第26話 秘密の合図
葉月の机の上で震えたスマホは、音もなく教室の空気を一段冷たく塗り替えた。
ホームルーム直前。陽菜の茶化し半分の笑い声、朝の連絡を待つざわめき、窓から差し込む白い光——さっきまでそこにあった”少し早く来て、少しだけ話す”という俺たちだけの特別時間が、その短い振動ひとつで現実へ引きずり戻される。
開けっぱなしの窓から吹き込んだ風が、葉月の前髪をひと房だけ攫っていった。今日、朝から何度目かの風だ。
葉月は画面を見た。
無表情のまま。
けれど、目だけがわずかに揺れる——コンマ一秒、瞳孔が縮むみたいに。
『え』
『このタイミングで?』
『……それは、少し困る』
困る。
たった四文字が、心臓の裏側に画鋲で留められたみたいに残った。
「どうしたの?」と陽菜が言う。
「……何でもない」
葉月はスマホを伏せた。画面を隠すその手つきが、いつもよりほんの少しだけ速い。
言葉はごまかせても、指先の速度まではごまかせないらしい。
俺は何も聞けないまま席へ戻る。いや、聞く勇気がなかった、が正しい。恋人だから何でも聞いていいわけじゃない——そんな理性が働く一方で、さっき見えた瞳の揺れの意味を、喉から手が出るほど知りたがっている自分もいる。
つまり朝から、めんどくさい男の完成である。
担任が入ってきて、出欠を取り、今日の連絡を始める。だが俺の脳は半分くらい別の場所にいた。前方から後方へ、視線だけで葉月の席を探す。遠い。新しい席の距離が、こんなに不便だとは思わなかった。
『気にしない』
『授業前』
『今は考えない』
葉月の実況はそう言っていたが、実況というものは大抵、本人が一番気にしているときほど”気にしていないふり”をする。
俺はもう、それを知っている。知りすぎている。
一時間目の数学は、驚くほど頭に入らなかった。黒板に並ぶ数式が、全部さっきのスマホ画面の四角い光に見える。比喩として雑なのは自覚しているが、それくらい集中できて
いないということだけは正確だ。
休み時間、陽菜がすぐにやってきた。頬杖をついて、俺の顔を覗き込む角度まで計算されている気がする。
「で?」
「何が」
「何でもない顔してる人が、だいたい一番何でもあるんだよ」
名言めいたことを言うな。
「氷見坂ちゃん、通知見たあとちょっと変だった」
「……やっぱりそう見えたか」
「見えたよ。灯里くんの顔も同じくらい変だったけど」
余計なお世話だ。
「気になるなら聞けば?」
「それで済むほど簡単じゃないだろ」
「へえ。前より慎重だ」
その指摘が、地味に刺さる。
前の俺なら、葉月の本音が聞こえるという一点にあぐらをかいて、勝手に踏み込みすぎていたかもしれない。けれど今は違う。恋人になったからこそ、聞くべきことと待つべきことの境界線が、前より重くなった。
「でも」と陽菜が続けた。
「聞かないで一人で想像を育てるのは、前の灯里颯太の一番悪い癖だよ」
ぐうの音も出なかった。
昼休み。俺は星型の付箋を持って、葉月の席へ向かった。今朝もらった青い星——まだ一枚も使っていないのに、すでに妙な重みを帯びている気がする。
「……来た」
「行くって言ったからな」
葉月の声はいつも通り小さい。だがその奥に、朝から続く微かな緊張がまだ沈殿している。
俺たちは補助机のある窓際へ移動した。新しい昼休みの避難場所。教室の中なのに、少しだけ二人の距離が守られる場所。今日はそこにも、さっきの風が一足先に来ていた。
弁当箱を開く。少し沈黙があって、それから俺は腹を括った。
「朝の通知」
葉月の箸が止まる。
「……うん」
「聞いてもいいか」
できるだけ静かに言ったつもりだった。押しつけないように、けれど逃がさないように。
葉月は俺を見て、それから小さく頷いた。
「……神代くん」
その名前が出た瞬間、俺の中で古い誤解が一瞬だけ息を吹き返す。かつて葉月の”本命候補リスト”に勝手に入れていた名前——今となっては黒歴史認定済みだ。
『今、ちょっと顔が固い』
『わかりやすい』
『でも、少しだけ嬉しいのが最悪』
最悪って言うな。こっちはこっちで、もっと最悪だ。
「神代くんが、何?」
どうにか平静を装って聞く。声が一オクターブ高くなっていないか、自分でも自信がない。
「……文化祭のアンケート、覚えてる?」
「クラスで取ったやつ?」
「……それを、進路指導の掲示に使うらしくて」
話が急に堅い方向へ曲がった。
「神代くん、学年委員の手伝いしてて。まとめる人が足りないって」
なるほど。
つまり恋愛ではなく、事務だ。
現実はときどき、ドラマの期待をあっさり裏切る。
だがそこで安堵した自分の単純さが、今度は別の意味で恥ずかしい。
「先生に、私が向いてるって言われたらしい」
葉月は少し言いづらそうに続けた。
「……人の話、整理するの、得意そうだからって」
