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第10話 手をつなぐ理由

 人混みの中で、氷見坂の肩が見えなくなりかけた瞬間、反射で手が出た。 

 細い手首をつかむのはまずいと思って、ぎりぎりで手のひらに変えた。指先が触れて、そのまま絡むみたいな形になる。 

 自分でやっておいて、心臓が一拍遅れて跳ねた。 

 氷見坂は振り返った。

 無表情。

 いつもの、温度の読めない顔。

 けれど頭の中には、いつもの実況が流れる。


『近い近い近い。距離感が校則違反』

『いや人混みだから仕方ない。事故です』

『事故にしては手がしっかりしてる。終わった』


 終わったらしい。

「悪い。はぐれそうだったから」

 言い訳としては正しい。

 でも、正しい言葉ほど、たまに空気を悪くする。

 氷見坂は小さくうなずいた。

「……ん」 


離そうとして、離せなかった。

 向こうが引かなかったからだ。 

人の波が横からぶつかってきて、今手を放したら、たぶん本当に見失う。

 そう判断した。判断しただけだ。そこに別の意味はない。ないはずだ。


『離さないんだ』

『いや助かるけど』

『助かるけど、助かるけど、心臓が助からない』


 俺の心臓も、たぶん同じ状態だった。

 そのままエスカレーターまで移動して、ようやく人の密度が薄くなる。そこでやっと手を離した。 

 離れた瞬間、体温だけが残る。 

 氷見坂は自分の右手を一度だけ見て、それから何もなかったみたいに前を向いた。


『見るな。そこを見るな。意識してるのがバレる』

『でもこっちも今、絶対見られた』

『もう無理。帰りたい。でもまだ帰らない』


 帰りたいのか、帰りたくないのか、どっちだ。

「休むか」

「……平気」 

 短い返事。

 だけど実況は短くなかった。


『平気ではない。でもここで休むとデートみたいになる』

『デートではない。プレゼント選び同行。再確認』

『再確認しないと危ない』


 危ないのは、何がだろう。 結局、近くのベンチで少しだけ休んだ。

 俺は自販機のアイスコーヒー、氷見坂はミルクティー。

 無表情でストローをくわえる氷見坂は、校内にいるときより少しだけ年相応に見えた。

 私服のせいかもしれない。白いブラウスに薄い青のカーディガン。

 膝丈のスカート。派手じゃないのに、ちゃんと目に残る。


『見すぎ』

『見すぎです』

『でも今日くらいは許されたい』


 誰にだ。

「さっきの店の、結局どれにするんだ」

 気をそらすために聞くと、氷見坂は紙袋を膝の上で軽く押さえた。

「……まだ」

「まだ?」

「……最後に、決める」 


 何を基準に決めるのかは言わない。

 たぶん、本命の相手に似合うかどうか。

 そう考えると、胸の奥が妙にざわついた。 

 おかしい。

 俺には関係ない話のはずなのに。

 その後も、雑貨屋を何軒か見て回った。

 氷見坂は、派手すぎるものは手に取らない。かわいすぎる色も避ける。

 手元に残る小物をじっくり見て、たまに俺にだけ向けるみたいに差し出す。


「……これは」

「無難」

「……これは」

「ちょっと目立つ」

「……これは」

「悪くない」 


 それだけの会話。

 なのに、どうしてこんなに疲れるんだろう。

 たぶん、彼女が選んでいるものの一つ一つに、見えない相手がいるからだ。 

 俺はその見えない相手を、勝手に神代か瀬名に絞っていた。

 神代司ならシンプルで実用的なものが似合う。

 瀬名亮なら、もう少し軽い感じでもいい。

 そうやって候補を消していく作業は、探偵というより敗戦処理に近い。 

 最後に入った店で、氷見坂はネイビーのキーケースを手に取った。

 装飾はほとんどない。金具だけが銀色で、小さく光っている。


「……これ」

「いいと思う」

「……そう」 

 それを聞いて、氷見坂は少しだけ目を伏せた。

 そして、そのキーケースを店員に差し出した。


『決まった』

『決まったけど』

『本当にこれでいいのかな』 


 買う直前に迷うのは普通だ。

 たぶん、恋愛でもそうなんだろう。 

 帰り道、駅までの歩道は夕方の光で白く伸びていた。

 並んで歩いているだけなのに、行きより静かだ。 

 俺はずっと、さっき手をつないだことが頭に残っていた。

 あれは緊急回避だ。


 不可抗力だ。そう整理しても、指先の感覚だけは消えない。 改札の手前で、俺はとうとう言った。


「今日は悪かった」 

 氷見坂が止まる。

「……何が」

「その、混んでたとはいえ、勝手に手」

「……ああ」 


 それだけ。

 肯定とも否定ともつかない返事。 

 俺はさらに余計なことを言った。


「誤解されたら困るだろ。本命の相手に」

 言った瞬間、空気が変わった。 

 氷見坂は何も言わない。

 でも実況だけが、やけにはっきり聞こえた。


『今のはきつい』

『そこまで鈍いと笑えない』

『違う、そうじゃないのに』 


 何が違うのか、俺にはわからない。

「……ごめん」 

 追加で謝ると、氷見坂は小さく首を振った。

「……別に」 


 別に。便利な言葉だ。

 会話を終わらせるためだけに存在するみたいな言葉。

 彼女はそのまま改札へ向かった。

 二歩進んで、止まる。

 振り返りはしないまま、背中越しに小さく言った。


「……また、月曜」 

 月曜。

 つまり、今日は終わりだ。 

 なのに実況は終わっていなかった。


『月曜まで長い』

『いや短い』

『このままだと、たぶん無理』


 何が無理なのか聞けるほど、俺は勇敢じゃない。 

 改札の向こうへ消える薄青のカーディガンを見送りながら、俺はようやく理解した。 

 たぶん俺は、今日一日で何かを踏み外した。

 ただ、どこで、何を、どれだけ外したのかだけが、わからない。 

 そして月曜の朝、教室で本をめくる氷見坂の手が、一度だけ止まっていた。

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