第22話 同じ時間の理由
進路希望の個別面談。
高校三年の秋になれば、それ自体は珍しい行事じゃない。
珍しくなかったはずなのに、その日の教室は朝から妙にざわついていた。
「普通、被るか?」
俺がスマホの連絡画面を見せると、陽菜は一秒で答えた。
「被らないね」
「だよな」
「先生の入力ミスか、誰かのいたずらか、それとも運命」
「最後だけ雑すぎる」
「雑じゃないよ。青春ってだいたい説明できないことから始まるし」
説明になっていない。
グループ連絡には、俺と氷見坂葉月の進路面談が、まったく同じ時間で登録されていた。
教室でも数人が不思議そうに話している。
なのに、一番静かなのは当事者だった。
前の席。
いつも通り本を開き、静かにページをめくる横顔。
何も変わらないように見える。
けれど。
『気になる』
『先生に聞くほどじゃない』
『……もし偶然じゃなかったら、少し怖い』
その実況だけが、本当の葉月を教えてくれる。
怖い。
その言葉に少しだけ引っかかった。
付き合い始めてからの葉月は、嬉しいも恥ずかしいも素直になった。
それでも「怖い」という実況は珍しい。
しかも、ただの不安じゃない。
何かが変わるかもしれないことへの怖さと、変わらないかもしれないことへの期待が、同じ場所で揺れているような、そんな曖昧な震え方だった。
葉月は表情を崩さない。
でも、ページをめくる指先だけが、ほんの少しだけ速い。
落ち着いているように見えて、実は落ち着いていない。
その小さな違和感が、妙に胸に残った。
俺は二時間目の休み時間になると、そのまま職員室へ向かった。
「先生、面談なんですけど」
「ん?」
担任は名簿を見て首をかしげた。
「あれ、本当だ。同じ時間だ」
「入力ミスですか?」
「いや……」
先生は名簿を指でなぞり、ふっと笑った。
「ああ、思い出した。」
「え?」
「お前ら、進学希望地域も学部系統も近かっただろ」
「……はい」
「だったら一回まとめて話した方が効率いいって俺が決めたんだった」
効率。
なんとも先生らしい理由だった。
でも、その一言が胸に引っ掛かった。
同じ地域。
そうだったのか。
一度も相談したことがない。
それなのに。
『同じ』
『知らなかった』
『……少しだけ嬉しい』
葉月。
お前も知らなかったのか。
それなのに同じ場所を選んでいたのか。
その実況は、さっきまでの「怖い」とは少し違っていた。
怖さが完全に消えたわけじゃない。
でも、そこに小さな安心が混ざっている。
自分だけが置いていかれていないと知った時の、ほっとした息の抜け方。
その変化が、実況の短い言葉の隙間から伝わってきた。
放課後。
進路指導室。
ドアを開けると、葉月はもう椅子に座っていた。
先生は二人を見比べながら資料を並べる。
「じゃあ始めるぞ」
面談は思ったより現実的だった。
偏差値。
模試。
共通テスト。
私立と国公立。
滑り止め。
奨学金。
夢という言葉より、数字が多い。
未来という言葉より、現実が多い。
先生は俺に尋ねた。
「なんでこの学部なんだ?」
「……人の考え方を知りたいからです」
「心理学か」
「はい」
「じゃあ氷見坂」
葉月は少しだけ姿勢を正した。
その動きはいつも通り丁寧だったけれど、さっきまでの静けさとは少し違う。
背筋を伸ばすのに、ほんの一瞬だけ迷いがあった。
答える前に、息を整えている。
そんなふうに見えた。
「……人の話を整理する仕事がしたいです」
その一言だけだった。
でも先生は納得したように頷く。
「カウンセラーでも編集でも広報でもいい。言葉を扱う仕事ってことだな」
「……はい」
俺は横顔を見る。
やっぱり葉月らしい。
この子は昔から、話すより聞く方が得意だった。
だから実況だけがあんなに賑やかなのかもしれない。
『見ないで』
『いや少しだけ見て』
『真面目な顔されると困る』
思わず視線を逸らした。
先生は苦笑した。
「仲がいいのは知ってるけど、ちゃんと話を聞け」
「聞いてます」
「半分しか聞いてない顔だぞ」
図星だった。
四十分ほどで面談は終わる。
夕方。
校舎の窓から差し込む橙色の光が、長い廊下を照らしていた。
