表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
27/30

第27話 星の裏側

翌朝、俺はいつもよりさらに早く目が覚めた。

 理由は明白だ。葉月が昨日、最後に言った一言。


『……明日、相談したい』


 たったそれだけで人間はこれほど安眠を失うのか、というくらい見事に眠りが浅かった。いや、原因はそれだけじゃない。神代司。進路掲示。放課後に残る葉月。そして、認めたくなかったけど認めてしまった感情——嫉妬。


 嫉妬なんて、もっと派手なものだと思っていた。

 胸倉を掴むみたいに激しくて、わかりやすく醜くて、ドラマの中でだけ成立する感情だと。


 実際は違う。もっと静かで、もっと日常に紛れている。自販機の前に立ったまま帰れなくなるとか、誰かの名前が出ただけで少しだけ呼吸が浅くなるとか、そういう地味でみっともない形をしている。刃物じゃなくて、画鋲だ。小さくて、忘れた頃にまた刺さる。


 教室に入ると、葉月はもう来ていた。

 新しい後ろの席。朝の光の中で本を開いている。いつも通りに見える。だから余計に、昨日の「相談したい」が非現実みたいに思えた。


「おはよう」

 俺が声をかける。

「……おはよう」


 それだけのやりとり。

 けれど、俺の机の上にはすでに一枚、青い星型の付箋が置かれていた。


 昨日もらったものと同じ色。

 ただし今日は、向きが逆だった。

 尖った先端が下を向いている。

 俺はしばらくそれを見つめる。付箋に向きなんて本来ない。ないのに、そこへ意味を見出したくなるのが人間だ。いや、今の俺たちはたぶん、もう無意識に意味をつくろうとしている——星ひとつで会話が成立するくらいには。

 葉月が小さく実況する。


『気づいた』

『よかった』

『でも説明するのも少し恥ずかしい』


 ああ、なるほど。

 これが”相談したい”の答えか。

 休み時間、俺は後ろの席まで歩いた。

「この星」と小声で言う。


「……うん」

「向きに意味ある?」

 葉月は少しだけ視線を泳がせ、それから頷いた。

「……上向きは、普通」

「普通」

「……逆は、相談」


 秘密基地の合図かよ、と思った。

 だが高校生の恋愛は、だいたい秘密基地くらいの幼さと真剣さで出来ている気もする。


「じゃあ横向きは?」

 つい聞く。

 葉月は少し考えてから言った。

「……機嫌が悪い」

「わかりやすいな」

「……わかりやすい方がいい」

 その言葉が妙に残った。

 主語のない恋から、主語のある恋へ。今の俺たちはたぶん、その途中にいる。


 だから合図だって、前よりわかりやすい方がいい。

 昼休み。俺たちはいつもの補助机へ移動した。

 今日の星は逆向き。相談案件である。


「昨日の神代くんの件」と葉月が切り出す。

「うん」

「……たぶん、あと何回かある」


 進路掲示の作業は一日で終わらないらしい。文化祭アンケート、進路希望のコメント、学年掲示用の見出し。葉月の文章力が担任と神代に見つかってしまった結果、補助戦力としてかなり本気で期待されているようだった。


