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第14話 離さないでの続き

 人の声が、急に遠くなった。

 教室のざわめきも、机を引く音も、衣装の布を広げる音も、全部が一歩向こうへ退いたみたいだった。


 氷見坂の指先は、俺の制服の袖をつまんだまま離れない。

 俯いた横顔はいつも通り無表情なのに、その沈黙だけが異常に切実だった。


「……離さないで」


 聞き間違いじゃない。

 今度は主語も、意味も、逃げ道もほとんど残っていない。


 俺は一度だけ喉を鳴らした。


「それ、は……」


 最後まで続かない。

 何を確認すればいいのか、何を言えばいいのか、言葉が全部渋滞していた。


 氷見坂は少しだけ力を強める。

 袖を引く、というより、踏みとどまるために触れている感じだった。


『今さら撤回は無理』

『勢いで言った。いや勢いですらない』

『でも、言わないままだともっと無理だった』


 その実況だけが、彼女の代わりに正確だった。


「……わかった」


 やっと出たのは、それだけだ。

 情けないくらい短い返事だったけれど、氷見坂はそこでほんの少し肩の力を抜いた。


 ただ、袖をつまんだ手はまだ離れない。


 そこでようやく俺は気づいた。

 これは言質を取っているんじゃない。

 離すな、と言った本人が、一番先に離すのを怖がっている。


 だったら、先にやることは一つしかない。


 俺は自分の手を少しだけ動かして、氷見坂の指先に触れた。

 驚いたみたいに彼女が息を止める。


「……離さない」


 今度は、ちゃんと最後まで言えた。


 氷見坂が顔を上げる。

 無表情のままなのに、目だけが一瞬どうしようもなく揺れた。


『んなっそれは反則』

『そんな真っすぐ言われる予定じゃない』

『無理。顔に出る』


 十分 顔に出てる気がする。

 少なくとも俺にはわかった。


 そのまま数秒、いや数十秒かもしれない沈黙が続いた。

 先に我に返ったのは俺だった。

 ここは教室の端で、周囲には文化祭準備の人間がうろうろしている。

 今は誰もこちらを見ていないが、この距離感を誰かに見られたら説明がつかない。


「氷見坂」

「……なに」

「一回、場所変えるか」


 彼女はこくりとうなずいた。

 それでも袖は離さないまま、俺の後ろをついてくる。


 向かったのは特別棟の空き教室の前だった。放課後のこの時間は人が少ない。廊下の窓から入る西日だけが妙に赤かった。


 そこでようやく、氷見坂は手を離した。

 離した瞬間、急にさっきまでの体温が現実になる。


「……ごめん」

 反射で彼女が言う。

「何で謝るんだよ」

「……勢い」

「勢いで言う内容じゃないだろ」


 そう返したら、氷見坂は小さく目を伏せた。


『その通りです』

『でも勢いがないと死ぬ』

『今日の私はたぶんもうだめ、うん、だめ』


 わかる。こっちもだいぶだめだ。


「俺、ずっと勘違いしてた」


 言いながら、自分でもそれがかなり軽い表現だと思う。

 勘違い、で片づけていい範囲をたぶん超えている。


「本命って言葉、勝手に別の奴に当てはめてた」

「……うん」

「でも、違った」


 そこで言葉が止まる。

 違った、の先を口にするのが妙に怖い。

 もしここで間違えたら、今度こそ本当に取り返しがつかない気がした。


 氷見坂は待っていた。

 急かさない。ただ、待っていた。


『言って』

『そこまで来たなら』

『今だけは、察する能力じゃなくて、きちんと喋って』


 厳しい実況だ。


「……氷見坂の本命、俺なんだろ」


 言った瞬間、耳まで熱くなる。

 こんな確認の仕方しかできない自分を殴りたくなった。


 氷見坂はしばらく黙って、それから小さくうなずいた。


「……そう」


 二文字。

 なのに、今までで一番破壊力があった。


 息がうまくできない。

 けれど苦しくはなかった。むしろ、ずっと喉に引っかかっていたものがようやく落ちた感じに近い。


「そっか」


 我ながら最低の返しだった。情け無い。

 氷見坂のまつ毛が少し下がる。

 慌てて言い足す。


「いや、ごめん。違う。そうじゃなくて」

「……うん」

「驚いてる。めちゃくちゃ」


 正直すぎる言い方に、氷見坂はほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑った、というほどではない。けれど確実に、いつもと違う。


『その顔するんだ』

『今ので少しだけ報われた』

『でもまだ返事はもらってない』


 そこだ。

 そこが、一番重い。


 俺は壁にもたれそうになるのをこらえた。

 返事。

 つまり、俺がどう思っているか。

 そこからはもう観察じゃ済まない。


「……少し、待ってもらってもいいか」


 やっとのことで言うと、氷見坂は驚きも責める色も見せずにうなずいた。


「……うん」


 その一言に救われる。

 でも同時に、待たせる側になった現実が重かった。


 廊下の向こうから、陽菜の声が飛んできた。


「おーい、そろそろ片づけ終わるってー」


 タイミングがいいのか悪いのか、たぶん悪い。

 俺たちは一歩ぶんだけ距離を取った。


 ただ、すれ違いざまに氷見坂が小さく言う。


「……でも」

「ん?」

「……今日は、ちゃんと離さなかった」


 そう言って先に歩き出した背中を見ながら、俺はたぶんこの先しばらく普通の顔で文化祭準備なんてできないと悟った。

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