最終回 第30話 この恋、主語がある
「はい、観測終了のお知らせ」
朝の教室でそんな宣言をする人間は、だいたい陽菜しかいない。
しかもこいつの場合、冗談と本気の境目がいつも悪い。最初の一秒は茶化しているように聞こえるのに、三秒後には平然と急所へ触れてくる。
昨日、葉月を傷つけた。
その事実だけでも胃が重いのに、机の上から青い星の付箋が消えていて、さらに追い打ちみたいに実況まで聞こえない。
心臓は、朝からずっと落ち着く場所を見失っていた。
「……何だよ、それ」
俺が言うと、陽菜は俺の机の角へ軽く腰を預けた。
「そのまんま。私、今日であんたたちの観測者を卒業する」
「勝手に就任して勝手に卒業するな」
「するよ。だって、もう外野が補足しないと進まない段階じゃないし」
外野。
補足。
どちらも痛いほど正しかった。
陽菜は一度だけ後ろを見る。
葉月は本を開いている。いつも通りの無表情。いつも通りの綺麗な横顔。
なのに、いつもじゃない。
静かすぎる。
あれほど勝手に流れ込んできた“実況”が、一文字もない。
「あと」
陽菜は声を少しだけ落とした。
「今日から、実況も聞こえないよ」
その一言で、胸の奥が冷えた。
冗談じゃない。
聞こえないって何だ。
どうして。
昨日のあれで何か壊れたのか。
葉月に何が起きた。
それとも、俺のほうなのか。
「……何で」
辛うじて出た声は、情けないくらい掠れていた。
陽菜は答えない。
ただ、いつもの軽さを半分だけ捨てた顔で言う。
「理由を先に知りたいなら、本人に聞きな」
その返答で、俺は口をつぐんだ。
たぶん、それしかないのだ。
付き合う前の俺は、見えているものに甘えていた。
聞こえてくるものに甘えていた。
観測できることを、理解していることだと勘違いしていた。
そのくせ肝心な場面では、何度も外した。
今は、もう補助輪が外れている。
陽菜はそう言っているのだと思った。
「謝るなら、ちゃんと最後まで言いなよ」
陽菜は机を指で軽く叩く。
「“ごめん”だけだと葉月は困るから」
それはあまりにも葉月だった。
主語がないと困る。理由が抜けていると保留する。曖昧な優しさは受け取れても、曖昧なまま許したことにはしない。
「あと」と陽菜は続ける。
「今日の私は、ほんとに手伝わないから」
「見守りもしないのか」
「見守るくらいはする。でも通訳は終わり」
それがたぶん、陽菜の役割整理だった。
ずっと茶化して、ずっと観測して、必要なときだけ正論を投げてきた友達が、最後に手を離す。
物語の端から中心へ、当事者だけを残すために。
午前中の授業は、ほとんど上の空だった。
黒板の文字は目に入るのに、意味だけが頭へ入ってこない。
後ろを振り向く勇気もなく、かといって意識しないこともできない。
葉月の実況がない。
それだけで、教室はこんなにも広かったのかと思う。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、俺は弁当を持たずに立ち上がった。
逃げない。今日こそ逃げない。
そう決めて、後ろの席へ向かう。
「葉月」
名前を呼ぶ。
葉月は本から顔を上げた。
目が合う。
そこに昨日の痛みが、薄く、でも確かに残っているのが見えた。
「昼、話したい」
短く言う。
逃げ場のない形で。
葉月は少しだけ俺を見て、それから静かに頷いた。
「……うん」
補助机のある窓際は、俺たちが何度も使ってきた避難場所だった。
文化祭のあと、席が遠くなって、それでも昼と放課後の隙間を繋ぐために作った半端な特等席。
ここで俺たちは、言い損ねたことを少しずつ拾ってきた。
今日もたぶん、その続きだ。
弁当の蓋を開ける前に、俺は言った。
「昨日、ごめん」
葉月の指先が止まる。
「……何が」
やっぱり、そう返ってくる。
葉月は曖昧な謝罪を受け取らない。
だから今回は、ひとつも落とさない。
「“変だ”って言ったこと」
俺は続ける。
「葉月が悪いって意味じゃなかった。でも、そう聞こえる言い方をした」
葉月は何も言わずに聞いていた。
遮らない。否定しない。だからこそ、こっちも中途半端なところで止まれない。
「俺、寂しかった」
自分で言って、ようやく形になる。
