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第13話 主語の候補

 足音は、途中で別の階段へ折れていった。

 誰もこちらには来ない。

 なのに俺たちは、すぐには動けなかった。


 氷見坂が差し出した紙袋は、まだ俺の目の前にある。

 受け取れば意味が決まる。

 だからこそ、指先が妙に重い。


「……俺に?」


 確認のつもりで聞いたのに、声が情けないくらい掠れた。


 氷見坂は一度だけうなずく。


「……そう」


 たった二文字で、今までの前提がまとめて崩れた。

 本命候補リストも、神代も、瀬名も、全部外れ。

 最初から候補は一人だった。

 ただ、その一人を俺が絶対に自分だと思わないようにしていただけだ。


『やっとここまで来た』

『遅い』

『でも、来たならいい』


 いいのか。

 よくはない気もする。こんなに長く見当違いを続けていたのだから。


 俺は紙袋を受け取った。

 中身の重さは軽いのに、手のひらの感覚だけがやけにはっきりしている。


「どうして……俺に」


 また雑な聞き方をしたと自覚したときには、もう遅かった。

 氷見坂は少しだけ目を伏せる。


「……必要、かなって」


 必要。

 その言葉だけだと、まだいくらでも逃げ道がある。

 鍵をまとめるのに便利だからかもしれないし、物をなくしそうだからかもしれない。

 でも実況は逃がしてくれない。


『必要なのは私の方』

『持っててほしい。毎日、使ってほしい』

『できれば見るたびに私を思い出してほしい。重い。却下』


 重いどころか、破壊力が高すぎる。


「ありがとう」


 やっと出たのは、それだけだった。

 もっと言うべきことがある気がするのに、整理が追いつかない。


 氷見坂は小さく首を振る。


「……まだ」

「まだ?」

「……ありがとう、は、まだ」


 条件付きらしい。

 意味がわからなくて見返すと、彼女は視線を逸らしたまま続けた。


「……使って、から」


 なるほど。

 たしかに、もらっただけで礼を言うのは早いのかもしれない。

 いや、普通は別に早くない。でも氷見坂の中では順番があるのだろう。


『使ってくれなかったら立ち直れない』

『今すぐ付けてほしい』

『でもそれを言うのは圧が強い』


 圧どころか、もはや告白の予告みたいになっている。


「じゃあ、使う」


 そう言うと、氷見坂のまつ毛がわずかに揺れた。

 俺はポケットから家の鍵を出して、その場でキーケースに通す。

 金具が小さく鳴る。

 その音だけで、彼女の肩から少し力が抜けたのがわかった。


『よかった』

『今だけで今日を乗り切れる』

『いや無理かも。今ので寿命が縮んだ』


 俺も似たようなものだ。


 渡り廊下から教室へ戻る途中、陽菜が廊下の角からひょいと顔を出した。

 こいつはたぶん、最初から全部察していた。


「へえ」

「へえ、じゃない」

「それ、もらったんだ」


 陽菜の視線が俺の手元のキーケースに落ちる。

 氷見坂はその横で、無表情のまま少しだけ固まった。


「……陽菜」

「ごめんごめん。邪魔する気はないよ」


 言いながら全然悪びれていない。

 でも次の一言だけは、少し真面目だった。


「大事にしなよ」


 それだけ言って、陽菜は教室の方へ戻っていった。

 去り際にこっちを見て、親指を立てたのは余計だ。


 その夜、家に帰ってからも、何度もキーケースを見てしまった。

 ネイビーの革。銀色の金具。昨日、雑貨屋の棚で見たときと同じものなのに、今は全然違って見える。


 母さんが味噌汁をよそいながら言った。


「今日は何かあった?」

「何で」

「包丁の音が一定じゃない」


 怖い観察眼を発揮しないでほしい。

 俺はまな板の上のきゅうりを見る。

 たしかにリズムが乱れていた。


「別に」

「その『別に』は、別にじゃないときのやつだね」


 便利な言葉は、家でも通用しないらしい。


 翌日、学校へ向かう電車の中で、ポケットの中のキーケースが何度も気になった。

 重さはほとんどないのに、存在感だけが大きい。


 教室に入ると、氷見坂が一瞬だけ俺の右手を見た。

 キーケースを確認したのだとすぐわかる。

 そして本に目を戻す。


『使ってる』

『本当に使ってる』

『朝から無理。帰りたい。でも帰ったら見られない』


 感情の往復が忙しい。


 文化祭準備でも、彼女はどこか上の空だった。

 いや、上の空なのは俺の方かもしれない。今までなら聞き流していた短い言葉の一つ一つに、いちいち意味を考えてしまう。


「この布、前に出しすぎ?」と誰かが聞く。

「……少し」と氷見坂が答える。


 少し。

 それだけで、俺は昨日の「離すの、早かった」を思い出してしまう。

 完全に末期だ。


 昼休み、陽菜がわざわざ俺の机に来て言った。


「顔、うるさいよ」

「そんなに出てるか」

「かなり」

「嘘だろ」

「氷見坂ちゃんの前だけね」


 それはそれで最悪だ。


「で、主語は埋まった?」


 陽菜に聞かれて、俺は少しだけ考えた。


「候補は、たぶん一人」

「遅っ」

「うるさい」

「じゃあ次は?」

「次?」

「その主語に、ちゃんと返事すること」


 返事。

 その単語が思ったより重い。


 放課後、衣装の仮合わせで教室が慌ただしくなる。

 机を端に寄せて、人の流れができる。布やハンガーや段ボールが積まれて、狭い。

 その狭さの中で、前から来た生徒を避けようとして、氷見坂の肩が俺の胸元に触れた。


「悪い」と言う前に、彼女が俺の制服の袖をつまむ。

 昨日と同じ、いや昨日よりも少しだけ強い力だった。


「……氷見坂?」


 周囲は騒がしい。誰もこっちを見ていない。

 それでも心臓だけがやけにうるさい。


 氷見坂は俯いたまま、ほとんど息みたいな声で言った。


「……今日は」


 そこで一度止まる。

 実況の方が先に流れた。


『今度は逃げない』

『言え』

『せめて半分でも』


 氷見坂の指先が、ほんの少しだけ袖を引く。


「……離さないで」


 人のざわめきが一瞬、全部遠くなった。

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