第18話 白いハートの破壊力
白いハート一つで、人はここまで挙動不審になれるらしい。
放課後に届いた『こちらこそ』の五文字と記号を、俺は帰りの電車で三回見て、家で五回見て、寝る前にまた見た。
何度見ても現実感が薄い。
翌朝、教室に入って真っ先に気づいたのは氷見坂の方だった。
いつもなら本に落ちているはずの視線が、今日は一瞬だけこちらを向いて、逃げるように本へ戻る。
何でもない仕草のはずなのに、変に印象に残る。
陽菜が机の向こうから、それを見ていたらしい。
「……氷見坂ちゃん、今日ちょっと挙動不審じゃない?」
「え」
「颯太じゃなくて、氷見坂ちゃんの話」
咄嗟に反応できなかった俺の顔を見て、陽菜がにやりとする。
「……あ、そっちも似たようなもんか」
「何だよ」
「寝不足?って聞こうとしたけど、聞くまでもなさそう」
腹が立つくらい正確だ。
「連絡取った?」
「……まあ」
「内容は?」
「言うか」
陽菜はにやにやしながら俺の机に頬杖をつく。
「氷見坂ちゃん、めちゃくちゃ慎重そうに見えて、たまに一撃重いよね」
白いハートのことを言われた気がして、返事に詰まる。
図星らしいと察したのか、陽菜が声を殺して笑った。
「何が来たの」
「何でもない」
「その反応だと、何か来たね」
こいつに隠し通せる気がしない。
朝のホームルーム前、前の席の氷見坂が一度だけ振り返った。
昨日と同じ無表情。
でも、視線が合った瞬間にすぐ前を向く。
『見た』
『いや見すぎると無理』
『昨日の返信、変じゃなかったかな』
変なわけがない。
むしろ効きすぎた。
文化祭の振り替え準備で、今日は午前授業だけだった。教室全体に気の抜けた空気が流れていて、先生まで少し機嫌がいい。
そんな中で、俺だけが落ち着かない。
今までなら昼休みに少し話せば済んだのに、連絡先ができたせいで、逆に何をどう送ればいいのか考えすぎるようになった。
昼、購買のパンを持って席に戻ると、スマホが震えた。
画面を見る。
氷見坂からだ。
『放課後、少しだけ話せる?』
たったそれだけで心拍数が上がる。
文章は短い。絵文字もない。けれど相手が氷見坂だと思うと、意味が全部重くなる。
『話せる』
そう返すまでに三十秒かかった。
我ながら情けない。
放課後、向かったのは図書室横の小さな閲覧スペースだった。人は少ないが、完全に二人きりにはならない場所。氷見坂らしい選び方だと思う。
「……昨日の」
先に口を開いたのは氷見坂だった。
「ハート」
そこを直球で来るのか。
俺は一瞬で詰まった。
「……ああ」
「……変じゃなかった?」
実況の方が先に慌てる。
『勢いで付けた』
『消そうと思ったけど消せなかった』
『重いって思われたら三日は寝込める』
破壊力の理由がわかった。
あれは計算じゃない。勢いと勇気の残骸だ。
「変じゃない」
「……ほんとに」
「むしろ……かなり嬉しかった」
そう言うと、氷見坂は無表情のまま視線を落とし、持っていたメモ帳の角を指先で強く押さえた。
紙が少しだけ折れる。
直そうともしない。
『よかった、やっぱり優しい』
『今日はこれだけで生き延びられる、うん』
『いや今ので逆に無理かも』
忙しいな。
「それで」と俺が続ける。
「話って?」
氷見坂は鞄から小さなメモ帳を取り出した。
開くと、文化祭の後片づけ分担表がはさまっている。
「……日曜」
「うん」
「……空いてる?」
一瞬、言葉の意味がうまく処理できなかった。
今週の日曜。つまり休日。
学校でも文化祭準備でもない時間。
『誘った』
『言った』
『ここで断られたら静かに散る』
散らせるか。
「空いてる」
返事は即答だった。
氷見坂がほんの少しだけ息をつく。
「……じゃあ」
「うん」
「……本屋、行きたい」
なるほど、と思った。
ショッピングモールでもなく、遊園地でも映画館でもなく、本屋。氷見坂らしすぎる。
けれど、問題はそこじゃない。
「それって」
言いかけて、俺は少しだけ笑った。
もう確認しなくていい。
主語を入れ間違える段階は越えたはずだ。
「……デート、でいいんだよな」
氷見坂は数秒固まり、それから小さくうなずいた。
「……そう」
実況が一気に流れる。
『言わせた、頑張りました私』
『でも自分で言うのはまだ無理』
『次は言えるようにする。たぶん』
次、まで考えているのか。
それだけで少し笑いそうになる。
「じゃあ、行く」
「……うん」
「本屋のあと、どこか寄るか?」
そう聞くと、氷見坂は少しだけ考えた。
「……喫茶店」
「了解」
決まった。
休日に、二人で、本屋と喫茶店。
文字にすると地味なのに、心臓への負担はまったく地味じゃない。
帰り道、陽菜が俺の横に並んできた。
「何かあった顔」
「今度は俺の番かよ」
「順番、ちゃんと守ってあげてるでしょ」
こいつなりの律儀さがあるらしい。
「日曜、出かける」
それだけ言うと、陽菜は一拍止まってから、真顔でまた親指を立てた。余計だ。
「進んでるじゃん」
「お前が嬉しそうなの何なんだよ」
「クーデレ長編を見届けてる読者の気分。大好物」
やっぱり案件か物語扱いだった。
その夜、氷見坂からもう一通届いた。
『時間、十時で大丈夫?』
そのあと少し間を置いて、もう一通。
『服、考え中』
俺はその二通目を見て、しばらく動けなかった。
服を考え中。
つまり、俺と会うための服を。
何と返すのが正解かわからず、十分くらい悩んだ末に送った。
『何でも似合うと思う』
送ったあとで、自分でも雑だと思った。
だが既読はすぐについた。
そして返ってきたのは、短い文だった。
『それは、ずるい』
次の瞬間、教室で一度も見たことのない長さの実況が頭に流れ込んできた。




