表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
31/34

前日譚 第31話 泥の河、始まりの日

本編ではクールビューティー(※ただし脳内は大暴走中)

な氷見坂葉月。

彼女がなぜそこまで灯里颯太に巨大な感情を向けているのか?

葉月の人生の節目には、いつも「颯太」がいた。

――彼にとっては、ただの気まぐれと日常のひとコマに過ぎなかったとしても。

これは、一途すぎる少女が「運命の恋」をこじらせていくまでの、切なくもちょっと重い前日譚。

なぜ氷見坂葉月さんは颯太を好きになったのか?

――その前日譚


赤いワンピースと新しい革靴がお気に入りだった。


 六歳の氷見坂葉月は、朝からずっとその裾を指でつまんでは離し、つまんでは離しを繰り返していた。

 今日は父と母と三人で、近所の神社にお参りに行く日だ。

 新しく買ってもらったばかりの革靴は、まだ靴底が硬くて、歩くたびにこつん、こつんと固い音を立てる。

 その音さえも誇らしかった。


 「葉月、危ないから端っこ歩かないの」


 母の声に、葉月は「はーい」と気のない返事をした。田んぼの脇を通る細い道は、片側がすぐにドブ川になっていて、大人でも腰まで沈むくらいの深さがある。

 けれど葉月にとってそんなことより、新しい靴とワンピースを誰かに見せびらかすことのほうが、ずっと大事な問題だった。


 道端の石を蹴った。うまく飛ばなかった。もう一度蹴ろうとして、つま先が滑る。


 「あ――」


 その一瞬に、世界がひっくり返った。


 視界が緑色に染まり、口の中に泥と藻の味が広がる。冷たさより先に、息ができないという事実だけが頭の中を占領した。もがけばもがくほど、体は沈んでいく。

 手を伸ばした先には何もない。革靴の片方が、するりと足から抜けて流れていくのが、やけにゆっくり見えた。


(くるしい……いき……できない……)


 心の悲鳴が、頭の中でぐるぐると回る。だれか。だれでもいい。


 助けて――そう思った瞬間、水面の向こうに影が差した。


 小さな手が、葉月の腕をつかんだ。子供の力とは思えない強さで、ぐいと引き上げられる。

 息を吸い込んだ拍子に、喉の奥から泥水と一緒に叫び声が飛び出した。


 「げほっ……げほっ……」


 「大丈夫か! おい、大丈夫かって!」


 目の前にいたのは、自分と同じくらいの背丈の男の子だった。半ズボンの裾までびしょ濡れで、髪から水を滴らせている。

 ためらう間もなく、一緒に川へ飛び込んでくれたのだと、あとになって葉月は知ることになる。


 葉月は、涙と泥でぐちゃぐちゃの顔のまま、その子を見上げた。


(だれ……知らない子……でも……たすけて、くれた……ありがとう)


 「動ける? 立てるか?」


 男の子はそう言いながら、葉月の背中をさすった。手のひらは小さいのに、その仕草だけは妙に大人びていた。


 「ありがとう。あの、な、なまえ……」


 葉月がやっと絞り出した言葉に、男の子は少し照れたように鼻の下をこすった。


 「灯里颯太。……お前は?」


 「ひ、氷見坂葉月……」


 颯太、と葉月は口の中で繰り返した。忘れないように、何度も、何度も。


 そこへ、悲鳴を聞きつけた両親が土手を駆け下りてきた。葉月はあっという間に母の腕に抱き上げられ、大人たちの輪の中に取り込まれていく。

 もう片方の革靴も、いつの間にか脱げてどこかへ流れていた。お気に入りの赤いワンピースは、泥色に染まって見る影もない。


 「怪我はない? どこか痛いところは?」

 「ごめんね葉月、ちょと目を離したばかりに」


 母の矢継ぎ早の問いに答えながらも、葉月は人混みの向こうにいる颯太から目を離せなかった。


 颯太は、自分の親らしき大人に「もう、目を離さないでって言ったでしょ」と叱られていた。

 ずぶ濡れのまま俯いて、それでも一度だけ、ちらりとこちらを振り返る。


 目が合った。


 颯太は小さく手を振ると、そのままあっさりと大人に連れられて行ってしまった。


(またね……とか、言えばよかった……)


 葉月はその場に立ち尽くしたまま、ワンピースの裾についた泥を、ぎゅっと握りしめていた。

 悔しいのか、悲しいのか、それとも別の何かなのか。六歳の葉月には、まだうまく名前のつけられない感情だった。


 でも、確かなことがひとつだけあった。


 あの子の名前だけは、絶対に忘れない。灯里颯太。

灯里、颯太くん。


 ――一方その頃。


 灯里颯太は、母親にタオルで頭をわしゃわしゃと拭かれながら、助けた女の子の顔を、もう思い出せなくなっていた。


 「なんか、泥だらけの子だったなあ」


 それだけが、颯太の中に残ったすべてだった。


 こうして、葉月の初恋の始まりの日は、片方だけが覚えている恋の記憶を残して、静かに幕を閉じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