第15話 返事の置き場所
氷見坂の顔を見る前に、俺は電車を一本、見送った。
寝坊したわけじゃない。ただホームに立った瞬間、昨日の続きが胸に押し寄せてきて、足が動かなくなった。
昨日、氷見坂は言った。
本命は俺だと。
そして俺は、返事を保留した。
逃げた、とは少し違う。でも前に進めなかったのは事実だ。
教室の前で深呼吸してから入る。
氷見坂はもう席にいて、本を開いていた。
こっちに気づいて、ほんの一瞬だけ視線が上がる。
すぐに戻る。
それだけで心臓に悪い。
『見た』
『見ただけ』
『朝から限界値を使うな』
向こうも余裕はなさそうだった。
「おはよ」
勇気を振り絞って言うと、氷見坂はページを押さえたまま答える。
「……おはよう」
いつもより一音多い気がした。
たぶん気のせいじゃない。
席についた瞬間、陽菜が横から覗き込んでくる。
「空気がうるさい」
「お前は静かにしろ」
「で、どうなったの」
「どうもなってない」
「いやー絶対何かあった顔だよ。青春だ青春」
陽菜は楽しそうだが、こっちはそれどころじゃない。
「返事、待ってもらってる」
小声でそう言うと、陽菜が一瞬だけ真顔になった。
「へえ」
「何だよ」
「ちゃんと待ってくれるんだ」
「……そうみたいだ」
その事実が、ありがたいのに重い。
「なら急ぎなよ」と陽菜は言った。
「待たせる優しさって、待つ方の消耗とセットだから」
珍しくまともなことを言う。
だから余計に刺さる。
午前中の授業は、昨日以上にひどかった。
ノートは取っているのに内容が頭に残らない。
前の席に座る氷見坂の後ろ姿が、今までとは別の意味で近い。
肩の線も、髪の揺れも、ページを押さえる指も、全部に主語がついてしまったせいだ。
昼休み、文化祭の買い出し担当の最終確認が始まった。
クラス委員が名簿を読み上げ、足りない物品を確認していく。
「色紙、追加で二冊。
養生テープ、一本。
リボン数種類――」
そこで委員が困った顔をした。
「ごめん、このリスト再確認したいんだけど、今日の放課後にもう一回だけ買い出し行ける人いる?」
教室が一瞬静まる。
みんな面倒そうだ。
文化祭前日の放課後なんて、できれば早く帰りたいに決まっている。
俺が手を挙げる前に、氷見坂が言った。
「……行けます」
ほぼ同時に、俺の手も上がっていた。
「俺も」
教室の空気が少しだけざわつく。
陽菜が露骨に口元を押さえた。笑うな。
「じゃあ、その二人お願い」と委員が言う。
決まった。
決まってしまった。
放課後、駅前の百均と文房具店を回る。
買うものは文化祭の消耗品だけで、昨日のショッピングモールみたいな曖昧さはない。
ないはずなのに、空気だけは昨日以上に曖昧だった。
リボンの色を選ぶ氷見坂の手が、一瞬だけ止まる。
迷っているわけじゃない。たぶん、色を見ているようで、何も見ていない。
俺も似たようなものだった。
「このリボンでいいか」
「……うん」
「色、足りる?」
「……大丈夫」
会話は短い。
でも実況は静かすぎて、逆に落ち着かない。
たまに聞こえるのも、断片だけだ。
『近い』
『無理』
『でも帰りたくない』
主語を知ってしまった今、その三つだけで十分すぎた。
レジに並んでいるあいだ、氷見坂が小さく呟いた。
「……キーケース、まだ使ってくれてる?」
以前渡された、あのキーケースのことだ。
毎日使っている。使いすぎて、もう鍵の一部みたいになっている。
「使ってる。むしろ手放せない」
そう答えると、氷見坂は俺の顔を見ずに、レジ袋の持ち手だけを見つめて頷いた。
『風にあたりたい』
それだけで伝わるものがある、と初めて思った。
買い物を終えて駅まで戻る途中、信号待ちで二人きりになる。
外に出た瞬間、氷見坂が小さく息を吐いた。
風が、頬にかかった髪を少しだけ揺らす。
夕方の車の音が、妙に大きい。
「昨日のこと」と俺は切り出した。
氷見坂の肩がわずかに揺れる。
「……うん」
「待ってもらってるの、ちゃんとわかってる」
「……うん」
「そのままにする気はない」
ここまでは言えた。
でも、その先が難しい。
好きだと言い切れるのか。
まだ整理できていない――そう自分に言い訳しかけて、キーケースを思い出した。
毎日握っているものの重さくらい、本当はもう分かっているはずだ。
整理できていないんじゃない。整理する勇気がまだ足りないだけだ。
「俺、氷見坂のこと、見てたつもりだった」
信号が青に変わる。
歩き出しながら続けた。
「でも、全然見えてなかった」
「……うん」
「それで今、見え方が一気に変わってる」
氷見坂は黙って聞いている。
否定しない。急かさない。
その待ち方が、余計に真剣だった。
「だから、ちゃんと考えたい。曖昧なまま渡したくないんだ、この答えだけは」
駅に着く直前、氷見坂が小さく言った。
「……返事って」
「うん」
「……いつ」
そこを聞かれるのは当然だ。
待つにも限界がある。
俺は少しだけ考えて、目の前の学校の予定表を思い出した。
明日は文化祭本番。準備から解放されるのは、そのあとだ。
「文化祭、終わったら」
そう答えると、氷見坂は一度だけ目を閉じた。
長くも短くもない沈黙。
「……わかった」
了承の声は静かだった。
でも実況は、静かじゃない。
『長い』
『でも短い』
『終わるまで保たせろ、心臓、落ち着け私』
こっちの心臓も似たようなものだ。
その夜、ベッドの上で天井を見ながら、俺は初めて自分の側の主語を考えた。
俺は、氷見坂をどう思っているのか。
観察対象じゃない。
気になる相手、だけでももう足りない。
答えはもう、輪郭だけならとっくに見えている。
あとは、それを言葉にする勇気だけだ。
翌朝、文化祭当日。
教室は朝から騒がしく、飾りつけの最終確認で全員がせわしない。
そんな中、氷見坂は白と紺の衣装を着ていた。自分で提案した配色だから当然なのに、妙に似合いすぎて反応に困る。
『見ないで』
『いや少しは見て』
『やっぱり見ないで』
どっちだよ。
思わず口元が緩みかけた瞬間、陽菜が背後から耳打ちした。
「顔、完全に答え出かけてるよ」
そう言われた直後だった。
教室の入口で、見知らぬ女子生徒が氷見坂の名前を呼んだ。
制服のリボンの色が違う。他クラス――いや、他学年か。
その手には、封筒が握られている。
氷見坂の顔から、初めて表情が消えた。
いつもの無表情とは違う。何かを堪えるような、逃げ場を探すような無表情だ。
いつもなら聞こえてくるはずの実況が、来ない。
一言も。




