第21話 名前の難易度
名前で呼んでほしい。
たったそれだけの願いが、帰りの電車の中でずっと頭を占領していた。
氷見坂、じゃなくて、葉月。
文字にすれば二文字増えるだけなのに、難易度が急に跳ね上がる。
しかも問題は、俺だけじゃない。
氷見坂だって今まで一度も、俺の下の名前をまともに呼んでいない。必要なときは「……君」か、そもそも主語なしで会話が成立していた。
翌朝、教室に入ると、陽菜が俺の顔を見るなり言った。
「今日は別ベクトルで寝不足?」
「何でわかる」
「わかりやすい」
もう少し隠す努力をしたい。
「何があったの」
「……名前」
「え、ついに?」
食いつきが早い。
こいつは本当にこういうイベントを逃さない。
「名前で呼んでほしいって言われた」
小声でそう言うと、陽菜は机に突っ伏した。
「強い……」
「何がだよ」
「流石、クーデレ氷見坂ちゃん、静かな顔して時々核心を真っすぐ刺すの強すぎるでしょ」
それはそうだ。ただし、クーデレでは無い。
俺も刺されたまま帰宅した。
「で、呼べるの?」
「……たぶん無理」
「即答だ」
情けないが事実だ。
教室でいきなり下の名前呼びは難度が高すぎる。周囲の目もあるし、俺自身の心臓もたぶん保たない。
前の席の氷見坂が、朝の読書をしながら一度だけ肩を揺らした。
実況が聞こえる。
『無理そうな顔してる』
『でも逃がさない』
『私だって難しいんだから平等』
平等なのか、それ。
一時間目の休み時間、文化祭の後片づけの余波で先生に呼ばれ、資料運びを手伝うことになった。運悪く、じゃない、たぶん誰かの悪意で、氷見坂も同じ係に入れられている。
陽菜が露骨に目を逸らしたので、犯人はほぼ確定だった。
準備室までの廊下を、二人で資料の束を抱えて歩く。
人は少ない。会話の逃げ場も少ない。
「……昨日」
氷見坂が先に言った。
「うん」
「……忘れてないよね」
忘れるわけがない。
「忘れてない」
「……ならいい」
それだけ。
それだけなのに、圧がある。
準備室で資料を棚に戻して、教室へ戻る途中。曲がり角で、向こうから来た生徒を避けるために壁際へ寄った。距離が不自然に近くなる。
氷見坂が俺を見る。
無表情のまま、待っている。
『今』
『ここは今』
『逃したら次は知らない』
実況まで圧をかけてくる。
俺は覚悟を決めた。
「……葉月」
声に出した瞬間、耳まで熱くなった。
言えた。たぶん聞こえた。いや、聞こえていないと困る。
氷見坂――葉月は完全に止まった。
数秒遅れて、実況が大混乱する。
『自爆。破壊力の調整をしてない』
『今、私を見るのは反則だから。反則負けだから、それ』
『普通にしなきゃ。普通って何?もうだめ』
だめらしい。
でも顔は、だめじゃなかった。
目元が明らかに揺れている。
「……もう一回」
小さな声だった。
聞き返しじゃない。要求だ。
「葉月」
今度は少しだけましに言えた。
葉月は視線を落とし、資料の角をぎゅっと握る。
「……うん」
返事がそれだけで、逆に危ない。
『今日もう帰っていい?』
『でもまだ授業ある』
『どうしてくれるの』
知るか、と言いたいがこっちも同じ状態だ。
その日の放課後、今度は向こうから呼び止められた。
教室の人が減ったタイミングで、葉月が俺の机の横に立つ。
「……一個、交換条件」
「交換条件?」
「……私も、呼ぶ」
そこで一度、言葉が途切れる。
たぶん、こっちと同じように心の準備をしている。
「…… 颯太」
世界が一瞬静かになった気がした。
自分の名前なのに、聞き慣れたはずなのに、葉月の口から出ると全然違う音みたいに聞こえる。
『言えた』
『落ち着け私。一、二、三……よし』
『でもこれは反撃成功では』
完全に成功だ。
こっちの心臓は致命傷である。
「……何その顔」と葉月が言う。
「どんな顔だよ」
「……たぶん、すごく、だめな顔」
それはお互いさまだ。
教室を出るとき、陽菜が廊下の向こうからにやにやしながら手を振ってきた。
「お疲れさまでーす。なんだかここ、やけに暑いなー」
「お前ほんとに何なんだよ」
「観測者?」
自称するな。
その帰り道、葉月は小さく言った。
「……次、日曜じゃなくても」
「うん」
「……放課後、少しなら」
つまり、次の約束だ。
俺が頷くと、葉月は安心したみたいに息をついた。
でもその直後、スマホが震える。
クラスのグループ連絡。明日、急きょ進路希望の個別面談が入るらしい。
しかも、俺と葉月の時間がなぜか同じ枠になっていた。




