第27話 星の裏側
翌朝、俺はいつもよりさらに早く目が覚めた。
理由は明白だ。葉月が昨日、最後に言った一言。
『……明日、相談したい』
たったそれだけで人間はこれほど安眠を失うのか、というくらい見事に眠りが浅かった。いや、原因はそれだけじゃない。神代司。進路掲示。放課後に残る葉月。そして、認めたくなかったけど認めてしまった感情——嫉妬。
嫉妬なんて、もっと派手なものだと思っていた。
胸倉を掴むみたいに激しくて、わかりやすく醜くて、ドラマの中でだけ成立する感情だと。
実際は違う。もっと静かで、もっと日常に紛れている。自販機の前に立ったまま帰れなくなるとか、誰かの名前が出ただけで少しだけ呼吸が浅くなるとか、そういう地味でみっともない形をしている。刃物じゃなくて、画鋲だ。小さくて、忘れた頃にまた刺さる。
教室に入ると、葉月はもう来ていた。
新しい後ろの席。朝の光の中で本を開いている。いつも通りに見える。だから余計に、昨日の「相談したい」が非現実みたいに思えた。
「おはよう」
俺が声をかける。
「……おはよう」
それだけのやりとり。
けれど、俺の机の上にはすでに一枚、青い星型の付箋が置かれていた。
昨日もらったものと同じ色。
ただし今日は、向きが逆だった。
尖った先端が下を向いている。
俺はしばらくそれを見つめる。付箋に向きなんて本来ない。ないのに、そこへ意味を見出したくなるのが人間だ。いや、今の俺たちはたぶん、もう無意識に意味をつくろうとしている——星ひとつで会話が成立するくらいには。
葉月が小さく実況する。
『気づいた』
『よかった』
『でも説明するのも少し恥ずかしい』
ああ、なるほど。
これが”相談したい”の答えか。
休み時間、俺は後ろの席まで歩いた。
「この星」と小声で言う。
「……うん」
「向きに意味ある?」
葉月は少しだけ視線を泳がせ、それから頷いた。
「……上向きは、普通」
「普通」
「……逆は、相談」
秘密基地の合図かよ、と思った。
だが高校生の恋愛は、だいたい秘密基地くらいの幼さと真剣さで出来ている気もする。
「じゃあ横向きは?」
つい聞く。
葉月は少し考えてから言った。
「……機嫌が悪い」
「わかりやすいな」
「……わかりやすい方がいい」
その言葉が妙に残った。
主語のない恋から、主語のある恋へ。今の俺たちはたぶん、その途中にいる。
だから合図だって、前よりわかりやすい方がいい。
昼休み。俺たちはいつもの補助机へ移動した。
今日の星は逆向き。相談案件である。
「昨日の神代くんの件」と葉月が切り出す。
「うん」
「……たぶん、あと何回かある」
進路掲示の作業は一日で終わらないらしい。文化祭アンケート、進路希望のコメント、学年掲示用の見出し。葉月の文章力が担任と神代に見つかってしまった結果、補助戦力としてかなり本気で期待されているようだった。
「断るつもりはない?」
「……ない」
きっぱりした返事。
葉月にしては珍しいくらい迷いがない。
「やりたいんだな」
「……少し」
少し、という言い方に抑えていても、実況の方はもっと正直だった。
『少しじゃない』
『かなり向いてるって言われたの、嬉しかった』
『颯太にも見てほしいくらいには』
見ている。かなり見ている。
そして、それとは別に少しだけ面白くない自分がいる。
葉月はそこも見逃さなかったらしい。
「……昨日」
「ん?」
「……待ってた?」
直球だった。
箸が止まる。
「……まあ」
「……かなり?」
そこで嘘をつく意味はない。
「少し、かなり」
葉月が一瞬だけ目を見開いたあと、視線を落とした。
『やっぱり』
『嬉しい』
『でも、それってつまり』
つまり何だ。
俺自身が答えを知っているくせに、口にするにはまだ勇気がいる。
「嫉妬、した?」
葉月が言った。
あまりにも静かに。けれど逃がさない声音で。
俺は完全に止まる。
その質問は、たぶん昨日の放課後からずっと、葉月の中で輪郭を持ちかけていたのだろう。彼女自身の書いた言葉のように——選ぶたびに輪郭を持つ、その通りに。
「……した」
認めると、不思議なくらい呼吸が楽になった。
恥ずかしい。情けない。だけど、隠すよりずっとましだ。
葉月は無表情のまま、でもほんの少しだけ唇の力を抜いた。
『よかった』
『あ、よかったって思うのは性格が悪い?』
『でも、少しだけちゃんと好きでいてもらえてる感じがする』
その本音に、こっちの羞恥心まで救われる。
「葉月は?」
今度は俺が聞く。
「神代と話すの、嫌じゃないんだろ」
「……嫌じゃない」
そこまでは即答だった。
だが次に続く言葉は、少しだけ遅れる。
「……でも」
