第24話 くじの行方
陽菜の「あ」は、もはや効果音だった。
恋愛ラブコメにおける“その結果、かなり面倒な方向です”を知らせる不吉なSE。
葉月は紙を見たまま止まっている。
担任は「どうしたー?」なんて気楽な声を飛ばしているが、こっちは笑えない。葉月は表情を変えない。けれど、変えないままわかってしまうくらいには、目だけが静かに揺れていた。
近くの女子が覗き込み、容赦なく読み上げる。
「え、三列目のいちばん後ろ?」
終わった。
いや、物理的には終わっていない。授業も学校生活も明日から続く。だが俺と葉月にとって、“前を向けばそこにいる”日常は今この瞬間に終了した。
『終わった』
『いや終わってない』
『でも、かなり終わった感じはある』
実況まで冷静に絶望しないでほしい。
その静かな悲観が余計に刺さる。
次の瞬間、俺の名前が呼ばれた。
くじ箱に手を入れる。こんなに薄い紙の束が、どうしてここまで残酷に感じるのか。神様が人間の心を試すとき、たぶん一番効率のいい方法はこういう“どうでもよさそうでどうでもよくないもの”を握らせることなんだろう。
引く。
開く。
二列目、窓側、前から二番目。
……だめだ。見事なくらい離れた。
前方と後方。列も違う。視線を交わすだけで技術が必要になる距離だ。
「うわあ」と陽菜が言った。
「お前、反応が素直すぎるだろ」
「いやでもこれは声出るって……」
珍しく本気で同情している顔だった。だが面白がっていないとは言わない。絶妙に腹が立つ。
担任は黒板に新しい座席表を書きつけていく。クラスメイトたちは“近くなった”“遠くなった”“窓際だ”“最悪だ”と好き勝手に騒いでいる。その喧騒の中、俺だけが妙に静かだった。いや、静かなふりをしていただけで、中身はひどくうるさい。
席の移動が始まる。
机を引く音、椅子の脚が床を擦る音、文句と笑い声。教室は一時的な引っ越し会場みたいな混乱に包まれる。
葉月は本と筆箱を抱えて立ち上がった。すれ違う一瞬、俺たちの距離は元のままに戻る。
「……かなり、嫌」
葉月が言った。
実況じゃない。ちゃんと口に出して。
心臓が、変なふうに締まる。
俺は即座に返した。
「俺も」
それしか言えなかった。
だが、たぶんそれで足りた。
新しい席は、予想以上に“他人の場所”だった。
二列目の窓側。黒板は見やすい。先生の声も聞きやすい。模範的な学習席と言われればそうだろう。だが、目の前に葉月の背中がない。その一点だけで、機能性なんて全部無意味になる。
一時間目が始まる。
教師がチョークを走らせ、数式が黒板に増えていく。俺はノートを開く。なのに何度も、振り返りたい衝動に襲われる。前の席にいた頃は、意識しなくても葉月が視界にいた。
今は違う。見ようとしなければ見えない。
そして、見えないということは、わからないということだ。
ページをめくる手の速さも、今日の機嫌も、授業に集中できているかどうかも。
前の席という距離は、こんなにも多くの情報をくれていたのか。
恋は盲目だと言うけれど、俺の場合は逆だ。恋をしたことで、見えていたものが失われる不便さを知った。
休み時間になるやいなや、陽菜がわざわざ近寄ってきた。
「生きてる?」
「一応」
「顔がしんでる」
「お前にだけは言われたくない」
陽菜は俺の机に肘をついて、小声で続ける。
「昼、行くんでしょ」
「行く」
「即答だ」
「行かない理由がない」
自分で言ってから少し驚く。
でも本心だ。理由がないんじゃない。理由そのものが葉月だ。
昼休みのチャイムが鳴る。俺は弁当を持って立ち上がった。クラスの数人が“ああ、そういう感じか”みたいな顔をする。構わない。そう思えること自体、前より少しだけ強くなった証拠かもしれない。
後方の席まで歩く。
葉月は本を閉じて顔を上げた。
「……来た」
「行くって言ったからな」
実況がすぐに零れる。
『本当に来た』
『嬉しい』
『でもちょっと見られてる。かなり無理』
その感想、完全に一致である。
「場所、変えるか」
「……うん」
俺たちは教室の端にある補助机へ移動した。窓際の、半端に死角になっている場所。完全な密室ではない。けれど今の俺たちには、その半端さがむしろ都合よかった。
弁当を開く。
窓の外では運動部の掛け声が響き、夏の名残を少しだけ含んだ風がカーテンを揺らした。
「そんなに嫌だったか」
俺が聞く。
