第12話 平気って便利
翌朝、陽菜への相談料として購買でパンを二つ買った。
我ながら発想がしょぼいが、何もないよりはいい。
「何それ」
「相談料」
「現金じゃないんだ」
「高校生に何を求めてるんだ」
陽菜はクリームパンを受け取って、満足そうに机へ座った。
こいつは安い賄賂でよく動く。
「で、昨日の早朝呼び出しの理由、予想は?」
「ない」
「じゃあ何でそんな神妙な顔してるの」
「たぶん、何か言われる」
「たぶんね」
たぶん、しかない。
氷見坂の言葉はいつも短い。実況は長いのに、口から出るものだけ極端に少ない。その差に慣れすぎて、俺は会話の難易度をずっと間違えてきた気がする。
「昨日の続きだと思う?」
「思う」
「じゃあ、主語を考えなよ」
「まだそれ言うのか」
「そこが一番大事だから」
陽菜はパンをちぎりながら、珍しく真面目な顔をした。
「『好き』とか『会いたい』とか『嬉しい』とかって、主語がなくても言えるでしょ」
「まあ」
「でも、聞く側が勝手に主語を入れちゃう。しかも大抵、都合のいい方向に」
その言葉がやけに刺さる。
俺はずっと、氷見坂の実況の主語を自分以外に置いてきた。
神代か、瀬名か、あるいはまだ知らない誰か。
そうしておけば、自分は安全な観測者でいられるからだ。
「逃げ道って便利なんだよ」
と陽菜は言った。
「でも、便利なものに頼りすぎると、気づくのも遅れる」
耳が痛い。
約束の時間より少し早く教室に入ると、氷見坂はもう来ていた。
朝の光の中で、本ではなく小さな紙袋を膝に置いている。
俺を見ると、すぐに立ち上がった。
「……こっち」
短く言って、廊下へ出る。
人気の少ない階段の踊り場まで来て、彼女はようやく止まった。
紙袋を持つ指先が、少しだけ固い。
無表情のままなのに、緊張しているのがわかる。
『落ち着け』
『落ち着いてないのがバレる』
『いや、もうたぶんバレてる』
俺の方も、十分落ち着いていなかった。
「昨日のこと」と氷見坂が言う。
「……うん」
「……怒ってない」
そこまでは予想していた。
でも、その先が予想できない。
「でも、俺」
「……嫌じゃなかった」
思考が止まる。
短い一言なのに、意味が重すぎる。
嫌じゃなかった。
何が。
誰にとって。
聞き返そうとした瞬間、実況が追い打ちみたいに流れた。
『言った』
『言ってしまった』
『これで伝わらないなら、もう無理』
さすがに、そこまで鈍くはない。
少なくとも今の一言が、人混みで手を取ったことに向いているのはわかる。
問題は、その先だ。
「氷見坂」
名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく揺れた。
「それって――」
最後まで言わせないみたいに、氷見坂が俺の袖をつまむ。
昨日と同じだ。違うのは、今度は向こうから触れてきたこと。
「……昨日」
「うん」
「……離すの、早かった」
そこで完全に止まった。
昨日の一番大きな出来事を、向こうは問題にしていないどころか、逆のことを言っている。
離すのが、早かった。
つまり、もっとつないでいてもよかった、という意味になる。
主語を入れれば、意味が決まる。
私は、あなたに手を離してほしくなかった。
心臓が嫌な音を立てる。
氷見坂はそのまま俯いていた。
実況だけが、今までで一番素直だった。
『本当は、ずっとつないでいたかった』
『でもそれを言うのは重い』
『重いって思われたくない』
重いなんて思う余裕は、こっちにない。
「それ、って……」
聞き返しかけて、俺は止まる。
ここでまた答えをそのまま口にさせたら、昨日と同じ失敗を繰り返す気がした。
「ごめん」
と言いそうになって、それも飲み込む。
今必要なのは謝罪じゃない。
たぶん、確認だ。
けれど確認の言葉が出てこない。
自分でも情けないくらい、口が動かない。
その沈黙を破ったのは氷見坂だった。
「……今日、放課後」
「放課後?」
「……少しだけ」
それだけ言って、彼女は袖から手を離した。
その離し方まで慎重で、逆に余計に意識してしまう。
教室へ戻る途中、陽菜と鉢合わせた。
こいつは明らかに狙っていた顔をしている。
「で?」
「お前な」
「当たった?」
俺が答えに詰まると、陽菜は目を丸くした。
「うわ、本当に何か言われたんだ」
「……離すの、早かったって」
言った瞬間、陽菜が額を押さえた。
「おぅ氷見坂ちゃん、よくそこまで頑張ったね……」
「やっぱりそういう意味なのか」
「逆にどういう意味だと思ったの」
「まだ確定してないだろ」
「確定を求めすぎなんだって」
陽菜はため息をついてから、少しだけ声を柔らかくした。
「主語、ずっと抜けてたでしょ」
「……ああ」
「でも、もう候補は一人しかいないと思うよ」
その一言で、教室の床が少し揺れたみたいに感じた。
授業中、黒板の文字が珍しく遠い。
氷見坂の後ろ姿を見るたびに、今まで聞いてきた実況の一つ一つが、別の意味でつながり直していく。
かわいい、近い、困る、平気じゃない。
全部、俺が主語の入れ方を間違えていたとしたら。
昼休み、文化祭準備の相談でまた人が集まる。
衣装の色、展示の配置、小道具の数。細かい話し合いの中で、氷見坂はいつも通り短く答える。
けれど俺の方は、もういつも通りではいられない。
「この配置、どう思う?」と誰かが聞く。
「……少し近い」と氷見坂が言う。
たったそれだけなのに、俺は反応してしまう。
近い、という言葉に別の文脈を読み込んでしまう自分がいる。
末期だ。
放課後、教室の人が減ってから、氷見坂が俺の机の横に来た。
朝と同じ紙袋を持っている。
「……行こ」
向かったのは特別棟の渡り廊下だった。
夕方の光が差して、床が少し赤い。風が通るたびに、紙袋の取っ手が小さく揺れる。
氷見坂はしばらく黙っていた。
俺も急かせない。
急かしたら、また大事なところを取り落としそうだからだ。
やがて彼女は紙袋を両手で持ち直して、俺に差し出した。
「……これ」
「え」
「……昨日、選んだやつ」
ネイビーのキーケース。
ショッピングモールで、俺が『いいと思う』と言ったやつ。
頭が追いつかない。
「本命の相手に渡すんじゃ」
言いかけたところで、氷見坂が初めて少しだけ強い目をした。
「……だから」
そこで言葉が切れる。
けれど実況が、その先を叫ぶみたいに流れた。
『まだそこにいるの』
『本当に、ここまで言わせるの』
『次はもう、名前を入れるしかない』
俺が息を飲んだ瞬間、廊下の向こうから誰かの足音が近づいてきた。




