第28話 主語のある嫉妬
翌日の俺は、朝から敗北していた。
何に負けているのかと言えば、昨夜のメッセージである。
『明日、嫉妬の続き、ちゃんと話したい』
言葉の強さがすごい。葉月は普段、短い文しか送ってこない。だからこそ、短いまま核心へ突っ込んでくる一文の威力が高すぎる。
嫉妬の続き。そんなもの、正式な議題として存在していいのか。だが存在してしまった以上、俺はもう逃げられない。
——それに、あのあとに届いた「送信を取り消しました」の通知も、いまだに胸の底に沈んだままだ。何を書いて、何を消したのか。聞いていいものか、それすら判断がつかない。答え合わせは今日か、それとも今日じゃないのか。そのわからなさごと、俺は今朝のコンディションに組み込まれている。
教室に入ると、机の上には青い星が一枚。今日は上向きだった。
普通。相談ではない。少なくとも、昼まで持ち越し可能という意味らしい。
葉月は後ろの席で本を開いていた。視線が一度だけこちらに向き、すぐ戻る。
『いる』
『来た』
『今日はちゃんと話す』
その実況だけで、こっちの心拍数が一段上がる。
朝のうちに陽菜が察した。
「何かあるね」
「お前はエスパーか」
「違うよ。顔がずっと”本日重要イベント開催”って言ってる」
的確すぎて腹が立つ。
「嫉妬の続き、らしい」
観念して小声で言うと、陽菜は一瞬だけ黙り、それから真顔になった。
「それは逃げない方がいいやつ」
「わかってる」
「わかってる人の顔じゃない」
たしかにわかっていても、心が追いつくとは限らない。
「でもね」と陽菜は言った。
「それ、めちゃくちゃ前進だよ」
俺が眉をひそめると、陽菜は肩をすくめた。
「付き合う前って、“好きかどうか”が問題でしょ。付き合った後は、“不安になったときどう言うか”が問題になるの。それが夫婦生活」
その言葉は、思ったより深いところへ刺さった。
しかし、夫婦生活は余計だ。
たしかにそうだ。告白して終わりじゃない。むしろそこから先の方が、言葉の精度を求められる。
昼休み。俺は弁当を持って、いつもの補助机へ向かった。
葉月はすでに来ていた。星の付箋をノートの端に貼ったまま、静かに待っている。
「……来た」
「行くって言ったからな」
最近このやり取りが定型になりつつある。
それが妙にうれしい。
少しの沈黙のあと、葉月が先に口を開いた。
「……昨日の、続き」
「うん」
「……嫉妬、したって言った」
改めて口にされると、妙に照れる。
「言ったな」
「……嫌じゃなかった」
そこで、箸が止まる。
嫌じゃなかった。
意味がわかるまで一瞬かかった。
『むしろ少し嬉しかった』
『でも性格が悪いみたいで言いづらい』
『でも黙ってるとまた主語が抜ける』
葉月は、今まさにそれと戦っているのだと思った。
言えば重いかもしれない。面倒かもしれない。性格が悪く見えるかもしれない。それでも、曖昧に逃げる方がもっと嫌だから、ちゃんと口にしようとしている。
「嬉しかったのか」
俺ができるだけ静かに聞くと、葉月は目を伏せたまま頷いた。
「……少し」
絶対に少しではないやつだ。
「どうして」
尋ねると、葉月は少しだけ時間をかけて言葉を探した。
「……颯太が、私に対して、ちゃんと乱れたから」
乱れた。
その表現に不意を打たれて、俺は数秒固まった。
でも、ものすごく葉月らしい言い方だった。嫉妬を、もっと俗っぽい言葉じゃなく、感情の均衡が崩れた状態として捉えている。
「それって褒められてるのか?」
「……たぶん」
たぶんらしい。
俺は一度息を吐いてから、正面から答えることにした。
「葉月が他のやつと話してるのを見て、嫌だった」
自分の声が思ったより落ち着いていて驚く。
落ち着いているのは、たぶんもう逃げるのをやめたからだ。
「でも、それで葉月を疑ったわけじゃない」
「……うん」
「ただ、俺の知らない時間が増えるのが、少し怖かった」
そこまで言ってから、自分でもようやく整理できた気がした。
嫉妬の正体は、神代そのものじゃない。葉月の時間の中に、自分の知らない領域ができることへの不安だ。
前の席だった頃は、見えていることが多かった。今は見えない時間が増えた。その分だけ、想像が入り込む。
葉月は俺の言葉を黙って聞いていた。
そして、静かに言う。
「……私も、少し怖い」
今度は俺が驚く番だった。
「俺に?」
「……うん」
葉月は頷く。
「……颯太は、考えるのが広いから」
「それ、この前も言われたな」
「……だから、私の知らないところで、一人で結論まで行く時がある」
言い返せない。
前の俺は、まさにそうやって盛大な誤読を積み重ねてきた。
「だから」と葉月は続ける。
「……嫉妬したなら、言ってほしい」
主語が入っていた。
はっきりと。逃げずに。
「私も、困ったら言う」
その約束は、恋人らしいというより、同盟に近かった。感情を隠して勝手に拗らせないための協定。主語のない恋を経た俺たちには、たぶん何より必要なものだ。
「わかった」と俺は言う。
「じゃあ俺も、ちゃんと言う」
葉月は少しだけ考えてから、さらに一歩踏み込んだ。
「……今、言って」
無茶振りである。
「今?」
「……練習」
練習って何だ。だが、葉月の目は真剣だった。たぶん彼女なりに、曖昧にしない訓練を
しようとしている。
俺は観念した。
「……葉月が他の男と二人で残ってるの、少し嫌だった」
言えた。