その”でも”が、俺には重要だった。
「……颯太に、変に思われるのは嫌」
その一言を聞いた瞬間、昨日の自販機前の自分をもう一度殴りたくなった。
葉月が気にしていたのは、放課後が減ることだけじゃない。俺がどう受け取るか、その
こと自体をちゃんと気にしていたのだ。
「変には思ってない」
「……嫉妬はしたのに?」
痛いところを突く。
「嫉妬と不信感は別だろ」
口にしてから、自分でも少し大人みたいな台詞だと思った。だが、本心だ。
嫉妬はする。でも、それで葉月を疑いたいわけじゃない。
葉月は少し黙って、それから小さく頷く。
「……それなら、よかった」
補助机の向こうで、窓の外の光が少し揺れた。風はまだ止んでいない。
俺はそのときようやく気づく。今のこれは、ただの相談じゃない。俺たちが”付き合ったあとに、どう不安を処理するか”の最初の実践だ。
放課後、葉月は再び神代と作業することになった。俺は昨日ほどみっともなく待機しないと決めていた。決めていたのに、気づけば図書室の近くを通る遠回りを選んでいる。
人間、進歩はするが一日では完成しない。
棚の向こうから、神代の笑い声が聞こえた。
珍しい。あいつは基本的に真面目で、文化祭のときも無駄に姿勢がよかった印象しかない。そのあと、葉月の小さな声が続く。さらに少し遅れて——笑った。
葉月が、笑った。
立ち止まる。
心臓が変な動きをする。
嫉妬と、驚きと、たぶん少しの安堵。葉月が自然に笑えないことを俺は知っている。だからこそ、その笑いが他の誰かとの時間の中で零れた事実は、簡単には処理できなかった。
だがその直後、葉月の実況が聞こえる。
『今のたぶん変な笑い方だった』
『神代くんの例文が就活すぎたから』
『あ、颯太いた』
最後で俺は固まった。
見つかっていた。
数秒後、図書室の扉が開き、葉月が出てくる。
無表情。だけど目の奥に少しだけ困った色。
「……待ってた?」
「今回は、通りかかっただけ」
「……半分うそ」
即答で見抜かれた。
そして葉月は、俺の制服の袖をほんの少しだけつまむ。
それはもう、俺たちのあいだではかなり強い合図だった。
「……明日も、逆向きにする」
星の付箋のことだ。
「相談、まだ続くのか」
「……ううん」
葉月は一度だけ首を振る。
「……明日は、答える方」
何を。
そう聞く前に、葉月は袖を離した。
そのあと、俺たちは並んで校門まで歩いた。神代のことを話題にするにはもう十分すぎるほどしたはずなのに、沈黙の中にまだ少し熱が残っている。
「笑ってたな」と、結局俺は言ってしまった。
葉月が横目でこちらを見る。
「……見てた」
「いたからな」
「……変だった?」
その問いに、少しだけ言葉を選ぶ。
「びっくりした」
「……そっち」
「葉月が、ああいうふうに笑うの」
葉月は前を向いたまま、しばらく黙る。
やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「……神代くんが」
「うん」
「……進路掲示の例文なのに、就職面接みたいな言葉ばっかり並べるから」
想像して、少し笑う。
たしかに神代ならやりかねない。真面目すぎて、十七歳向けの掲示に二十五歳の自己PRみたいな文章を載せそうだ。
『笑ったの、久しぶりだったかも』
『でも、颯太に見られたなら悪くない』
『むしろ少し、かなり、見られてよかった』
その実況に、胸が静かに熱くなる。
「……そっか」
それしか言えなかった。
けれど葉月は、それで十分だとわかっているみたいに頷いた。
校門の前で別れる直前、葉月がもう一度こちらを見る。
「……嫉妬したって、言ってくれてよかった」
それは夕方の薄い光の中で聞くには、少し真っ直ぐすぎた。
俺は返事を探したが、結局うまく言えず、小さく頷くことしかできない。
その背中が校門の向こうへ消えるのを見送ってから、俺はスマホをポケットに戻した。
画面には何も届いていない。
なのに、朝からずっと——葉月の実況が聞こえていたはずの場面のどこかで、俺は無意識にもう一度、あの通知音を待っていた。
そして帰り道の途中、それは来た。
ポケットの中で、スマホが震える。
一度。
『明日、嫉妬の続き、ちゃんと話したい』
どうやら逃げ道は、最初から用意されていなかったらしい。
そう思って画面を閉じようとした、その瞬間だった。
もう一度、震えた。
通知が一件。
開く前から、嫌な予感がした。
――『メッセージの送信を取り消しました』
取り消された言葉は、二度と読めない。
葉月が何を書いて、何を消したのか。
その”逆向きの星”だけが、俺の手の中に残った。




