が見えた。
保健室の天井だ。小さな染みが三つある。何度か寝たことがあるから分かる。
「灯里くん」
横から声がした。
氷見坂が椅子に座っていた。
夕方の光がカーテン越しに差している。彼女の顔はいつも通り無表情だった。けれど、膝の上で握られた両手は、少し赤くなるほど力が入っている。
「俺、どれくらい寝てた?」
「……一時間くらい」
「看板は?」
「壊れた」
「それはよかった」
「よくない」
即答だった。
俺は少し笑いそうになって、頭の痛みに顔をしかめた。
「氷見坂は怪我してない?」
「……してない」
「ならよかった」
そう言うと、氷見坂は黙った。
沈黙が落ちる。
俺は何か言うべきか迷った。こういうとき、相手の欲しい言葉はだいたい分かる。大丈夫。気にするな。偶然だ。そんなところだ。
でも、氷見坂にはどれも少し違う気がした。
だから、何も言わなかった。
その瞬間だった。
頭の中に、知らない声が響いた。
『実況開始』
俺は固まった。
音ではない。耳から聞こえたのではない。
頭の内側、額の裏あたりに、やけにテンションの高いアナウンサーが突然マイクを握った感じだった。
『灯里颯太、起床しました。生きています。今日も生きててありがとう。いや本当にありがとう。好き。無理。尊い。救急車呼ぶ?』
俺は保健室の天井を見たまま、呼吸を忘れた。
好き?
無理?
尊い?
誰の話だ。
俺はゆっくり横を見る。
氷見坂葉月は、相変わらず無表情で俺を見ていた。
「……どうしたの」
「いや」
頭を打った。
だから幻聴がした。
そう考えるのが自然だ。実際、自然だと思う。脳は大事だ。看板を食らった高校生が、急に謎の実況を聞き始めたら、病院案件である。
でも、実況は続いていた。
『近い。目が合った。近い。これは危険距離です。避難してください。誰が? 私が。いや無理。見たい。好き』
私が。
そこだけは聞こえた。
だが、それ以外の大事な部分がない。
誰を、好きなのか。
氷見坂は俺の額を見て、わずかに眉を寄せた。
「……頭、痛い?」
「少し」
「先生、呼ぶ」
「いや、大丈夫」
『大丈夫じゃないです。大丈夫って言う人ほど大丈夫じゃない。優しい。そういうところ。好き』
俺は、ベッドの上で拳を握った。
落ち着け。
仮にこれが氷見坂の心の声だとして。
いや、仮にだ。仮に、そういう異常現象が起きているとして。
今聞こえた「好き」は、俺に向けられたものとは限らない。
むしろ、限らないどころか、絶対に違う。
なぜなら、氷見坂葉月と灯里颯太に接点はほとんどない。今日少し備品整理をしただけだ。助けたのも偶然だ。人はそれだけで同級生を好きにはならない。
たぶん。普通は。
ならば、氷見坂には別に好きな相手がいる。
そして今の実況は、彼女の感情が何かの拍子に漏れているだけだ。
俺はそう結論づけた。
結論づけた瞬間、少しだけ落ち着いた。
すると保健室の扉が開き、陽菜が顔を出した。
「颯太、生きてる?」
「第一声がそれか」
「冗談言えるなら平気だね。氷見坂さんも大丈夫?」
「……うん」
氷見坂は頷いた。
その横顔は静かで、綺麗で、何も語らない。
けれど俺の頭の中だけで、実況はまだ祭りの後片づけをしていなかった。
『小林さん来た。落ち着け。顔に出すな。出てない。よし。無表情、今日も職務を全うしています。えらい。だけど心臓は全然えらくない』
俺は思った。
誰だ。
誰のことで、そんなに心臓をやられているんだ。
氷見坂葉月の表情からは、何一つ読めない。
けれど、俺にだけ聞こえる実況は、確かに言っていた。
『あの人、今日も優しい』
あの人。
主語がない。
いや、主語だけがない。
俺は保健室の白い天井を見上げたまま、人生で初めて、観察しても分からない問題にぶつかった。
そして、かなり真剣に思った。
誰だ、その男。