かなり恥ずかしい。
葉月は数秒黙って、それから小さく頷く。
「……了解」
その返しが妙に可笑しくて、俺は笑ってしまった。
葉月もつられるみたいに、ほんの少しだけ口元を緩める。
『今のは大成功』
『たぶん』
『でも次は私の番かも』
その”次は私の番”という一言が、妙に引っかかった。まるで、まだ提出していない答案が一枚あるみたいな言い方だった。
勇気を出して、俺は踏み込むことにした。
「……昨日の、消したメッセージ」
葉月の箸が、今度は完全に止まった。
「……気づいてた」
「気づくだろ、あれは」
葉月は少しの間、視線を彷徨わせる。言葉を探しているのか、それとも言葉を選び直しているのか、俺には判断がつかない。
「……あれは」
「うん」
「……まだ、言えない」
その答えに、俺は拍子抜けするより先に、妙な予感を覚えた。
言えない、じゃなくて、言わない、でもない。まだ。
その一語が、次の何かを予告している気がした。
「わかった。急かさない」
そう言うと、葉月は少しだけ安堵したように息を吐く。
「……ありがとう」
『でも、遠くない』
『たぶん、もうすぐ』
『颯太には、ちゃんと知ってほしいことだから』
その実況を聞いた瞬間、俺の中の予感は確信に変わった。何かが近づいている。
良いことなのか、そうでないのか、まだわからないまま。
昼休みの終わり、葉月はノートの星付箋を一度剥がし、今度は横向きに貼り直した。
「それ、機嫌悪いの意味じゃなかったか」
「……意味、増やす」
「急に拡張するな」
葉月は少しだけ得意げに、でも無表情のまま言う。
「……横向きは、“会いたい”」
心臓に悪すぎる。
午後の授業は、その一言だけで全部持っていかれた。
だが、それでも嫌じゃない。むしろ、こうやって少しずつ合図と言葉を増やしていくこと自体が、今の俺たちの関係なのだと思う。
午後の授業中、俺は何度も星型の付箋を見てしまった。
横向き。会いたい。
ノートの端に貼られた小さな青だけで、人間の集中力はここまで破壊されるらしい。教師が黒板に重要と書いた箇所より、葉月が勝手に更新した付箋ルールの方がよほど重要だった。
しかも、こうなると逆に気になってくる。葉月はこの”会いたい”を、どの程度の頻度で使うつもりなんだろう。乱発されたら心臓がもたない。かといって滅多に使われないのも寂しい。どっちに転んでも勝手だ。
『見すぎ』
『その付箋に集中しすぎ』
『でも、気づいてくれるのは嬉しい』
後ろから聞こえてくる実況に、俺は思わず教科書で顔を半分隠したくなった。
授業の終わり際、陽菜が紙を丸めて軽く投げてきた。開くと、雑な字でこう書いてある。
『主語あり同盟、結成おめでとう』
誰がそんな名称を付けた。
だが否定しにくいのが腹立たしい。
放課後、進路指導室の前で担任に呼び止められた。
「灯里、ちょうどいい。氷見坂も呼んでくれ」
嫌な予感ではなく、今度は妙に現実的な予感がした。
葉月を連れて戻ると、担任は二枚のプリントを差し出す。
「学年掲示の進路特集、神代ひとりじゃ手が回らん。お前ら二人、文章まとめ役で追加な」
俺と葉月は同時に固まった。
担任はそんな反応を気にも留めず続ける。
「どうせお前ら、進路の方向性も近いし、最近よく理由書の相談もしてるんだろ。だったら一緒にやった方が効率いい」
なぜそんなに事情を把握している。
教師の情報網は時々、都市伝説じみた精度を発揮する。
葉月が隣で小さく息を呑む。
『ばれてる』
『いや、どこまで?』
『でも効率いいのは、否定できない』
たしかに否定しづらい。
進路の話をする。文章をまとめる。放課後に残る。どれも表向きの理由としては完璧すぎる。恋愛における”名目”として、ここまで整いすぎたものが現実に存在していいのか疑わしくなるレベルだ。
「来週までにたたき台作ってくれ」と担任は言った。
「神代から共有来るはずだから」
プリントを受け取りながら、俺は横目で葉月を見る。
葉月もこちらを見ていた。
ほんの一瞬、目が合う。
そして葉月の実況が、ほとんど同時に響く。
『放課後ルート、増えた』
『でもこれはたぶん』
『……仕事名目のデートでは?』
その発想に負けて、危うく吹き出しかけた。
「どうした?」と担任が訝しむ。
「いえ、何でも」
何でもある。
かなりある。
進路指導室を出たあと、葉月が小さく言った。
「……増えた」
「何が」
「……会う理由」
それは、今日いちばん強い言葉だった。
嫉妬も、不安も、合図も、全部通ってきたあとで残るのがそれなのかと思う。
「じゃあ」と俺は言う。
「今度は、理由だけじゃなくて会おう」
葉月が少しだけ目を見開く。
『それはずるい』
『でもかなり好き』
『次の付箋ルール、また増やすかも』
どうやら次の問題は、嫉妬ではなく、公式に増えた二人きりの時間と、さらに複雑化しそうな秘密の合図らしかった——そう、俺は結論づけかけていた。
だが廊下を並んで歩き出した直後、葉月のポケットでスマホが震えた。
一度。
葉月がそれを取り出す。画面を見た瞬間、表情はほとんど動かなかった。
動かなかったのに、鞄の紐を握る指先だけが、わずかに白くなった。
「……どうした」
「……何でもない」
昨日と同じ台詞。
だが今日の俺は、もうそれが何でもなくないときのそれだと知っている。
葉月はスマホをそっと伏せ、それ以上何も言わなかった。
実況すら、聞こえなかった。