嫉妬でも怒りでもない。
ただ、寂しかった。
「会えてるのに、会えてない感じがしてた。放課後一緒にいても、作業の言葉しかなくて、葉月と“恋人として話す時間”が減って、勝手に焦ってた」
葉月の睫毛が、ほんの少し揺れる。
「それを、葉月のせいみたいに言った」
一度息を吸う。
「ごめん」
今度の謝罪は、少なくとも昨日よりましな形をしていたと思う。
言い逃げじゃない。気分だけの謝罪でもない。遅すぎるかもしれないけれど、ようやく自分の責任を自分の言葉で引き取れた。
葉月は窓の外を少しだけ見た。校庭の向こうで、風が木を揺らしている。やがて小さく言った。
「……私も、違った」
違った。
その言い方が、いかにも葉月らしかった。全部を否定するでもなく、でも昨日の自分をそのまま肯定もしない、ぎりぎり誠実な言葉。
「“努力してる”って、言った」
「うん」
「……あれ、半分は本当」
半分。
なら、残り半分がある。
「でも、半分は」
葉月は少し迷ってから続けた。
「……怖かった」
その一語が、まっすぐ胸へ入ってくる。
「足りないって、思われた気がした」
俺は何も言えなかった。
昨日、自分の言葉がどう刺さったのか。その答えを、今まさに受け取っている。
「進路も、勉強も、家のことも、ちゃんとしたい」
葉月は静かに言う。
「颯太と話す時間も、ほしい。朝も、昼も、放課後も、少しずつでも繋いでいたい」
短い文なのに、その中へ詰め込まれた本音は重かった。
「……でも、全部うまくやれてる気がしなくて」
葉月の声が、ほんの少しだけ揺れる。
「だから先に、“努力してる”って言えば」
目を伏せたまま、続ける。
「……少し守れる気がした」
防御だったのだ。
責められたくないからじゃない。
崩れそうな自分を、先に自分で庇わないと立っていられなかったから。
俺は昨日、そのぎりぎりのところへ、雑な言葉で触れた。
好きな相手に、一番やってはいけない形で。
「葉月」
名前を呼ぶ。
彼女が顔を上げる。
「俺、もっとちゃんと言う」
昨日の俺は、寂しさを相手への評価にすり替えた。
だから今日は、すり替えない。
「俺は、葉月と話せないと寂しい」
「葉月と一緒にいても、恋人としての時間が足りないと嫌だって思った」
「でも、それは葉月が足りないんじゃなくて、俺がちゃんと欲しいって言えてなかっただけだ」
主語を入れて。
感情を入れて。
責任も入れて。
葉月は、しばらく黙っていた。
それから、すごく小さく、でもはっきり言う。
「……私も」
短い一言なのに、昨日の沈黙よりずっと強かった。
「……颯太と、ちゃんと話す時間が減るの、嫌だった」
その瞬間、胸の奥で固くなっていたものが、少しだけほどけた。
同じだったのだ。
ずれていたのは、気持ちじゃない。言葉の置き方だけだった。
「じゃあ、決めよう」
俺は言う。
「作業の日でも、ちゃんと二人の時間をつくる」
葉月が目を瞬く。
「……どれくらい」
「十五分」
「……短い」
即答だった。
その速さが少し可笑しくて、俺は苦笑する。
「二十分」
「……三十分」
「交渉が強いな」
そこで葉月の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
小さいけれど、たしかに笑った。
「わかった。三十分」
俺は降参する。
「作業の日でも、三十分は仕事じゃない話をする」
葉月は静かに頷いた。
「……約束」
「約束」
その約束は、付箋のルールを増やした日よりも、朝早く会うことを決めた日よりも、ずっと根本的だった。
会うための工夫じゃない。
ちゃんと伝えるための時間を、先に確保する約束だ。
午後には進路掲示の最終提出が終わった。
神代は資料を抱えたまま「助かった」とだけ言って職員室へ消えていく。最後まで、誤解の余地がないくらい清潔な共同作業者だった。
陽菜は教室の端からまた親指を立ててきた。観測終了を宣言したくせに、演出だけは最後まで一流である。
放課後、俺たちは少し遠回りして駅へ向かう歩道橋へ上がった。
夕焼けが欄干を赤く染めている。風が吹いて、制服の袖が少しだけ触れた。
今なら手くらい繋げる。
そう思った。
でも俺は、先に口を開いた。
