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第25話 遠くなった一列

図書室を出た直後もしばらく、俺たちはうまく会話を再開できなかった。

 さっきまで同じ机で進路理由書の相談をしていたはずなのに、今は階段へ向かう廊下を並んで歩くだけで心拍数が変に上がる。別に何か新しいことがあったわけじゃない。


 強いて言うなら、第三者の口から“仲がいい”と雑に要約されたことで、俺たちの空気が急に客観視されてしまったくらいだ。

 だが、その“くらい”が重い。


 恋愛というものは、ときどき当事者だけが知っていればいいと思っている温度を、勝手に外へ漏らす。視線の置き方とか、沈黙の長さとか、同じタイミングでページをめくる癖とか、そういう言葉にならないもの全部から、関係性がにじみ出るらしい。


 もしそれが本当なら、俺たちはもう、思っていた以上に“そう見える二人”なのかもしれなかった。


「……さっきの」


 先に口を開いたのは葉月だった。

 夕焼けの光を頬の端に受けながら、それでも前は向いたまま。


「うん」

「……少し、恥ずかしい」


 少し、で済ませるのか。

 たぶん心の中ではもっと大騒ぎしているくせに。


『少しじゃない』

『かなり恥ずかしい』

『でも、嫌じゃないのがもっと困る』


 やっぱりそうだった。

 俺は笑いそうになるのをこらえながら、できるだけ真面目な声で返す。


「俺も恥ずかしい」

「……そう?」

「かなり」


 葉月がほんの少しだけこちらを見る。

 その視線に、確認と安心が半分ずつ混ざっていた。


「……よかった」


 それだけで、今日の図書室の一件はだいぶ救われた気がした。

 俺だけが過剰反応していたわけじゃない。葉月も同じだけ照れて、同じだけ気にしている。

 恋人なんだから当たり前だろ、と言われればそうかもしれない。けれど、その“当たり前”を確かめるたびに、俺たちはまだ少しずつ恋人になっている途中なのだと思い知らされる。


 階段の踊り場で葉月が立ち止まり、手にしていたノートの端を揃えた。

 進路理由書の下書きには、俺が指摘した赤ペンの跡が残っている。


「さっきの続き」と葉月が言う。

「……颯太の進路の話」


 自分のことは後回しにして、俺の話を拾い直してくるあたりが葉月らしい。


「俺のは、まだ形がない」と正直に言う。

「方向はある。でも言葉にすると急に薄くなる」


 葉月は少し考え込んでから、珍しくすぐに答えを出さなかった。

 その沈黙に焦りはなくて、むしろ本気で考えてくれているのがわかる。


「……たぶん」と彼女は言った。

「……颯太は、考えるのが先に広がるから」


 予想外の分析に、俺は思わず瞬きをした。


「広がる?」

「……一つ決める前に、いっぱい見えてる感じ」


 妙に的確だった。

 たしかに俺は、一つの答えに着地する前にいくつも可能性を並べてしまう癖がある。前に葉月の本命を勘違いし続けていたときも、そうだった。見えるものが多いぶん、核心だけを取りこぼす。