並んで歩く。
誰もいない。
足音だけが重なる。
「同じ地域だったんだな」
「……うん」
「知らなかった」
「……私も」
沈黙。
でも気まずくはない。
前なら何か話さなきゃと思った。
今は違う。
何も話さなくても、隣を歩く速度が揃う。
『安心する』
『この沈黙』
『前は怖かったのに』
俺は笑った。
「何?」
「いや」
「……何」
「前なら沈黙が怖かった」
「……うん」
「今は違う」
葉月は少しだけ俯いた。
その瞬間、実況の調子がほんの少しだけ変わる。
『その一言』
『反則』
『心臓に悪い』
いつもなら、こういう時の実況はもっと慌ただしい。
照れを隠すみたいに言葉が跳ねて、最後は自分で自分を誤魔化すように流れていく。
でも今日は違った。
跳ねるより先に、胸の奥で何かを確かめているみたいな、慎重な間があった。
嬉しいのに、すぐには受け取れない。
受け取ったら壊れてしまいそうで、でも受け取らないままでは苦しい。
そんな揺れが、実況の短い言葉の端々に滲んでいた。
階段を降りる途中、葉月が立ち止まる。
「……相談」
「うん」
「志望理由」
「まだまとまらない?」
「……うん」
「手伝おうか」
葉月は目を丸くした。
「……いいの」
「むしろ俺も整理したい」
「……じゃあ」
少しだけ勇気を出すように息を吸う。
その呼吸が、さっきより少し深い。
さっきまでの葉月は、言葉を出す前に一度だけためらっていた。
でも今は、そのためらいのあとに、ちゃんと前へ進もうとしている。
「今週」
一拍。
「……図書室」
「放課後?」
「……うん」
デートじゃない。
遊びでもない。
将来を話す時間。
それだけなのに、不思議なくらい胸が高鳴った。
『嬉しい』
『放課後が未来になる』
『好き』
最後だけ、小さすぎて聞き間違いかと思った。
俺は立ち止まる。
「今……」
葉月は真っ赤になって首を振る。
「……違う」
『違わない』
『今のなし』
『お願い忘れて』
忘れられるわけがない。
胸の奥が熱くなる。
その時だった。
「おーい」
廊下の向こうから担任が顔を出した。
「そうだ。来週座席替えな」
その一言で空気が変わる。
座席替え。
たったそれだけ。
なのに。
前の席に葉月がいない教室を想像した瞬間、胸のどこかが少しだけ冷えた。
朝。
目が合う時間。
ノートを回す距離。
消しゴムを落とす音。
振り向けばいる日常。
全部なくなるかもしれない。
葉月もこちらを見ていた。
実況が流れる。
『前じゃなくなる』
『かなり困る』
『……毎日見られない』
俺は思わず笑う。
「見てたのか」
「……。」
『しまった』
『口に出してない』
『たぶん顔に出た』
その実況は、さっきまでよりずっと小さかった。
困った、というより、困っている自分を見られたことへの恥ずかしさが先に立っている。
でも、その奥にある不安は隠しきれていない。
前の席じゃなくなることが、ただ寂しいだけじゃない。
今まで当たり前だった距離が、少しだけ遠くなるかもしれない。
その変化を、葉月はちゃんと怖がっていた。
「俺も」
「……え」
「前に葉月がいないの、嫌だ」
葉月の瞳が揺れる。
静かな夕焼けの色が、その瞳の奥に映っていた。
少しだけ沈黙。
その沈黙は、もう怖くなかった。
言葉を探している時間だと、知ってしまったからだ。
葉月は唇をわずかに開いて、すぐ閉じた。
何かを言おうとして、言えない。
その迷いごと、俺にはわかった。
前なら、ここで終わっていたかもしれない。
気持ちを飲み込んで、いつものように笑って、いつものように誤魔化していたかもしれない。
でも今は違う。
葉月は、俺の前で少しずつ言葉を選ぶようになった。
俺も、葉月の沈黙を待てるようになった。
それはたぶん、付き合うってことの本当の意味だった。
そしてようやく、葉月が小さく息を吸う。
実況じゃない。
心の声でもない。
ちゃんと、俺に向けられた声だった。
「……前のままが、いい」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。
前のまま。
それは、席のことだけじゃない。
