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第17話 壁の向こうの観測者

 教室の扉の向こうで何かが倒れる音がして、続いて陽菜の声がした。


「ちょ、待って、今の最後まで聞いてない!」


 最悪だ。

 いや、最悪というには少しだけ救われる最悪だった。

 氷見坂が固まる。

 俺も固まる。

 さっきまでちゃんと告白の返事をしていた空気が、一瞬で日常の騒音に引き戻された。


「お前、いたのかよ」


 扉を開けると、陽菜が廊下にしゃがみ込んでいた。倒したのは掃除用具入れの横に立かけてあったモップらしい。


「いたよ。いたけど盗み聞きではないよ。偶然だよ」

「偶然で扉の横に張りつくな」

「いやー、帰ろうとしたら二人きりで残ってるから、これは空気を読んで待機かなって、てへっ」


 空気を読んだ結果がそれか。


 陽菜は立ち上がると、俺と氷見坂を交互に見た。

 氷見坂は相変わらず無表情だが、耳がまだ赤い。


『消えたい』

『今すぐ床になりたい』

『でもたぶん無理。床にも迷惑』


 実況だけは元気だった。


「で?」と陽菜が言う。

「で、じゃない」

「両想い成立?」


 聞き方が雑すぎる。

 だが、答えは一つしかない。


「……まあ」


 俺がそう言った瞬間、陽菜が両手を握って小さく跳ねた。


「よっしゃ!」

「お前が達成するな」

「だってめちゃくちゃ長かったじゃん、この案件」


 案件扱いするな。

 けれど陽菜の顔は本気で嬉しそうで、少しだけ毒気が抜ける。


 氷見坂の方を見ると、彼女は小さくため息をついていた。


『陽菜が知るのは時間の問題だった』

『でも初手がこれなのは嫌』

『もっと静かに祝われたかった』


 たしかにそうだ。


「悪かった」と陽菜が急に少しだけ真面目な顔になる。

「最後のとこは、ほんとに偶然」

「途中からいたんだろ」

「うん、途中からはいた」


 ほとんど全部じゃないか。


 そのあと三人で校門まで歩いたが、空気は妙にぎこちなかった。陽菜がいるのに静か、という珍しい状態だ。

 たぶん気を遣っている。遣い方が雑なだけで。


 駅前で陽菜が先に別の改札へ向かうとき、こっそり俺の耳元で言った。


「明日から大変だよ」

「何が」

「主語入りの会話」


 言われてから理解する。

 今までは実況に主語がなくて、俺が勝手に勘違いしていれば済んだ。これからは違う。

氷見坂と付き合うなら、曖昧なままではたぶん続かない。


 その夜、ベッドの上でスマホを見ながら、俺は大事なことに気づいた。

 連絡先。

 そういえば、まだちゃんと交換していない。

 同じクラスなのと、必要なときは直接話していたせいで、今まで不便がなかった。

 だが今は不便以前の問題だ。


 付き合った当日に、連絡先がない。

 間抜けにもほどがある。


 翌朝、その話をしようと教室へ入る。

 すると俺の机の上に、小さな白い封筒が置かれていた。

 見覚えのある、きれいな字で一言だけ書いてある。


 昼休み 屋上前


 顔を上げると、前の席の氷見坂が本を開いたまま、ほんの少しだけ肩をすくめた。


『先回りした』

『昨日の私をなめないでほしい』

『いや、なめないでって何』


 考えることはだいたい聞こえている。

 けれど今の俺には、その一言だけで十分だった。


 昼休み、屋上前の踊り場に行くと、氷見坂がスマホを待っていた。

 無表情。けれど耳だけ赤い。


「……連絡先」

「俺もそれ言おうとしてた」

「……遅い」


 初めて少しだけ責めるみたいな口調だった。

 でも実況はもっと辛辣だ。


『昨日のうちに気づいてほしかった』

『でも気づいてなさそうだったから準備した』

『世話が焼ける。うん、世話が焼ける』


 完全にその通りである。


 互いの画面を出して、IDを交換する。

 たったそれだけなのに、妙に緊張した。

 登録名をどうするか一瞬迷って、結局「氷見坂」にする。向こうの画面をちらりと見たら、俺の名前はすでにフルネームで入っていた。


『昨日の夜に打った』

『早すぎるのは重い?』

『でも本名以外で登録する勇気はない』


 重いとは思わない。

 むしろ、嬉しい。


「……あの」

 氷見坂がスマホを握ったまま言う。

「ん?」

「……最初の一通、どっちから」


 そこで俺は少しだけ笑ってしまった。

 付き合った翌日にする会話としては、たぶんかなり初々しい。


「じゃあ、俺から送る」


 そう言うと、氷見坂は小さくうなずいた。

 そのとき予鈴が鳴る。

 階段を下りながら、俺は震える指で短い文を打った。


「よろしく」


 送信した瞬間、前を歩く氷見坂のスマホが震えた。

 彼女は画面を見て、立ち止まり、ほんの少しだけ振り返る。


『短い』

『でも嬉しい』

『返信、何て返すのが正解?』


 そして放課後、俺のスマホに届いた最初の返信は、たった五文字だった。


『こちらこそ』


 その後ろに、見たことのない小さな白いハートが付いていた。


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