「だから、まとめるの苦手なのかも」と葉月は続ける。

「……でも、そこが悪いとは思わない」


 その言い方が、静かなのに強かった。


『自分では雑だと思ってるところも』

『私はたぶん、嫌いじゃない』

『むしろかなり好き寄りだけど、そこまで言うのはまだ恥ずかしい』


 好き寄り、という雑な分類が妙に葉月らしくて、危うく吹き出しそうになる。

 だが同時に、胸の中心へ真っ直ぐ刺さる。


「……そう言われると助かる」


 やっとそれだけ返すと、葉月は小さく頷いた。


「ねえ、考えすぎるけど」

「うん」

「……ちゃんと来るから」


 その一言で、今度は本当に言葉を失った。

 考えすぎる。でも、来る。たぶんそれは、席が遠くなったあとでも昼休みに呼びに来ること、放課後に図書室まで一緒に来ること、その全部をまとめた評価だった。


『前より遠くても』

『来てくれるなら平気って思えた』

『そういうの、ずるい』


 最近の葉月の“ずるい”は、もうほとんど愛情表現の方言みたいになっている。


「……それ、嬉しい」

 今度は俺がそう言った。


 葉月は一瞬だけ黙って、それから少しだけ視線を逸らした。


「……知ってる」


 その返しは反則だろう。

 俺の反応を見越した上で言うには、あまりにも静かで、あまりにも強い。


 それから少し歩いて、窓際の踊り場へ差しかかったところで、葉月がふいに足を止めた。


「……もし」

「ん?」

「……前の席のままだったら」


 その先を言い淀む。


「前の席のままだったら?」


 聞き返すと、葉月は手の中のノートを抱え直してから、ようやく言った。


「……こういう話、しなかったかも」


 ああ、と思った。

 たしかにそうかもしれない。前の席なら、見えるだけで足りてしまうことが多かった。

 振り向けば話せる距離は便利で、そのぶん“わざわざ”を必要としない。

 けれど今は、会うために歩く。話すために時間をつくる。だからこそ、前なら曖昧なまま流れた感情まで言葉にしないと届かない。


「それはあるかもな」

 俺が答えると、葉月は静かに頷く。


「……遠いのは嫌」

「うん」

「……でも、悪いことだけじゃない」


 そのバランス感覚が、いかにも葉月だと思う。

 嫌だと認める。だけど、そこで終わらせない。失った距離の代わりに何が手に入ったかも見ようとする。


 たぶん俺が好きになったのは、こういうところだ。

 静かで、慎重で、でも本当はちゃんと強い。無表情の奥で、誰より真面目に感情と向き合っているところ。


 図書室を出る頃には、廊下は夕焼け色に染まっていた。窓の外のグラウンドでは、運動部の最後のランニングが始まっている。均一な掛け声と、長く伸びる影。その横を、俺と葉月は並んで歩く。


「前のままがよかった」と俺は言う。

「……うん」

「でも、今も嫌いじゃない」


 葉月がこちらを見る。少しだけ不思議そうな顔。


「……どうして」


 答えは、もう決まっていた。


「会いに行く理由が、前よりはっきりしたから」


 前の席だった頃は、そこにいるのが当然だった。

 今は違う。立ち上がる。歩く。会いに行く。声をかける。その一つ一つに意思がある。

 好きだからそうする、という輪郭が見える。

 距離ができたことで、逆に気持ちがはっきりした。皮肉だけど、たぶん本当だ。


 葉月はしばらく黙っていた。

 やがて、ほんの少しだけ頷く。


「……それは、少し、わかる」


 実況が続く。


『遠いのは嫌』

『でも来てくれるたびに、私が選ばれてる感じがする』

『今のは重い。却下。却下だけど本音』


 却下しなくていいのに、と本気で思う。

 でも、そうやって自分の気持ちの重さにいちいちブレーキをかけるのが、葉月の優しさであり臆病さでもあるのだろう。


 階段を下りかけたところで、葉月がふと立ち止まった。


「……一つ、提案」

「何」

「……朝、少しだけ早く来る」


 意味はすぐわかった。

 席が遠くなった。授業前のざわつきの中では話しづらい。なら誰もいない時間を先に確保すればいい。


「朝、会うため?」

「……うん」


 短い肯定なのに、破壊力だけが高い。


「じゃあ俺も早く来る」

「……約束」

「約束」


 約束という言葉は、不思議と距離を上書きしてくれる。物理的に離れた席のあいだに、別の近道をつくるみたいに。


 翌朝、俺はいつもより二本早い電車に乗った。自分で決めたくせに心臓だけは遠足前の小学生みたいに騒がしい。高校生の恋愛というやつは、たぶんこういう小さなイベントにいちいちHPをごっそり持っていかれる仕様らしい。


