前日譚 第33話 届かなかった一位、それでも生まれた恋
中学二年になった氷見坂葉月には、絵という小学生からの得意分野があった。
クラスの写生大会で特選。学年でも一番の評価。美術の担当教諭からは「才能がある」と何度も言われ、通信簿で美術は最高の10であった。
廊下ですれ違う同級生にまで「氷見坂さんの絵、すごいよね」と声をかけられる。悪い気はしなかった。むしろ、少しだけ鼻が高かった。
(わたし……絵の才能あるのかも……天才?)
自惚れが、心の隅でくすぐったく膨らんでいた。
学年代表として選ばれ、県の中学生図画コンクールに出品することが決まったのは、その勢いのままだった。
県内一位の県知事賞。もし全国まで届けば、文部科学大臣賞という頂点もある。葉月の頭の中では、すでに表彰式の壇上に立つ自分の姿まで描かれていた。
(私の絵なら文部科学大臣賞、受賞インタビューは何を話そうかな。ふふん、待ち遠しい…)
結果発表の日。葉月は結果を見て、しばらく言葉を失った。
――県知事賞、次点の副知事賞。
二位。
悪くない結果のはずだった。だが、一位の作品を目にした瞬間、葉月の中の何かが音を立てて崩れた。
僅差ではなかった。
構図、色彩、筆致、そのすべてにおいて、一位の絵は中学二年生が到達できる領域を、明らかに超えていた。素晴らしい、という言葉さえ陳腐に感じるほどの完成度。
来場者の多くの大人達はその作品を眼福と口々に称えた。
展示会場に貼られたその絵の前で、葉月はしばらく動けなかった。
作者名のプレートに目をやる。
「灯里颯太」
その四文字を見た瞬間、葉月の中で何かが繋がった。
(灯里……颯太……この名前……知ってる……)
覚えていないはずがなかった。泥川で助けてくれた男の子。四年後、野良犬から守ってくれた男の子。あのときと同じ、忘れられない名前が、まさかこんな場所で自分の一位を奪っていくとは思わなかった。
(くやしい……なんで……また……)
悔しさが胸の奥で渦を巻く。負けたことそのものより、圧倒的な差を見せつけられたことが、葉月の自尊心を静かに、けれど確実に削っていった。
だが、その悔しさは、いつまでも同じ形をしていなかった。
絵の前に立ち尽くしながら、葉月は何度も何度も、その一位の作品に目を戻していた。憎らしいはずなのに、目が離せない。悔しいはずなのに、もっと見ていたいと思ってしまう。
魂の作品とはこの絵の事か、本物の天才。完敗。
(また、この人……わたしの人生の節目に、必ず現れる……)
初めて溺れかけたあの日から。野良犬に襲われたあの日から。そして今、絵という自分だけの領域でさえ。
運命、という言葉が頭をよぎった瞬間、葉月は自分の頬が熱くなっていることに気づいた。
これは、悔しさではない。
もっと別の何かだと、十四歳の葉月は、ようやく認めざるを得なかった。灯里颯太とのなんという縁。
――一方、颯太は表彰式の会場で、遠くから自分の絵を見つめている女子生徒の姿に、ふと目を留めていた。
眼鏡をかけた、どこか思いつめたような横顔。綺麗な子だな、というくらいの感想しか、颯太の中には浮かばなかった。
名前も知らない。話したこともない。ただそれだけの、通り過ぎていく他人の一人だった。
颯太が氷見坂葉月という名前を、はっきりと意識するのは、まだ何年も先のことになる。
三度目の邂逅は、こうして片方だけの恋心を強烈に残し、静かに幕を閉じた。




