第23話 前のままがいい
「……前のままが、いい」
その一言は、告白より静かで、告白より深く、俺――灯里颯太の胸の中心に沈んだ。
放課後の階段踊り場。西日が窓ガラスを斜めに貫いて、古びた手すりを黄金色に染めている。どこにでもある、ドラマとは無縁の高校の一角。なのに今だけは、世界のすべてがこの踊り場を中心に回っているみたいだった。
前のままがいい。
それはただの座席の話だ。
クラス替えでもなければ進路でもない。人生を左右するような大問題じゃない。冷静に考えれば、席なんて黒板が見えて先生の声が届けば十分だ。
……十分なわけがないだろ、と心の中で誰かが即座に反論した。
俺にとって葉月は、もう黒板と同じくらい“そこにいるのが当たり前”の存在になっていた。
前の席にいる。振り向けば話せる。視線を少し落とせば、ページをめくる指先の速度で機嫌がわかる。無表情のまま微妙に呼吸が浅くなったときは緊張している。シャーペンを回す回数が増えたら考えすぎている。
そして何より、俺にだけ聞こえるあの“本音実況”が、前の席という距離に寄りかかるみたいに、ずっとそこにあった。
だから葉月の言葉は、席以上の意味を持ってしまう。
前のままがいい。
それはたぶん、今の距離のままでいたい、ということだ。
もしかすると――いや、間違いなく――もっと別の意味も混ざっている。
「俺も」
返事は反射だった。
考えるより先に口から出ていた。
葉月の肩が、ぴくりと揺れる。
『即答はずるい』
『でも嬉しい』
『今ので今日の残り時間が全部壊れた』
知ってる。
こっちも壊れた。
担任は俺たちの心拍数なんて知るはずもなく、「じゃあ、くじは明日なー」と気楽な口調で去っていく。後ろ姿があまりにも平穏で、少しだけ腹が立つ。たった一つの段ボール
箱と細い紙片が、いま俺たちにとっては爆弾より危険だというのに。
葉月は視線を外へ逃がした。無表情なのに、耳だけが少し赤い。
「……困る」
小さく、けれど今度は実況じゃなくて、ちゃんと彼女の口から出た本音だった。
「見えなくなるから?」
聞くと、葉月は少しだけ迷って、それから頷く。
「……うん。それもある」
“それも”。
つまり他にもある。
そこから先を言葉にしないあたりが、いかにも葉月らしい。
『見えなくなるの嫌』
『声かけづらくなるのも嫌』
『振り向けば済んでたことが、済まなくなるのが嫌』
『……でも会いに来てもらえるなら、それはちょっと嬉しい』
最後の一行だけ、反則みたいに胸へ落ちてきた。
「くじ箱ごと消えないかな」
「……犯罪」
「やっぱり?」
「……かなり」
そういうどうでもいいやり取りができるだけで、少し救われる。
葉月の口元がほんの一ミリだけ緩んだ。
笑ったと言うには微妙な変化。だけど、俺にはそれで十分だった。
帰り道、駅までの坂を並んで下る。文化祭明けの夕方はやけに透明で、街全体が恋愛小説の背景みたいに整いすぎていて困る。こういうときだけ世界は露骨だ。
「前じゃなくなったら」と俺は切り出した。
「……うん」
「昼休み、呼びに行く」
葉月が顔を上げる。
「……毎日?」
「できるだけ」
万能で卑怯で、でも今の俺に出せる最大限の言葉。
毎日と言い切って守れないのは嫌だ。だけど、行かない未来なんて最初から考えていない。
『その言い方はずるい』
『期待するに決まってる』
『でも本当に来たらたぶん死ぬ』
『いや来ない方がもっと死ぬ』
面倒くさいな、と思う。
そして同時に、俺も同じくらい面倒くさい。
「放課後も」
俺は続けた。
「何か理由つけて会う」
葉月の睫毛が小さく震える。
「……理由、いる?」
その問いに、一瞬だけ言葉を失った。
いるのか、いらないのか。今の俺たちは恋人同士だ。だから会いたいから会う、でも本当はいい。けれど高校生の恋ってやつは、本人たちの覚悟だけで動くほど単純じゃない。
クラスの視線、先生の目、時間割、部活、進路、そういうもの全部の隙間を縫ってようやく成立する。
「……いる時もある」と俺は答えた。
「でも、会いたいのが本当の理由なのは変わらない」
言った瞬間、自分で自分を殴りたくなるくらいくさい台詞だと思った。
だが葉月は笑わなかった。無表情のまま、少しだけ目を逸らすだけだ。