「断るつもりはない?」

「……ない」

 きっぱりした返事。

 葉月にしては珍しいくらい迷いがない。

「やりたいんだな」

「……少し」

 少し、という言い方に抑えていても、実況の方はもっと正直だった。


『少しじゃない』

『かなり向いてるって言われたの、嬉しかった』

『颯太にも見てほしいくらいには』


 見ている。かなり見ている。

 そして、それとは別に少しだけ面白くない自分がいる。

 葉月はそこも見逃さなかったらしい。


「……昨日」

「ん?」

「……待ってた?」

 直球だった。

 箸が止まる。

「……まあ」

「……かなり?」


 そこで嘘をつく意味はない。

「少し、かなり」

 葉月が一瞬だけ目を見開いたあと、視線を落とした。


『やっぱり』

『嬉しい』

『でも、それってつまり』


 つまり何だ。

 俺自身が答えを知っているくせに、口にするにはまだ勇気がいる。


「嫉妬、した?」


 葉月が言った。

 あまりにも静かに。けれど逃がさない声音で。

 俺は完全に止まる。

 その質問は、たぶん昨日の放課後からずっと、葉月の中で輪郭を持ちかけていたのだろう。彼女自身の書いた言葉のように——選ぶたびに輪郭を持つ、その通りに。


「……した」


 認めると、不思議なくらい呼吸が楽になった。

 恥ずかしい。情けない。だけど、隠すよりずっとましだ。

 葉月は無表情のまま、でもほんの少しだけ唇の力を抜いた。


『よかった』

『あ、よかったって思うのは性格が悪い?』

『でも、少しだけちゃんと好きでいてもらえてる感じがする』


 その本音に、こっちの羞恥心まで救われる。


「葉月は?」

 今度は俺が聞く。

「神代と話すの、嫌じゃないんだろ」

「……嫌じゃない」

 そこまでは即答だった。

 だが次に続く言葉は、少しだけ遅れる。

「……でも」

 その”でも”が、俺には重要だった。

「……颯太に、変に思われるのは嫌」


 その一言を聞いた瞬間、昨日の自販機前の自分をもう一度殴りたくなった。

 葉月が気にしていたのは、放課後が減ることだけじゃない。俺がどう受け取るか、その

こと自体をちゃんと気にしていたのだ。


「変には思ってない」

「……嫉妬はしたのに?」


 痛いところを突く。

「嫉妬と不信感は別だろ」


 口にしてから、自分でも少し大人みたいな台詞だと思った。だが、本心だ。

 嫉妬はする。でも、それで葉月を疑いたいわけじゃない。

 葉月は少し黙って、それから小さく頷く。


「……それなら、よかった」


 補助机の向こうで、窓の外の光が少し揺れた。風はまだ止んでいない。

 俺はそのときようやく気づく。今のこれは、ただの相談じゃない。俺たちが”付き合ったあとに、どう不安を処理するか”の最初の実践だ。


 放課後、葉月は再び神代と作業することになった。俺は昨日ほどみっともなく待機しないと決めていた。決めていたのに、気づけば図書室の近くを通る遠回りを選んでいる。


 人間、進歩はするが一日では完成しない。

 棚の向こうから、神代の笑い声が聞こえた。

 珍しい。あいつは基本的に真面目で、文化祭のときも無駄に姿勢がよかった印象しかない。そのあと、葉月の小さな声が続く。さらに少し遅れて——笑った。


 葉月が、笑った。

 立ち止まる。

 心臓が変な動きをする。

 嫉妬と、驚きと、たぶん少しの安堵。葉月が自然に笑えないことを俺は知っている。だからこそ、その笑いが他の誰かとの時間の中で零れた事実は、簡単には処理できなかった。

 だがその直後、葉月の実況が聞こえる。


『今のたぶん変な笑い方だった』

『神代くんの例文が就活すぎたから』

『あ、颯太いた』


 最後で俺は固まった。

 見つかっていた。

 数秒後、図書室の扉が開き、葉月が出てくる。

 無表情。だけど目の奥に少しだけ困った色。


「……待ってた?」

「今回は、通りかかっただけ」

「……半分うそ」

 即答で見抜かれた。

 そして葉月は、俺の制服の袖をほんの少しだけつまむ。

 それはもう、俺たちのあいだではかなり強い合図だった。


「……明日も、逆向きにする」

 星の付箋のことだ。

「相談、まだ続くのか」

「……ううん」

 葉月は一度だけ首を振る。

「……明日は、答える方」


 何を。

 そう聞く前に、葉月は袖を離した。

 そのあと、俺たちは並んで校門まで歩いた。神代のことを話題にするにはもう十分すぎるほどしたはずなのに、沈黙の中にまだ少し熱が残っている。


「笑ってたな」と、結局俺は言ってしまった。

 葉月が横目でこちらを見る。

「……見てた」

「いたからな」

「……変だった?」


 その問いに、少しだけ言葉を選ぶ。

「びっくりした」

「……そっち」

「葉月が、ああいうふうに笑うの」


 葉月は前を向いたまま、しばらく黙る。

 やがて、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。


「……神代くんが」

「うん」

「……進路掲示の例文なのに、就職面接みたいな言葉ばっかり並べるから」


 想像して、少し笑う。

 たしかに神代ならやりかねない。真面目すぎて、十七歳向けの掲示に二十五歳の自己PRみたいな文章を載せそうだ。


『笑ったの、久しぶりだったかも』

『でも、颯太に見られたなら悪くない』

『むしろ少し、かなり、見られてよかった』


 その実況に、胸が静かに熱くなる。

「……そっか」

 それしか言えなかった。

 けれど葉月は、それで十分だとわかっているみたいに頷いた。

 校門の前で別れる直前、葉月がもう一度こちらを見る。


「……嫉妬したって、言ってくれてよかった」


 それは夕方の薄い光の中で聞くには、少し真っ直ぐすぎた。

 俺は返事を探したが、結局うまく言えず、小さく頷くことしかできない。

 その背中が校門の向こうへ消えるのを見送ってから、俺はスマホをポケットに戻した。


 画面には何も届いていない。

 なのに、朝からずっと——葉月の実況が聞こえていたはずの場面のどこかで、俺は無意識にもう一度、あの通知音を待っていた。


 そして帰り道の途中、それは来た。

 ポケットの中で、スマホが震える。

 一度。


『明日、嫉妬の続き、ちゃんと話したい』


 どうやら逃げ道は、最初から用意されていなかったらしい。

 そう思って画面を閉じようとした、その瞬間だった。

 もう一度、震えた。

 通知が一件。

 開く前から、嫌な予感がした。


 ――『メッセージの送信を取り消しました』


 取り消された言葉は、二度と読めない。

 葉月が何を書いて、何を消したのか。

 その”逆向きの星”だけが、俺の手の中に残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