第29話 はじめての小さなすれ違い
恋人になってから初めて知ったのは、好きな人と会う時間は、長ければ長いほど満たされるわけではない、という極めて不親切な真実だった。
むしろ逆だ。
会う理由が増えるほど、会えない種類が増える。
同じ空間にいるのに届かない、という贅沢なくせに切実な不足が、この世にはちゃんと存在する。
しかもそれは、片想いの頃よりずっと始末が悪い。
片想いの頃は、足りないこと自体が普通だった。見えていないこと、届かないこと、言えないことを前提に、人は勝手に諦めの技術を身につける。
けれど両想いのあとに来る欠乏は、一度満たされた記憶を連れてくる。
文化祭の喧噪の中で、はぐれないために取った手。
図書室で正論みたいに落ちてきた余計な一言。
離すの、早かった――と、葉月が小さく零した、あの声。
星の付箋が向きを変えるだけで、意味が増えていった日々。
白いハート一つに、夜の心拍数を全部攫われたこと。
そういう“足りていた記憶”があるから、少し足りないだけで胸が騒ぐ。
好きという感情は、満たされたあとにこそ面倒になる。
進路特集の共同作業は、そういう意味で最悪に優秀だった。
月曜の放課後、進路指導室の隣の空き教室。
神代が抱えてきたプリントの束を机に置いた瞬間、紙の角がばさりと鳴った。
「追加分。先生が“この一文は浅い”って容赦なく切った」
見ただけで肩が重くなる量だった。
「高校生の仕事に求める解像度じゃないだろ」
俺が言うと、神代は涼しい顔で返す。
「やるならちゃんとやりたい」
正論だった。
腹が立つくらい正論だった。
以前の俺がこいつを葉月の本命候補リストに入れていたことを思い出すたび、机の下に穴を掘って埋まりたくなる。
葉月は俺の斜め向かいでノートを開き、神代の言葉に小さく頷いていた。
仕事モードの葉月は、静かで、硬質で、綺麗だ。余計な愛想を削って、その分だけ言葉の精度が上がる。たぶん俺は、ああいうところに最初から負けていた。
『今日は作業』
『会えてる』
『でも会えてるの定義が少し難しい』
聞こえた内心が、今の俺そのものだった。
三人での作業は、悔しいほど噛み合った。
神代が全体の構成を見る。
葉月が文章の骨格を整える。
俺が読む側の呼吸を考えて文を削る。
担当が自然に分かれていて、無駄がない。
「“興味があります”が多いな」
俺が言う。
「入口としてはわかるけど、理由としては弱い」
「じゃあ、“なぜ興味を持って、何を続けたいか”まで見出しに入れる?」
葉月が言う。
「いい」と神代がすぐ返す。
仕事としては百点だった。
彼氏としての心は、八十点あたりからじわじわ減点されていく。
理由は単純だ。
葉月が近い。
近いのに、俺のほうを見ていない。
もちろん、見ていないわけじゃない。
共同作業者としてはきちんと向いている。必要な相談も、確認も、提案も、全部してくれる。
ただそれが、恋人に向ける種類の視線じゃないだけだ。
こういうのを独占欲と言うのかもしれないし、もっと正直に言えば、ただ拗ねているだけなのかもしれない。
だが、拗ねるには相手が正しすぎた。
神代は悪くない。葉月も悪くない。締切は待ってくれない。
つまり悪いのは、現実が少しは恋愛に配慮してくれると、心のどこかで期待していた俺の希望的観測である。
火曜は葉月が放課後講習で途中離脱した。
水曜は俺が家の手伝いで先に帰った。
木曜は神代が担任に捕まり、作業開始が遅れて終わる頃には校舎が閉まる時間だった。
金曜は模試前対策の自習室が延長され、葉月の目の下にうっすら疲労が落ちた。
会っている。
毎日ちゃんと顔を見ている。
それなのに、会えていない。
この矛盾を誰か公式にしてくれないだろうか。
たぶん恋は、理屈で生活してきた人間ほど、あとから急に殴ってくる。
金曜の作業終わり、神代が職員室へ確認を取りに行った隙に、俺と葉月は空き教室に二人きりになった。
久しぶりだった。
蛍光灯の白さが紙の端をやけに鋭く見せる、夕方の教室。窓ガラスの向こうは茜色で、こっちはそれより少し冷たい。
「……疲れてるだろ」
なるべく柔らかく聞いたつもりだった。
葉月は一拍だけ置いてから、頷く。
「……少し」
少し、の使い方がうますぎる。
この子の“少し”は、だいたい“平気”の皮を被った本音だ。
『少しじゃない』
『でも颯太も疲れてる』
『ここで先に弱音を言うと、何かが崩れそうで嫌』
だったら言ってくれ、と思う。
いや、違う。言わせてやれ、だ。
恋人ならそうするべきだと頭ではわかる。
わかるのに、今週の俺は少しずつ削れていた。
朝は挨拶しかできない。昼は短い。放課後は共同作業。帰り道は方向や都合がずれる。
好きな相手と一緒にいる時間のはずなのに、全部が“ついで”で消費されていく感覚だけが残る。
「……最近さ」
その一言だけで終わればよかった。
あと一秒。
あと一回だけ呼吸していれば。
きっと今日の俺たちは、ちゃんと笑って帰れた。
なのに、人は一番守りたい相手ほど、疲れている日に限って言葉を急ぐ。
「前みたいに……ちゃんと話せてない気がする」
紙を押さえていた葉月の指が止まる。
音はしなかった。
けれど、その静かな停止だけで、教室の空気が薄くなる。
