前日譚 第32話 野良犬と、名前のない優しさ
灯里家の柴犬コロは飼い始めて、もう二年になる。
十歳になった灯里颯太は、朝の散歩をとうの昔にサボるようになっていた。理由なんてない。ただ、面倒だっただけだ。庭につないでおけば餌はやれる。それで十分だと思っていた。
だからその日、コロの首輪が外れて庭からいなくなっていることに、颯太が気づいたのは夕方だった。
「コロ! コロー!」
近所を走り回って探した。三日間、朝も夜も。けれど見つからなかった。四日目、颯太は探すのをやめた。母には「もう戻ってこないかもしれない」と言われ、颯太自身も、心のどこかでそれを認め始めていた。
――その三日後のことだった。
中学受験塾からの帰り道、氷見坂葉月は一人で細い路地を歩いていた。あの日から四年。小学五年生になった葉月は、眼鏡をかけ、当時とは違う三つ編みの髪型をしている。もう、赤いワンピースの少女の面影は、どこにもない。
路地の角を曲がった瞬間、茶色い影が飛び出してきた。
毛並みは荒れ、痩せこけ、目つきだけがぎらついている。首輪のない野良犬――いや、野良犬になってしまった柴犬コロだった。
「――ひっ!」
葉月は動けなかった。犬は低く唸りながら、じりじりと距離を詰めてくる。
(こわい……うごけない……だれか……たすけて)
心の悲鳴が、また頭の中で鳴った。四年前と同じ、あの日と同じ悲鳴だった。
犬が飛びかかろうとした、その刹那。
「こら! やめろ!!」
横合いから飛び出してきた男の子が、拾った木の枝を振りかざして犬とのあいだに割って入った。
犬はひるみ、二、三歩後ずさる。男の子はそのまま枝を突き出し、じりじりと犬を路地の奥へと追い払っていった。
姿が見えなくなるまで、ものの十数秒。それだけの時間が、葉月には永遠のように長く感じられた。
「大丈夫か!? 怪我は!?」
振り返った男の子――灯里颯太は、息を切らしながら葉月に駆け寄った。
葉月はへたり込んだまま、ぼろぼろと涙をこぼした。
(また……たすけられた……この、こえ……)
「大丈夫だから。もう大丈夫だから」
颯太はそう繰り返しながら、葉月の背中をそっと叩いた。四年前と同じ、不器用であたたかい手だった。
けれど颯太の頭の中に、四年前の記憶は影も形もなかった。目の前で泣いている眼鏡の少女が、あのとき助けた女の子だとは、微塵も思い至らない。
葉月のほうも、涙で霞む視界の中、颯太の顔をはっきりとは見られなかった。ただ、あの日と同じ強さで名前を呼びたくなる衝動だけが、胸の奥に残った。
――数日後。
灯里家の玄関先に、葉月は母と共に立っていた。手にはお礼の品として持たされた大きなメロンがひとつ。
「先日は娘が息子さんに助けられて大変お世話になりました」
玄関に出てきた颯太の母は、明らかに気まずそうな顔をした。颯太自身も、視線を泳がせている。
(あの犬、うちの犬なんです――とは、今さら言えない)
颯太の家では、あの日のうちに柴犬コロを保護し、首輪をつけ直していた。だが颯太も母も、それを氷見坂家に告げる勇気はなかった。
娘を襲った野良犬を、颯太くんが身を挺して助けてくれた――氷見坂家の中では、すっかりそういう話になっていたからだ。
後日、たまたま灯里家の庭先を覗いた葉月は、繋がれた柴犬に新しい首輪がついているのを見つけた。
(そうか……この子、保護してあげたんだ……颯太くん、やっぱり優しい人なんだ…)
真実とは少しだけ違う理解のまま、葉月の中で颯太の像は、また一段と大きくなっていく。
助けられたのは二度目。名前を覚えているのは、いつも葉月だけだった。