ああ。
それは、たしかに向いている。
そして昨日の進路面談の話とも、不思議なくらい繋がっている。
「嫌なのか?」
聞くと、葉月は少し考えた。
「……嫌、ではない」
「じゃあ困ってるのは?」
葉月はそこで視線を落とした。箸で卵焼きの端をつつき、間を置く。窓の外で、また風が鳴った。
「……放課後、時間がなくなるかも」
その一言で、今朝から胸に刺さっていた棘の形が、ようやく見えた。
『やりたくないわけじゃない』
『でも、颯太と話す時間が減るのは嫌』
『そういう理由で困るって、重いかな』
重くなんかない。
むしろ、そう思ってくれていることの方が、俺にはよっぽど重かった。良い意味で。
「……それは、困るな」
口に出した瞬間、葉月がわずかに顔を上げる。
「颯太も?」
「そりゃそうだろ」
即答すると、葉月の目元が少しだけ緩んだ。
『よかった』
『同じだった』
『やっぱり少し嬉しい』
その反応を見た瞬間、俺は朝の自分を少し反省した。神代の名前ひとつで勝手に身構えて、肝心の葉月の”困る”の中身を見落としかけていた。
「でも断りたくないんだろ」
「……うん」
「だったら、やった方がいい」
葉月は驚いたようにこちらを見る。
「……いいの」
「よくはない」
「どっち」
思わず笑ってしまった。
「時間が減るのは嫌だ。でも、葉月に向いてることなら見たい」
言いながら、自分でもずいぶん欲張りだと思う。独占したいのに応援もしたい。恋愛感情はたいてい矛盾の詰め合わせだ。
葉月は少し黙って、それから小さく息をついた。
「……颯太は、そういうとこ、ずるい」
最近よく聞くやつだ。
けれど今回は、前より少しだけ甘い響きだった。
その日の放課後、葉月は神代と話すために教室へ残ることになった。俺は先に帰るつもりだった。つもりだったのに、足が階段へ向かわない。
結局、廊下の自販機の前で時間を潰していた。自分でもかなり格好悪い。
そこへ陽菜が来た。
「何してるの」
「別に」
「その”別に”は別にじゃないときのやつ」
最近どこでもそれを言われる。
「嫉妬?」
陽菜はあっさり言った。
「違う」
「へえ」
「……少しだけ」
認めた瞬間、妙に負けた気分になった。
陽菜は笑わなかった。ただ、面白がるより先に納得した顔をする。
「そっか。ちゃんと主語あるじゃん」
その言葉が、胸のどこかへ静かに落ちた。
やがて教室の扉が開き、葉月が出てきた。その後ろに神代司の姿もある。長身で、やたら姿勢がいい。昔の俺が勝手に警戒していたのも、今なら少しわかる。
「灯里?」と神代が先に気づいた。
「お前、まだいたのか」
葉月の目が一瞬だけ揺れる。
『いた』
『待ってた?』
『それは少し、かなり、嬉しい』
神代がそこで、手元のプリントを俺にも差し出した。
「ちょうどいい。お前も見るか? 進路掲示の見出し案」
思わず受け取る。
そこには、葉月の文字でこう書かれていた。
――“未来は、選ぶたびに輪郭を持つ。”
その一文に息を飲んだ瞬間、神代が何気なく言った。
「これ、氷見坂が一時間で出した」
さらっと言うな、と思う。
一時間。たったそれだけで、あの言葉を出したのか。
未来は、選ぶたびに輪郭を持つ——まるで今の俺たちにまで刃を向けてくるみたいな一文だ。
「すごいな」としか言えなかった。
葉月は少しだけ視線を逸らす。
『褒められるのは苦手』
『でも颯太に見られるのは、もっと苦手で、もっと嬉しい』
『この感情、忙しすぎる』
神代はそんな空気に気づいていないのか、あるいは気づいていてあえて触れないのか、
プリントを整えながら続けた。
「灯里、お前も言葉の拾い方うまい方だろ。次、見出し詰まったら手伝えよ」
不意打ちだった。
俺は一瞬返事に詰まる。
葉月も同じタイミングでこちらを見た。
『それは少し、かなり、助かる』
『でも颯太の時間を勝手に使うのは違う』
『いや、でも一緒にできるなら……かなり嬉しい』
その本音を聞いてしまったら、答えは一つしかない。
「時間が合えば、やる」
そう返すと、神代はあっさり頷いた。
「助かる。じゃあまた連絡する」
去っていく背中を見送りながら、俺はようやく息を吐いた。嫉妬した相手の背中に向かって、こうも普通に会話できるものなのかと自分で少し驚く。だが同時に、これは敗北じゃないとも思った。
葉月の世界にあるものを、俺は全部排除したいわけじゃない。
ただ、その中に自分がちゃんと居場所を持っていたいだけだ。
風が、また吹いた。今日三度目。
そして葉月は、俺を見て小さく口を開く。
「……明日、相談したい」
その声には、進路の話だけでは片づかない色が滲んでいた。
いつもなら、すぐに続くはずのものがある。
彼女の本音を教えてくれる、あの声。
——聞こえない。
葉月の実況が、初めて何も言わなかった。




