第19話 何でも似合うは危険
『それは、ずるい』
その一文のあとに続いた実況は、今までで最長だった。
『雑な褒め方に見えて一番困る』
『何でも、は逃げ道みたいで嫌なはずなのに』
『似合うと思う、が先にあるから無理』
『明日どの服を選んでも、その言葉が残るの反則』
『あーもう! なんでこの人はこんなに余裕そうなの? 私だけがバカみたいにドキドキしてるの悔しい!』
スマホを持つ手が熱くなる。
何となく送った一文が、思った以上に効いてしまったらしい。
嬉しい反面、責任が重い。
翌朝、俺は自分でも驚くくらい早く目が覚めた。
休日の十時待ち合わせなのに、七時前に起きている。完全に遠足前の小学生だ。
服をどうするかで三回着替えて、母さんに呆れられた。
「誰と会うの」
「友達」
「ふーん、その『友達』、だいぶ大事そうだね」
観察眼が鋭すぎる。
これ以上聞かれる前に家を出た。
待ち合わせは駅前の小さな時計台の下だった。
十分前に着いたのに、氷見坂はもういた。
白に近い淡いグレーのブラウスに、紺のカーディガン。長めのスカート。前より少しだけ柔らかい色味なのに、結局ちゃんと氷見坂に見える。
見えた瞬間、昨日送った言葉の意味を自分で理解した。
何でも似合うんじゃない。
氷見坂だから似合うのだ。
『来た』
『早い』
『服、変じゃなかった?』
変なわけがない。
むしろ危ない。
「おはよう」
俺が言うと、氷見坂は少しだけ目を伏せた。
「……おはよう」
そのあと二秒くらい沈黙する。
付き合ったからといって、急に会話が上手くなるわけじゃない。
「服」と俺は言った。
「似合ってる」
氷見坂が固まる。
実況がすぐに暴れた。
『朝一番でそれは聞いてない』
『キャパオーバーです。でも嬉しい』
『やっぱり昨日の返事、ずるい』
少しだけ口元が緩みそうになるのを、彼女が必死で止めているのがわかる。
「……ありがとう」
駅ビルの本屋へ向かう道は、平日と違って人がゆっくり流れていた。
氷見坂と並んで歩く。前のデート未満の買い物とは違う。今はもう、互いにそういう意味だと知っている。
それだけで距離感が全部新しい。
本屋に入ると、氷見坂はまず文庫の新刊棚へ向かった。
迷いがない。さすがだ。
俺は少し後ろからついていく。
「これ」と彼女が一冊差し出す。
「この作家、好き」
今までより少しだけ、言葉が多い。
たぶん本人も意識しているのだろう。
『会話を増やす』
『付き合ったんだから頑張る』
『でも無理しすぎると変になる』
十分頑張っている。
「じゃあ、俺も読んでみようかな」
そう言うと、氷見坂の視線がわずかに揺れた。
「……ほんとに?」
「うん」
「……じゃあ、最初はこっち」
別の一冊を選び直して渡してくる。
入門用らしい。
好みの順番を考えてくれているのが伝わって、少しうれしい。
しばらく本棚のあいだを回っていると、氷見坂が突然立ち止まった。
視線の先には、栞売り場。色違いの金属栞が並んでいる。
月と星のモチーフが小さく揺れていた。
「……これ」
「いいな」
言った瞬間、氷見坂は二つ手に取った。
一つは月、一つは星。
「どっちがいい?」
聞かれて、少し考える。
「じゃあ、星」
氷見坂はうなずいて、月を自分のかご、星を俺の方へ置いた。
「……おそろい」
小さく言われて、心臓が跳ねる。
『言った』
『さりげない感じを装った、知能犯の私』
『でも全然さりげなくないかも』
全然さりげなくない。
だが、嫌なわけがない。
本屋のあと、近くの喫茶店に入った。
窓際の二人席。前のショッピングモールのカフェより静かで、逃げ場が少ない。
俺はコーヒー、氷見坂はミルクティーを頼む。
同じ組み合わせだ、と気づいて少し笑う。
「何?」と氷見坂が聞く。
「前と同じだなって」
氷見坂は少しだけ考えてから、小さくうなずいた。
「……たしかに」
『覚えてた』
『そこ覚えてるの嬉しい』
『やっぱり好き……』
会話が途切れても、今は前ほど苦じゃない。
沈黙の意味を、前より少しだけ信用できるからだ。
それでも、言わなきゃいけないことはある。
「昨日の『ずるい』って」
俺が切り出すと、氷見坂の手がカップの取っ手で止まった。
「……うん」
「どういう意味だった?」
聞きながら、また少しだけ昔の悪い癖が出たと思う。
でも今度は、答えを押しつけるためじゃない。ちゃんと聞きたいからだ。
氷見坂は視線を落として、数秒考えたあと言った。
「……何着ても、期待するから」
一瞬、意味がつながらない。
次の実況でやっと補足される。
『似合うって先に言われると、どれを着ても会った瞬間の顔を期待してしまう』
『期待して外れるのが怖い』
『でも期待したい』
そういう意味か。
可愛すぎて反応に困る。
「外れないよ」
気づけばそう言っていた。
「たぶん、会った時点でもう駄目だから」
氷見坂が完全に止まる。
次の瞬間、氷見坂の手が忙しなく前髪へと伸びた。右へ左へと毛先をいじる指先が、明らかに小さく震えている。
一度手を下ろしかけて、でもすぐにまた前髪を触る。
合わせる鏡なんてないのに、氷見坂はそうやって顔の上半分をガードすることに必死だった。
『ちょっそれは反則』
『今日は反則の応酬なの?』
『でも、ちょっと勝てる気がしない』
そのとき、俺たちの席のすぐ後ろから、聞き覚えのある声がした。
「へえ。休日の駅前って、偶然が多いねえ」
振り返る。
陽菜が、トレイを持って立っていた。