 教室の扉を開ける。まだ人は少ない。窓から差し込む朝の光が、机の列を静かに照らしていた。

 葉月はもう来ていた。新しい後ろの席に座っていたけれど、俺に気づくとすぐ立ち上がる。


「……早い」

「そっちも」


 それだけで少し笑いそうになる。

 席は遠いのに、朝だけはむしろ誰にも邪魔されない。皮肉みたいに上手くできている。


「これ」と葉月が言って、小さな包みを差し出した。

「……昨日、本屋の近くで見つけた」


 受け取る。開く。中には、星の形をした小さな付箋が入っていた。前に一緒に買った栞と同じ色味の青。夜空の欠片みたいな、静かな色だ。


『席、遠くなったから』

『ノートに貼れば少しは見つけやすい』

『それだけじゃないけど、それだけってことにしたい』


 その不器用な本音に、胸が詰まる。

 遠くなった席でも、見つけられるように。つまり、遠くなったからこそ繋ぎ直すための印だ。


「葉月」


 名前を呼ぶ。葉月が目を上げる。


「これ、かなり嬉しい」


 ちゃんと伝えたかった。曖昧にせず、逃げずに。

 すると葉月の睫毛が小さく揺れた。


『よかった』

『朝から渡すの重いかと思った』

『でも嬉しいなら、今日は全部正解でいい』


 その瞬間だった。

 教室の前扉が勢いよく開いた。

 陽菜が入ってきて、俺たちを見てぴたりと止まる。


「え、何その朝活。私だけ聞いてないんだけど」


 静かな特別時間は、今日もまた観測者に発見された。

 陽菜は扉のところで数秒止まったあと、にやっと笑った。


「へえ。座席替えに負けず、朝の抜け道を先に作るタイプなんだ」

「うるさい」

「感心してるんだけど。試練が二人の絆をより強くする」


 まったく感心している顔ではない。

 完全に面白がっている顔だ。


 葉月は星形の付箋の箱を俺の手からさっと奪うように戻しかけて、そこでやめた。

 渡したものを引っ込めるのは違う、と思い直したのだろう。その逡巡まで見えてしまうあたり、俺はだいぶ葉月の観察に慣れている。


『陽菜が来るの早い』

『あと三分ほしかった』

『でも、見つかったなら見つかったで、隠すのも違う気がする』


 その最後の一文に、少し驚く。

 前なら葉月はきっと、もっと露骨に引いたはずだ。誰かに見られること、関係を匂わせること、その全部を避けようとしていただろう。

 けれど今は、恥ずかしがりながらも、なかったことにはしない。

 それは大きな変化だった。


「何それ」と陽菜が顎で箱を示す。

「星の付箋。可愛いじゃん」

「……見ればわかるだろ」

「へえ、朝からプレゼント」


 言い方。

 だが否定できない。


 葉月が小さく口を開く。


「……席、遠いから」


 陽菜が一瞬だけ真面目な顔になった。

 その意味を、たぶんすぐ理解したのだろう。


「そっか」と陽菜は言う。

「じゃあそれ、ちゃんと使いなよ。見つけやすいように」


 茶化し半分、でも残り半分は本気の声音だった。

 陽菜は観測者だ。けれど時々、俺たちが気づかないところでちゃんと味方でもある。


 ホームルーム前の教室に、少しずつ人が増え始める。特別時間はもう終わりだ。

 俺は付箋の箱を筆箱にしまい、葉月を見る。


「昼、行く」

 それだけ言う。


 葉月は小さく頷いた。


「……待ってる」


 その三文字が、やけに強かった。

 前の席じゃなくなったことで、呼びに行く、待っている、会いに行く、そういう言葉の一つ一つが前より重くなる。

 でも、その重さを嫌だとは思わなかった。


 むしろ好きだと思う。

 好きだから重いのだし、重いからこそ本物だ。


 チャイムが鳴る直前、陽菜が自分の席へ戻りながら振り返った。


「次は何作るの? 放課後ルート? 昼休み専用席? 秘密の合図?わたくし小林陽菜は続編を熱望してます」

「お前は企画会議でもしてるのか」

「はい。クーデレ企画部長として、見てるだけじゃもったいないから」


 余計なお世話だ、と言い返そうとしたそのとき。

 葉月の机の上でスマホが小さく震えた。クラス連絡でも教師からの連絡でもない、個人通知の短い振動だ。

 葉月が画面を見た瞬間、無表情の奥で目だけがわずかに揺れた。


『え』

『このタイミングで?』

『……それは、少し困る』


 次の波乱は、どうやら座席だけでは終わらないらしかった。

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