「……うん」
違う。
その“うん”は同意じゃない。
測っている。
今の言葉が、どこまで自分を傷つけるものなのか。
『続きを聞くのが少し怖い』
その実況だけで、胃の奥が冷えた。
なのに俺は止まれなかった。
「会ってるのにさ」
「……うん」
「何か最近」
一度言葉を飲む。
飲めばよかった。
全部。
「葉月が少し遠い気がして」
しまった。
そう思った瞬間には、もう遅かった。
葉月はゆっくり顔を上げる。
驚いた顔ではない。
怒った顔でもない。
もっと嫌な表情だった。
傷ついた人が、自分だけは取り乱さないよう必死に立っている顔。
「……遠い?」
静かだった。
静かすぎた。
嵐の前なんて比喩じゃない。
本当に、教室から音だけが消えていた。
「違う。そういう意味じゃ――」
「じゃあ」
葉月が、俺の言葉を初めて遮る。
「どういう意味?」
初めてだった。
葉月が俺の言葉を切ったのは。
その事実だけで、胸の奥が嫌な音を立てる。
「俺は……」
出てこない。
寂しかった。
もっと話したかった。
手を繋ぎたかった。
恋人だから、少しくらい甘えたかった。
そう言えばいいだけなのに。
なのに、口から出たのは最低の一文だった。
「最近、葉月も少し変だから」
世界が止まった。
今ならわかる。
人間関係が壊れるときには、ガラスみたいな派手な音はしない。
ただ、取り返しのつかない言葉だけが、静かに落ちる。
葉月は何も言わなかった。
その沈黙の長さで、ようやく自分が何をしたのかわかる。
『そう見えてたんだ』
『私、ちゃんとできてないんだ』
『頑張ってたのに』
「……努力してる」
それだけだった。
言い訳じゃない。
反論でもない。
泣き言でもない。
ただ、事実だけ。
「私」
一度だけ、葉月が息を吸う。
「……ちゃんと恋人になろうって」
笑おうとする。
失敗する。
「頑張ってる」
胸の真ん中に、何かが音を立てて刺さった。
ああ、違う。
葉月は責められたんじゃない。
採点されたと思ったんだ。
進路も、勉強も、家のことも、放課後の作業も、その全部の隙間に俺との時間を入れようとしていた。
朝少し早く来ること。
昼に補助机へ向かうこと。
付箋に意味を増やしたこと。
言いづらいことを、言葉にする練習をしていたこと。
葉月なりに、ずっと“ちゃんと恋人になる努力”をしていた。
その努力へ向かって、俺は“最近少し変だから”と投げたのだ。
「違う」
ようやく絞り出す。
「そういう意味じゃない」
だが、その“違う”がどれほど空虚か、もう自分でもわかっていた。
違うなら、最初から正しい言葉で言え。
そういう話だ。
「……うん」
葉月は頷いた。
でもその“うん”は、理解でも許しでもなかった。
ただ会話を終わらせるための、優しすぎる保留だった。
『わかってる』
『でも痛い』
『今、颯太の前で泣きたくない』
その実況が、余計に俺を追い詰める。
泣きたくない、と思わせた時点で、もう完全に失敗している。
最悪のタイミングで、ドアが開いた。
「悪い、先生長くて――って」
神代が言葉を切る。
空気を読みすぎるほど真面目なやつの沈黙は、普段よりずっと居心地が悪い。
「何かあった?」
俺と葉月は、ほとんど同時に言った。
「何でもない」
同時だったことだけが、余計に痛かった。
そこから先の十分間は、笑えるくらい完璧な共同作業だった。
誤字は直し、見出しは揃え、レイアウトは整えた。
文字はこんなに綺麗に並ぶのに、人間の感情はどうしてこうも行間で事故るのか。
帰り道、俺は葉月に声をかけられなかった。
葉月もこちらを見なかった。
神代がいるから、という言い訳はあった。けれど本当は、二人きりになったときに何を言えばいいのかわからなかっただけだ。
駅のホームで、昔のことを思い出した。
人混みの中で手を取って、離す理由ばかり先に探していた頃のことを。
あのときの俺は、言葉が足りなかった。
今の俺は、言葉があるのに、まだ足りない。
夜になっても、葉月から連絡は来なかった。
俺も送れなかった。
スマホを開いては閉じる。打っては消す。
ごめん。
さっきの違う。
寂しかっただけ。
でも、それだと軽い。
軽いくせに重い。
どうしろっていうんだ。
机の上には、青い星の付箋が置いてあった。
横向きなら“会いたい”。
上向きなら“普通”。
けれど今は、どの向きにも見えた。
たぶん向きを決める言葉を、俺たちはまだ持っていない。
翌朝。
教室へ入った瞬間、違和感があった。
机を見る。
青い星がない。
昨日まで、毎朝そこにあったはずの付箋が。
ない。
胸の奥で、小さな音がした。
嫌な予感は、いつだって音もなく育つ。
後ろを見る。
葉月は本を読んでいる。
実況は聞こえない。
一文字も。
いや。
聞こえないんじゃない。
何も考えられないほど、静かなんだ。
そこへ陽菜が現れる。
俺の机を指先で軽く叩く。
「はい」
妙に明るい声だった。
だからこそ怖かった。
「観測終了のお知らせ」
俺は笑えなかった。
陽菜は続ける。
「あと」
一拍。
ほんの一拍だけ視線を葉月へ向ける。
「今日から、実況も聞こえないよ」
心臓が止まった。
俺だけじゃない。
この恋そのものが、どこかで息を止めた気がした。