『そういうの急に出すの禁止』
『慣れてない』
『でも嫌じゃない。かなり嫌じゃない』
嫌じゃないの最上級表現がそれなのか。
その夜、スマホに届いたメッセージは、昼間よりずっと素直だった。
『座席替え、やっぱり少し嫌』
少し、じゃないだろう。
たぶんかなり嫌だ。俺も同じだ。
前ならこの短い文の主語も温度も勘違いしていただろう。でももう違う。これは葉月が、葉月自身の気持ちを、ちゃんと俺に渡そうとしてくれている文章だ。
『俺も嫌だ』
送信。
既読は一瞬でついた。
しばらくして返ってきたのは、たった一文。
『同じでよかった』
短すぎるのに、破壊力が高すぎる。
“同じ”という単語が、ここ最近の俺たちを全部要約している気がした。気持ちも、距離への不満も、相手を見失いたくないと思う焦りも。
翌朝。教室はまだ半分しか埋まっていないのに、空気だけは落ち着かなかった。今日は座席替えの日だ。葉月は前の席で本を開いているが、ページをめくるペースが一定じゃない。落ち着こうとして、まったく落ち着けていない。
『ただのくじ』
『たかが席』
『たかがで済むなら昨日あんなメッセージ送ってない』
俺もだよ、と心の中で返す。
陽菜は朝から妙に機嫌がよかった。
「今日は見ものだねえ」
「他人事だと思って」
「紙片一枚で運命が決まる瞬間ってエンタメとして強いじゃん」
「最低だな」
「安心して。細工はしてない」
「“してない”って断言の仕方が逆に怪しい」
陽菜は笑って肩をすくめる。
こいつはたぶん、本当に細工はしていない。していないからこそ純粋に面白がっている。その意味で最悪だ。
ホームルームの終わり、担任がくじ箱を抱えて入ってきた。
教室がざわつく。たったそれだけのことで、世界の解像度が上がりすぎる。チョークの粉、椅子の軋み、窓の外の風、全部がやけにはっきりしていた。
名前順に引いていく。
葉月の番が近づく。
彼女は立ち上がり、静かに箱の前へ歩いた。背筋はまっすぐで、顔もいつも通り。なのに指先だけがほんの少し固い。
その後ろ姿を見て、俺は祈るみたいな気持ちを知った。
葉月が紙を引く。
開く。
『外れませんように』
『いや違う。当たりって何』
『でも前じゃなくなるのは嫌』
その本音が聞こえた直後。
葉月の目が、わずかに揺れた。
そして教室の後ろで、陽菜が小さく「あ」と声を漏らした。
それだけで、俺は嫌な結末の輪郭をほとんど理解してしまった。
葉月は席へ戻る前、ほんの一瞬だけこっちを見た。
助けを求めるような視線じゃない。ただ、自分でも持て余している感情を、俺が同じだけ持っているかどうか確認するみたいな目だった。
俺は頷きかけて、やめた。ここで露骨に反応したら、陽菜どころかクラス全体に何かを察される。
だが反応を消したところで、心の中まで隠せるわけじゃない。
『前じゃなくなる』
『明日から、振り返ってもいない』
『それを考えるだけで変な感じがする』
変なのは俺も同じだ。
これまで当たり前だったものが、紙片一枚で失われる。その理不尽さに腹が立つくせに、高校生活というものが案外そういうものでできていることも知っている。
席替え、クラス分け、進路、卒業。名前の付いたイベントは、だいたい全部“慣れた日常を壊すため”にある。
だからこそ、壊されたあとに何を残せるかが大事なんだろう。
前の席じゃなくなっても、俺たちまで遠くなる必要はない。
そう頭ではわかっている。わかっているのに、前の葉月の背中が見えなくなる未来を想像しただけで、胸の真ん中にぽっかり穴があく。
そのとき、担任が黒板を叩いた。
「ほらほら、まだ引いてないやついるぞー。さっさと終わらせる!」
教室がまたざわつき始める。葉月は紙を畳み、静かに机へ戻った。俺の番はもうすぐだ。
たった数歩の距離なのに、今だけはひどく遠い。
もしこの先、席が離れて、会いに行くことが当たり前になるなら。
それはたぶん、今までよりずっと“好き”を証明し続ける日々になる。
面倒で、不器用で、たぶん格好悪い。
でも――それでもいい。
そう思えた瞬間に限って、嫌な予感というやつは精度を上げる。
陽菜の「あ」という声が、さっきより一段深い意味を持って、俺の背中を冷やした。




