前日譚 第34話 高校再会 ― 恋の大暴走
眼鏡を外し、髪型を変えた。
高校入学を前に、氷見坂葉月はそれまでの自分を静かに脱ぎ捨てた。
周囲からは「雰囲気変わったね」「クールビューティーだね」と言われるようになった。
その美貌は中学とは比べものにならないほど男子から視線を集めた。
だが、外見がどれだけ変わっても、内側に抱えたものは何一つ変わっていない。
(視線……集中……でも問題なし……)
新しい髪に指を通しながら、葉月は自分の心拍数を測るように、慎重に廊下を歩いた。
同じ高校に通える。中学までずっと胸の奥にしまい込んできた”影の存在”――灯里颯太のことを、忘れられたことなど一度もなかった。
入学式の翌日。教室の扉が開いた瞬間、葉月の呼吸が止まった。
颯太が、ごく普通の顔をして教室に入ってきたのだ。
(同じクラス?灯里颯太……視界に侵入……心拍数……上昇……運命にしては、あまりにも出来過ぎ)
泥川の日。野良犬の日。美術コンクールの日。過去の三つの記憶が、一瞬で葉月の中に重なって蘇る。それなのに颯太は、自己紹介の順番が回ってきても、葉月のほうを一度も気に留めなかった。
(認識されていない?…これは……泣きそう)
初対面の、ただの美人。颯太の中の葉月は、その程度の存在でしかなかった。
三度も交差した運命の糸は、颯太の記憶には一本も残っていない。葉月の片思いは、また新しい形で始まろうとしていた。
臨界点は、思いがけない場所で訪れた。
放課後、階段を下りていた葉月の足が、段差でわずかに滑った。体が傾いだ瞬間、後ろから伸びてきた手が、その腕をしっかりと支える。
「危なかったな、氷見坂」
颯太だった。反射的に手を伸ばしただけの、他愛のない行動。だが葉月の頭の中では、六歳の時の泥川の手と、十歳の時の野良犬から守ってくれた手と、今この瞬間の手が、一つに重なって再生されていた。
(灯里颯太……私の人生の節目に必ず現れる存在……)
(温かい……好き、暴走……制御不能……)
颯太は「危なかったな」とだけ言って、何事もなかったように階段を下りていく。三層分の想いを積み上げた葉月と、それにまるで気づかない颯太。その落差だけが、鮮明に残った。
決定打は、三日後の美術室で訪れた。
放課後、誰もいない美術室で絵を描いていた葉月のもとに、たまたま通りかかった颯太が足を止めた。
キャンバスを覗き込み、少し驚いた顔をして言う。
「絵上手いね。これ、俺……好きだぞ」
颯太はただ、絵の出来を褒めただけだった。それ以上でも、それ以下でもない。
だが葉月の中で、その一言は別の意味に変換されていた。
(好きだぞ……イコール……わたしを、好きだぞ……)
(好き、無理…好き、暴走……好き、危険……)
(灯里颯太……好意表明……確率、九十八パーセント……何考えてんの私)
頬が燃えるように熱くなる。葉月の恋心は、その瞬間、完全に発火した。
追い打ちをかけるように、翌週、体育館での全校集会中に貧血でふらついた葉月の肩を、颯太がとっさに支えた。
「氷見坂、無理すんな、陽菜、早く保健室へ」
その一言で、“また救われた”という記憶が、葉月の中で更に上書きされていく。
(また……またしても、わたしを救った……)
(泥川の手…野良犬退治…才能の影。全て接続……恋心……自分では止められない)
(灯里颯太……私の運命の、収束点……)
颯太にとっては、ただのクラスメートへの気遣いに過ぎない。けれど葉月にとっては、もはや疑いようのない運命の糸の証明だった。
(視線……接触……好意確率……上昇……)
(灯里颯太……危険……近距離での接触は……大暴走の可能性……)
葉月の世界は、静かに、しかし確実に、灯里颯太へと傾いていた。正確には片思い恋愛脳に染められた。
彼女だけが知る“影の記憶”を抱えたまま
――颯太にはまだ何一つ伝わらないまま。
(心拍数……上昇……落ち着かない……落ち着け私)
名前を呼ばれたわけでもないのに、胸の奥で小さなざわつきが広がっていく。
一方で颯太は、階段で支えたときに感じた氷見坂の手の震えが、なぜか頭の片隅に残っていた。
「なあ颯太、氷見坂さん……お前のこと、さっきずっと見てたぞ、なんか怒らせた事あった?」
友人の何気ない一言が、颯太の歩みを一瞬だけ止める。
『そういえば氷見坂って、昔から知ってるような……いや、記憶違いか』
その小さな違和感が、やがて本編で二人を大きく揺らすことになるとは、まだ誰も知らなかった。
本編を読んだ読者の皆様の最大の疑問にストライクで答える、スピンオフ作品です。やはり氷見坂さんは可愛い!
改めてここまで読んでくださりありがとうございました。