葉月は卵焼きを箸でつまんだまま、ほんの少し考えた。
「……かなり」
「俺もかなり」
短い。だが、それで十分だった。
同じ温度で困っている。その事実だけで、離れた距離が少し縮まる。
「でも」と葉月が続ける。
「……来てくれるなら、大丈夫かも」
その言い方は、反則だった。
“来てくれるなら”。条件付きみたいでいて、実質的にはかなり信じている言葉だ。
『期待させると来ない日が怖い』
『でも来てほしい』
『主語ありで甘えるの、本当に難しい』
甘えてくれていい、と言いたかった。
けれど葉月が今その手前で必死に立っているのがわかるから、無理やり踏み込むことはしたくない。
「来るよ」と俺は言った。
「毎日は無理でも、できるだけ」
葉月は目を伏せて、それから静かに頷いた。
「……それでいい」
許可だ。期待だ。たぶん、信頼でもある。
午後の授業は、午前よりましだった。理由は単純で、昼休みにちゃんと葉月の顔を見たからだ。遠くなった。でも終わっていない。そう確認できただけで世界は少し平和になる。
放課後。俺は約束通り、葉月の新しい席まで迎えに行った。
教室の人が減り、夕日が差し込み始めた時間帯。後ろの席にいる葉月を迎えに行く、それだけの行為が妙に特別に感じる。
「行くか」
「……うん」
向かったのは図書室だった。進路理由書の相談という名目があるぶん、一緒にいても自然でいられる。恋人同士の高校生にとって、こういう“自然でいられる理由”は案外大事だ。
静かな長机に横並びで座る。
前後じゃない。横だ。
それだけで、今までとは別の物語が始まった気がした。
葉月はノートを開きながら、ぽつりと言った。
「……遠くなったの、嫌だったけど」
「うん」
「……来てくれるなら、前より少しだけ特別」
その瞬間、図書室の空気が少し甘くなった気がした。
前より特別。そんなことを言われて、平然としていられる男子高校生がいたら会ってみたい。俺には無理だ。
言葉を失ったそのタイミングで。
「あら、仲いいのねえ」
棚の向こうから司書の先生が顔を出した。
葉月のペン先が、そこでぴたりと止まった。
数秒、誰も動かなかった。
俺は視線をノートへ落としたふりをしながら、頭の中では全力で現実逃避していた。仲がいい。まあ、否定はできない。むしろ事実だ。
恋人同士なのだから、仲がいいに決まっている。だが、教師の何気ない一言でそれを第三者の言葉として突きつけられると、急に世界の解像度が上がりすぎて困る。
「……続き、やるか」
ようやく俺がそう言うと、葉月は小さく頷いた。
「……うん」
けれど、その返事のあともしばらくは互いにノートの同じ行ばかり見ていた。集中なんてできるはずがない。
図書室の静けさは優しいくせに、逃げ道を一つもくれない。
「仲いいって、見えるんだな」
俺がぼそっと言うと、葉月の肩が揺れた。
「……見えるんじゃない」
「え?」
「……たぶん、出てる」
その言い方に、不意打ちみたいに笑いそうになる。
出てる。何が。空気が。距離感が。たぶん、互いの視線の温度が。
『自覚あるの恥ずかしい』
『でも、ないよりはいい』
『前みたいに勘違いされたら困る』
そこまで聞いて、胸の奥が少しだけ熱くなった。
もう勘違いされたくない。葉月はそう思っている。主語を落として逃げ続けていた頃の彼女なら、たぶんそんなふうに考える前に自分を引っ込めていた。
だけど今は違う。
俺との関係を、消さずに持っていたいと思ってくれている。
「じゃあ、出していこう」
つい口が滑った。
葉月が固まる。
「……何を」
「いや、その、変な意味じゃなくて」
「……変な意味に聞こえた」
しまった。
俺は咳払いでごまかしたが、葉月の実況はもっとひどかった。
『今のはだめ』
『語彙選択が事故』
『でも少し面白かったのは悔しい』
助かったのか助かってないのか判断に困る。
それでも、ノートに向かい直したあとで葉月がふっと息を抜いたのがわかった。席が遠くなったショックは大きい。だけどそのぶん、会いに来る理由も、並ぶ理由も増えた。
前の席だった頃にはなかった“わざわざ”が、今の俺たちにはある。
それは少し不便で、少し面倒で、でもたぶん――とても恋っぽい。
そしてその“わざわざ”を、葉月はさっき『特別』と呼んだ。
その余韻がまだ胸に残っているせいで、俺はもうノートの文字より、隣の葉月の呼吸の方ばかり気になってしまっていた。