「葉月」
「……うん」
「今日さ」
少し笑う。
こんな場面で笑えるようになったこと自体、たぶん昔の俺から見れば大きな進歩だ。
「ちゃんと主語がある」
葉月が首を傾げる。
意味はわかる。でも、続きを待ってくれている顔だった。
だから俺は、一歩だけ近づく。
「俺が」
呼吸を整える。
「氷見坂葉月を好き」
少し変な日本語だと思う。
でも、その不格好さごと今日の俺たちらしかった。
省略しないための言い方。
葉月は一瞬だけ目を丸くして、それから、ほんの少し照れたみたいに視線を揺らした。
「私は」
逃げずに、言う。
「灯里颯太が好き」
それだけで、世界は十分だった。
足りないものなんて、もう一瞬忘れられるくらいには。
葉月が、俺の制服の袖をつまむ。
ほんの少しだけ。
文化祭で離した手より、ずっと弱い力。
でも、今度は違う。
俺はそのまま手を伸ばしかけて、止まった。
違う、と思ったのだ。
今ここで黙って握るのは、たぶん昔の俺たちのやり方だ。
わかっているから省略する。伝わっているから言わない。そういう便利さに甘えた先で、俺たちは何度も遠回りしてきた。
「……いや」
葉月がこちらを見る。
「今のなし」
「……?」
「ちゃんと言う」
一度、深呼吸する。
風が胸の奥まで入ってくる。
「葉月」
「うん」
「手を繋ぎたい」
それは、たぶんこの物語の中で一番小さくて、一番大事な告白だった。
好きだと言うことより先へ行くための、でも好きだと同じくらい勇気のいる一文。
葉月は少しだけ驚いた顔をして、それから、嬉しそうに笑った。
派手じゃない。けれど確実に、俺だけへ向けられた笑顔だった。
「……私も」
その返事を聞いてから、俺たちは手を繋いだ。
温度が伝わる。
強くはない。けれど離さない、と思うには十分だった。
たぶん俺たちは、これからも喧嘩をする。
言葉を間違える日もある。
沈黙へ逃げる日もある。
忙しさや不安や、くだらない意地で、また少しだけすれ違うことだってあるはずだ。
それでも。
あの日の俺たちとは、もう少しだけ違う。
足りないなら、ちゃんと足りないと言う。
寂しいなら、ちゃんと寂しいと言う。
嬉しいなら、ちゃんと嬉しいと言う。
好きなら。
何度でも、
誰が、
誰を、
好きなのかを言う。
主語を落とさずに。
だから、この恋は終わらない。
終わったのは、主語のない恋のほうだ。
ここから始まるのは、何度でも言葉を選び直せる恋だ。
葉月が俺を見る。
「……颯太」
「うん」
「好き」
俺は笑った。
「俺も」
そして今度は、ちゃんと主語を付ける。
「もう一度言う、俺は、氷見坂葉月が大好きだ」
夕暮れの風が、二人の間を通り過ぎる。
もう、その風に言葉はさらわれない。
数歩歩いてから、葉月が小さく息をついた。
何か言いかけて、やめる。
昔なら、たぶんその続きが聞こえたのだと思う。
あの不思議な実況が、勝手に言葉を補ってくれたのかもしれない。
でも今日は、聞こえない。
なのに、不思議と困らなかった。
葉月は少しだけ俺の手を握り直して、それから、ほんの少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「……ねえ」
「ん?」
「今日、ちゃんと聞けた」
何を、とは聞かなかった。
たぶん同じことを考えていたからだ。
実況もいらない。
観測者もいない。
翻訳者もいない。
主語を補ってくれる誰かもいない。
それでいい。
俺たちはもう、自分の言葉で恋を続けられる。
だから――
この恋には、もう、ちゃんと主語がある。
『完』
ここまで本作を読んでくださり、本当にありがとうございました。灯里颯太と氷見坂葉月の、不器用で、遠回りで、それでも少しずつ言葉を手にしていく恋を書き切ることができたのは、最後まで見届けてくださった皆さまのおかげです。
伝わると思っていた気持ちほど、ちゃんと言葉にしなければ届かない――そんな当たり前で難しいことを、この物語に込めました。
二人の会話や沈黙のひとつひとつが、皆さまの心に少しでも残っていたなら幸いです。たくさんの応援、本当にありがとうございました。
最後に評価の★を一つでも頂けたら次回作も頑張ります!




