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第16話 主語の正体

 氷見坂の名前が呼ばれた瞬間、俺の呼吸が一拍止まった。

 入口に立っていたのは、他クラスの女子生徒だった。

 胸元の色違いのリボンで学年は同じだとわかる。

 その手には、小さな封筒。

 嫌な予感というより、見たくない場面を先に想像してしまった。

 氷見坂が誰かから呼び出される。

 文化祭の空気に浮かれた告白。

 別に珍しいことじゃない。

 なのに、胸の奥が露骨にざわつく。


『何』

『今このタイミングで』

『無理。やめて』


 俺の感情なのか氷見坂の実況なのか、一瞬わからなくなった。

 呼ばれた本人は一度だけ入口を見て、静かに近づく。

 教室のざわめきはすぐに別の話題へ散っていったが、俺だけは目が離せなかった。


「氷見坂さん、これ」

 女子生徒は封筒を差し出した。

 俺の胃が勝手に縮む。

「昨日、うちのクラスの須藤が来られなくて。文化祭の出し物の交換チケット、渡しそびれてたみたいで」


 その瞬間、全身の力が抜けた。

 ただのチケットだった。

 告白でも何でもない。

 握っていた拳から、指が一本ずつほどけていく感覚がある。

 自分の手が、こんなに強く握られていたことに今さら気づいた。


 自分でも驚くくらい、ほっとしていた。

 ――でも、なんでこんなに握ってたんだ。

 ただのチケットだ。何も起きていない。

 なのに手のひらには、爪の跡が薄く残っていた。

 戻ってくる氷見坂の数秒を見ながら、俺はその跡の意味をようやく認めた。


 嫉妬だ。


 わかりやすく、どうしようもなく。

 見知らぬ誰かに氷見坂の名前を呼ばれただけで、拳を握るほど心がざわついた。

 だったら、答えはもう出ている。ずっと前から出ていたのに、認めるのを後回しにしていただけだ。

 戻ってきた氷見坂が俺の横を通る。

 そのとき、小さな実況が聞こえた。


『今ので顔がわかりやすすぎた』

『もしかして少しは期待していいの』

『いや期待して死ぬのはやめろ』


 期待していい。

 そう言えたらどれだけ楽かと思う。

 でも、言うならちゃんとした形で言いたい。

 文化祭本番は思った以上に忙しかった。


 展示の説明、来客対応、衣装の調整、片づけ。クラスメイトに呼ばれるたびに、返事のタイミングが遠のく。

 氷見坂も同じで、静かな顔のままよく働いた。

 白と紺の衣装はやっぱり似合っていて、そのたびに俺の心臓は余計な仕事をする。

 昼過ぎ、陽菜が紙コップのジュースを差し出してきた。


「決まった顔してる」

「そんなにわかりやすいか」

「朝よりはね」


 陽菜は俺の視線を追って、少し離れた場所で来客対応している氷見坂を見た。


「で、どうするの」

「終わったら言う」

「今度は逃げない?」

「逃げない」 

 そう言うと、陽菜は満足そうにうなずいた。


「じゃあ、背中は押さない」

「押す気だったのか」

「状況によっては物理で」


 こいつならやりかねない。

「――でも」と陽菜が続けた。


「祭りが終わるのって、ちょっとだけ寂しいよね。何かが決まる日でもあるから、余計に」


 珍しく茶化さない声だった。

 俺は何も言えず、ジュースを一口飲んだ。


 午後の一般公開が終わって、片づけが始まる。机を戻し、装飾を外し、床のテープを剥がす。祭りの終わり独特の疲労と静けさが、教室にじわじわ広がっていく。


 全部が終わったころには、外はもう夕方だった。

 クラスメイトたちが順に帰っていく。

 陽菜が去り際に親指を立てた。うるさい。

 教室に残ったのは、俺と氷見坂を含めて数人だけ。やがてその数人も荷物を持って出ていく。


 最後に扉が閉まったとき、教室の中には俺たちしかいなかった。

 氷見坂は窓際に立って、外のオレンジ色の光を背にしていた。

 文化祭用の白と紺の衣装のままだから、いつもの制服姿より少しだけ現実感がない。


「氷見坂」

 呼ぶと、彼女が振り向く。

 実況はない。

 たぶん、今は言葉そのものを待っている。


「返事、する」


 声が、思ったより震えた。

 落ち着いているつもりだったのに、いざ声に出すと足元から崩れそうになる。

 でも、それでいいと思った。

 整った言葉より、震えたままの言葉の方が、たぶん今は正しい。


「俺、最初からずっとお前のこと気にしてた」


 観察とか、心配とか、そういう言い換えじゃもう足りない。


「でも、自分がどういう意味で気にしてるのかを、ずっとわざと考えないようにしてた」


 氷見坂は黙って聞いている。

 逃げずに、まっすぐ。


「主語を間違えてたのは、お前の言葉だけじゃなかった。たぶん俺自身の気持ちもそうだった」


 ここまで言って、ようやく本題に届く。

 怖いのに、不思議と逃げたい感じはしなかった。


「……好きだ」


 言えた。

 たった三文字なのに、今までで一番息を使った。


「氷見坂のこと、好きだ」


 教室が静かすぎて、自分の声がやけに残る。

 氷見坂は動かなかった。

 無表情のまま、ほんの少しだけ目を見開いている。

 実況もない。

 完全な沈黙。

 失敗したかと思いかけた瞬間、彼女の喉が小さく動いた。


「……ほんとに」


 疑うような声じゃない。

 信じたいのに怖いときの声だ。


「ほんとに」


 今度は迷わず答える。

 その瞬間、氷見坂が一歩だけ近づいた。

 無表情のままなのに、耳が赤い。


『よし!無理』

『嬉しい、頑張った私、泣くな私』

『でもたぶん今、一番顔がひどい』


 実況が戻った。

 それだけで少し安心する自分がいる。

 俺には実況なんてものはないけれど、今この瞬間だけは、自分の顔も似たようなものを喋っている気がした。


 氷見坂は制服じゃない袖――文化祭衣装の白い袖の端を、自分で少し握ってから言った。


「……私も」


 声が小さい。

 けれど、十分だった。


「……ずっと、好き」


 今度こそ、主語がはっきり入った。

 俺に向けて。

 誰にも逃がさない形で。

 胸の奥が熱くなる。

 たぶん、これが答えだ。

 そのまま少しだけ沈黙が続く。


 付き合う、とか、これからどうする、とか、普通なら次に来るはずの会話がどこかへ飛んでいた。

 俺たちはたぶん、そこがまだ下手だ。

 先に口を開いたのは氷見坂だった。


「……一つ、確認」

「何」

「……もう、主語……間違えない?」


 そんなところで釘を刺されるのか。

 でも、笑いそうになるくらい氷見坂らしい。


「努力する」


 そう答えると、氷見坂はほんの少しだけ間を置いたあと、たしかに笑った。

 ほんの少しだけ。

 でも、今まで見たどの変化よりもはっきりわかった。


『今のは反則』

『そっちが先に笑わせるから』

『……もう一回見たい』


 その実況を聞いた瞬間、教室の扉の向こうで何かが倒れる音がした。

 続いて、聞き覚えのある声がする。


「ちょ、待って、今の最後まで聞いてない!」


 陽菜だった。たぶん最初から扉の外にいた。

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