第11話 違う、の意味
月曜の朝、教室に入った瞬間にわかった。
氷見坂葉月は、いつも通りの顔をしている。
無表情で、本を読んでいて、姿勢もいい。制服の襟も乱れていない。見た目だけ切り取れば、金曜の放課後にショッピングモールで人混みに紛れていた彼女と、今ここにいる彼女は、ほとんど同じ人物だ。
でも、違う。
ページをめくる指が、一度だけ止まった。
たったそれだけで、俺の胃が重くなる。
あの帰り際の会話が、頭の中で何度も再生される。
誤解されたら困るだろ。本命の相手に。
あれを言った瞬間、空気が変わった。
実況も変わった。
なのに、何がどうまずかったのかを、俺はまだ言葉にできていない。
「おはよー」
背中から陽菜の声が飛んできた。
振り返ると、いつもの明るい顔だが、目だけが完全に面白がっている。
「何だよ、その顔」
「観察だよ。土日をまたいで人間がどこまで鈍くなれるかの」
「失礼だな」
「で、進展は?」
「ない」
「でしょうね」
即答だった。
腹が立つが反論材料がない。
「昨日のこと、考えた?」
「考えた」
「結論は?」
「よくわからない」
「考えてないのと同じだね」
陽菜は笑いながら俺の前の席を引いて、後ろ向きに座った。
朝の教室はざわざわしている。誰もこっちの会話なんて気にしていないのに、こういうときに限って妙に声量が気になる。
「じゃあ整理しよっか。昨日、何したの」
「買い物に付き合った」
「うん」
「人混みで、はぐれそうだったから手を取った」
「うん」
「それで、離した」
「うん」
「で、誤解されたら困るだろって言った」
「うん」
「……以上」
「絶対以上じゃない」
陽菜が机に頬杖をつく。
「氷見坂ちゃん、どこで変わった?」
「改札の前」
「その前は?」
「普通だった」
「普通って便利だねえ」
皮肉が刺さる。
俺は前の席を見る。
氷見坂は相変わらず本を開いたままだ。こっちを見ない。実況も、ない。完全な無音ではないけれど、以前みたいに小さな感情がこぼれてこない。意識して抑え込んでいるみたいな静けさだった。
『見ない』
『気にしない』
『気にしたら終わる』
終わってないから、まだ気にしているんだろう。
その時点で十分しんどい。
「なあ」
「何」
「もし俺が、謝る場所を間違えてるとしたら」
「してるよ」
「断言するな」
「だってしてるもん」
陽菜は即答してから、少しだけ声を落とした。
「でも、それを人に教えても意味ないでしょ」
「意味はあるだろ」
「ないよ。自分で気づかないと」
その言い方が妙に本気で、俺は黙る。
陽菜はそういうところだけ変に正しい。
午前の授業は、半分くらいしか頭に入らなかった。
黒板を写しながら、前の席の肩越しに氷見坂の動きを見てしまう。ページをめくる速度。シャーペンを持つ指。先生に当てられたときの立ち上がり方。どこにも露骨な乱れはない。
ないのに、落ち着かない。
昼休み、俺は立ち上がった。
陽菜がすでに「行け」という顔をしている。腹は立つが、その通りなので反論できない。
氷見坂の席の前まで行くと、彼女は本から視線を上げた。
「……何」
「昨日、悪かった」
遠回しにするとたぶんまた外す。だから最短距離で言った。
氷見坂は一度だけ瞬きをした。
「……別に」
「別によくないだろ。あの、手」
「……違う」
小さいのに、はっきり聞こえた。
俺の思考が止まる。
「違う?」
「……そこじゃない」
そこじゃない。
つまり、俺は謝る地点を取り違えている。
頭の中で昨日を巻き戻す。
待ち合わせ。私服。雑貨屋。キーケース。人混み。手。改札。誤解。本命。
順番に並べても、答えが定まらない。
「じゃあ……本命って言ったのが、か」
その瞬間、氷見坂の指先が本のページの角を強く押した。
『そこまで来て、何でまだわからないの』
『観察だけは当たるのに』
『最後の一歩が雑』
雑なのは自覚している。
でも、その最後の一歩が見えない。
「ごめん」
反射でそう言うと、氷見坂は小さく首を振った。
「……だから、違う」
今度は少しだけ苦そうに聞こえた。
その声音に、余計に焦る。
「じゃあ何が」
聞いた瞬間、自分で失敗したとわかった。
答えをそのまま口にさせるのは、たぶん一番駄目なやり方だ。
氷見坂は唇を引き結んで、視線を落とした。
そこで教室の前の扉が開く。
「文化祭の係、昼休みに集まってくれー」
担任の声が、最悪のタイミングで割り込んだ。
氷見坂は本を閉じて立ち上がる。
会話はそこで切れた。
席に戻る途中、陽菜が小声で言う。
「プークスクス。今の、かなりヒントだったのに」
「だったら訳してくれ」
「無理。そういうのは本人の仕事」
「お前、たまに不親切だよな」
「たまにじゃないよ。ずっと」
午後は文化祭準備で教室が妙に騒がしかった。
うちのクラスは展示と簡単な衣装合わせをやることになっていて、色決めだけで十分揉
める。派手な案と地味な案がぶつかって、誰もまとめられない。
そんな中、委員として呼ばれた氷見坂は静かに言った。
「……白と紺で」
それだけ。
でも、不思議と空気が収まる。
「理由は?」と誰かが聞く。
「……目立ちすぎないから」
短い説明に、みんなが何となく納得していく。
俺は少し離れた場所で、その横顔を見ていた。
目立ちすぎない色。
それはたぶん、氷見坂自身が選んできた立ち位置に似ている。
「……大丈夫か」
気づけば声をかけていた。
氷見坂がこちらを見る。
「……平気」
いつもの言葉。
けれど実況は、いつも通りじゃない。
『平気って言えば終わる』
『終わらせたい』
『でも本当は終わらせたくない』
矛盾している。
矛盾しているのに、その矛盾の向きがまだ読めない。
放課後前、陽菜が購買のパンを二つ持ってきて、俺の机に置いた。
「はい。脳みそ用」
「何で二つ」
「一個じゃ足りない顔してるから」
「失礼だな」
「で、まだ気づかないの?」
陽菜は少しだけ真顔になった。
「主語がない言葉ってさ、安全なんだよ」
「主語?」
「誰が誰をどう思ってるか、そこをぼかせるから」
その言い方が、妙に引っかかった。
「でも、ぼかしたまま伝えようとするのって、たぶん一番怖い」
陽菜はそこまで言って、にやっと笑った。
「……以上、ヒント終わり」
「終わるな」
「サービスしすぎると成長しないでしょ」
成長を促す方法が雑すぎる。
そのとき、教室の出口で氷見坂が一度だけ立ち止まった。
振り返らないまま、ほんの少し横顔が見える。
『今日、言う』
『いや無理』
『でも、このままの方がもっと無理』
言う。
その言葉だけが、妙に重く胸に残った。
帰り支度をしていた俺の机の横に、しばらくして氷見坂が立った。
誰にも聞こえないくらいの声で言う。
「……明日」
「え?」
「……少し、早く来られる?」
顔を上げたときには、もう彼女は廊下へ出ていた。
理由も主語も置いていかれたまま、俺だけがその一言に取り残された。