たぶん、今この距離のことだ。
朝、目が合うこと。
何でもない顔でノートを回せること。
隣にいるのが当たり前みたいに思える、この時間のことだ。
葉月は、変わるのが嫌なんじゃない。
変わってしまうことで、今あるものが消えるのが怖いんだ。
そのことに気づいた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
俺は、葉月がそんなふうに思うほどの場所になれていたのか。
ただの隣席じゃない。
ただの友達でもない。
もう、失いたくないと思う相手になっていたのか。
嬉しいのに、少し苦しい。
その苦しさまで含めて、ちゃんと受け止めたかった。
「……俺も」
声が少しだけ掠れた。
「前のままがいい」
葉月が目を上げる。
その瞳が、ほんの少しだけ揺れる。
「前の席に葉月がいる教室が、もう俺の日常だから」
言いながら、自分でも驚いていた。
こんなふうに、はっきり言えるようになっていたことに。
前なら、こんな言葉は飲み込んでいた。
恥ずかしくて、重くて、相手を困らせる気がして。
でも今は違う。
困らせたくないから言わないんじゃない。
大事だから、言う。
そう思えるようになっていた。
「座席が変わっても、葉月が前にいるのが当たり前だった時間は、なくしたくない」
葉月は何も言わない。
でも、その沈黙は拒絶じゃなかった。
むしろ、ちゃんと届いたからこその静けさだった。
やがて、葉月がほんの少しだけ肩の力を抜く。
『……うれしい』
『ちゃんと伝わった』
『前のまま、ってそういうこと』
その実況が、いつもよりずっと柔らかい。
さっきまでの「怖い」は、もうほとんど輪郭を失っていた。
完全に消えたわけじゃない。
でも、怖さの中心にあったものが、少しずつ安心に置き換わっている。
俺の言葉が届いたこと。
自分の気持ちを否定されなかったこと。
変わることを一緒に怖がってくれる相手がいること。
その三つが、葉月の中で静かに重なっていた。
俺は思わず息を吐いた。
張りつめていたものが、少しだけほどける。
「前のままって、戻ることじゃないんだな」
葉月が小さく瞬く。
「……え」
「今のまま、これからも一緒にいるってことだろ」
葉月の頬が、夕焼けとは別の色で染まる。
耳まで赤い。
でも、逃げない。
視線をそらさない。
その変化が、たまらなく愛しかった。
『ずるい』
『そんなふうに言われたら』
『……うん』
最後の一語は、ほとんど息みたいだった。
それでも、確かに聞こえた。
その瞬間、廊下の窓が音を立てて開いた。
秋風が二人の間を駆け抜ける。
葉月の髪が揺れた。
制服のリボンが、小さく踊る。
風は一瞬で通り過ぎたのに、その余韻だけが残る。
葉月は本を抱き直した。
その仕草が、少しだけいつもと違って見えた。
前は、誰にも触れられないように胸の前で守るみたいに抱えていた。
今は違う。
俺の言葉を受け止めたあとで、安心したみたいに抱き直している。
守るためじゃなく、持っていたいから抱えているみたいだった。
その変化が、何よりもはっきりしていた。
『来年も』
『再来年も』
『……できれば、その先も同じ時間がいい』
実況の最後が、今度ははっきり聞こえた気がした。
それは願いだった。
ただの独り言じゃない。
俺に向けて、ようやく差し出された願いだった。
さっきまでの葉月は、その願いを口にするのが少し怖かったはずだ。
言ってしまえば、叶わなかった時に傷つくから。
でも今は違う。
言葉にしてもいいと思えるくらい、ここにいることを信じられている。
その安心が、実況の温度を変えていた。
俺は何も言えなかった。
言葉にした瞬間、この夕焼けまで終わってしまいそうだったから。
ただ、並んで歩く。
それだけで十分だった。
でも、もう「ただ」ではなかった。
隣にいることが、偶然じゃなくなっていた。
同じ時間を選び続けることが、二人の約束になり始めていた。
夕日が伸ばした二人分の影は、廊下の先で静かに一つへ重なっていた。
その影は、もうどちらか一方に寄りかかる形じゃない。
並んだまま、同じ方向へ伸びていた。




