第20話 偶然がうるさい
「へえ。休日の駅前って、偶然が多いねえ」
振り返ると、陽菜がトレイを持って立っていた。
アイスティーとプリン。完全に休憩モードの装備である。
「……何でいるんだよ」
「私だって休日に喫茶店くらい来るよ」
「よりによってここか」
「ほんとに偶然。……たぶん」
最後が怪しすぎる。
けれど、陽菜の視線が俺と氷見坂を行ったり来たりしているあたり、少なくとも現場を見つけたのは本当に偶然っぽかった。
氷見坂はミルクティーのカップを持ったまま固まっている。
『この人、嗅覚がどうかしてる』
『休日まで遭遇率が高い、灯里くんのストーカー?』
『今は静かにしてほしい。切実に』
全面的に同意だ。
「座るの?」と陽菜が言う。
「座らないでくれ」
「即答だ」
だが陽菜は傷ついた様子もなく、空いている隣の席を見てから、くるりとトレイの向きを変えた。
「大丈夫大丈夫。さすがに邪魔しないよ」
そう言って二歩ほど離れた席に腰かける。
邪魔しているのに、邪魔していない顔をするな。
ただ、完全に見える位置である。
気まずさだけが増した。
「続けて」と陽菜は笑う。
「何をだよ」
「甘いやつ」
「帰れ」
氷見坂が小さく視線を落とした。
テーブルの上のカップを両手で包むように持ち直した。
中身はもうぬるいはずなのに、指先だけやけに落ち着かない動きをしている。
『帰ってほしい』
『でも今、私も同じことを思ったから否定できない』
『甘いやつって何。定義して』
定義はしたくない。
それでも、さっきまでの会話の続きが宙ぶらりんになるのは避けたかった。
俺は咳払いを一つして、改めて氷見坂を見る。
「その、さっきの話」
「……うん」
「期待して外れることは、たぶんない」
言いながら、自分でもだいぶ恥ずかしい。
だがもう引っ込めるわけにもいかない。
「何着ても似合うって意味じゃなくて、氷見坂が選んで来た時点で、たぶん俺は嬉しい」
氷見坂が完全に止まった。
数秒遅れて実況が流れる。
『言い直しの方が強いのは聞いてない』
『顔が熱すぎて火が出そう』
『今ので今日はもうだめ』
対面でこれを言う方もかなりだめだ。
「……そういうの」
氷見坂がようやく声を出す。
「……急に、強い」
弱い抗議だった。
でも責めてはいない。
むしろ、その逆だとわかる。
視界の端で、陽菜が口元を押さえて震えていた。
笑うな。
「悪い」
「……悪くない」
「どっちだよ」
そう返すと、氷見坂は少しだけ口元を動かした。
笑い未満の変化。けれど、前よりずっと読みやすい。
喫茶店を出るころには、陽菜はいつの間にか先に店を出ていた。伝票の横に小さなメモだけが残っている。
『続きの邪魔はしません。たぶん』
信用ならない注釈つきだった。
駅までの帰り道、俺たちは前より少し近い距離で歩いた。
手が触れそうで触れない。前なら気にしなかったはずの数センチが、今はやけに大きい。
「陽菜、ああいうの昔から?」と氷見坂が聞く。
「だいたい昔から」
「……強い」
「強いな」
短い会話なのに、不思議と前より間がもたない感じがしない。
主語が入っただけで、こんなに空気が変わるのかと思う。
駅前の横断歩道で信号を待っていると、急に風が強く吹いた。
氷見坂のスカートの裾が揺れる。彼女は片手で押さえて、もう片方の手で鞄を持ち直した。
その一瞬だけ、手元が無防備になる。
俺は半ば反射で、自分の手を差し出しかけて止まった。
付き合っている。
だから手をつないでもおかしくない。
でも、それを当然みたいにやる勇気はまだない。
止まった俺の迷いを見たみたいに、氷見坂が小さく言った。
「……また、人混みじゃないね」
言葉の意味を理解するまで一秒かかった。
前に手をつないだ理由は、人混みではぐれそうだったから。
今は違う。
つまり、今つなぐなら別の理由がいる。
『言った』
『これはほぼ催促では』
『でも言わせる方も悪い、そう悪い』
俺は覚悟を決めた。
「……つなぐ?」
情けない。誘い方が初心者すぎる。
けれど氷見坂はうなずいた。
「……うん」
信号が青に変わる。歩き出す前に、俺はそっと彼女の手に触れた。
前みたいに急ぎの動作じゃない。確認するみたいに、ゆっくり。
氷見坂の指先が少し震えて、それからきちんと握り返してくる。
『私の手が汗ばんでたらどうしよう、無理無理無理!』
『でも嬉しい』
『心臓がうるさい。たぶん聞こえる』
こっちも同じだ。
駅の改札前まで、そのままだった。
離すタイミングがわからないまま来てしまって、結局改札の数歩手前で止まる。
氷見坂は手を見て、それから俺を見た。
「……今日は」
「うん」
「……早くなかった」
前に言われた言葉の、きれいな返しだった。
その瞬間、俺はたぶんかなり間抜けな顔で笑ったんだと思う。
氷見坂は少しだけ視線を逸らしてから、小さく続ける。
「……次は」
「次?」
「……名前で、呼んでほしい」
改札の向こうへ走り去る電車の音が、やけに大きく聞こえた。




