後悔
一晩ぶっ通しで走り続けて、暗闇の水平線に薄い光が差し込んでくるのが見えた。
通り過ぎた民家の朝鳴き鳥が目を覚ました気配があった。
王都のワイトドールの屋敷では、朝の早いエレーユがなかなか起き出して来ないので部屋を訪ねた使用人が、エレーユがいない事に慌てている頃だろう。
置き手紙は書いて来たが、連れ戻されたくないと思って行く場所を告げなかったから、きっと屋敷の者はエレーユを探しててんやわんやかも知れない。
……公爵令嬢にあるまじき横着な振る舞いだけれど。
しかし、今は自分が公爵令嬢だとか、世間体とか評判とか、そんなことはどうでも良かった。
ただ走って走って走って、一刻も早く目的地に辿り着きたかった。
朝がすっかり始まった頃、エレーユは桟橋に差し掛かっていた。
桟橋の向こうには北部では一番大きな街が見えるが、ここへ来て急に馬のスピードが遅くなってしまった。
「少しスピードが落ちて来たわね」
「ブルル」
夜通し走ってくれた馬の体力がそろそろ限界になって来たようだ。
エレーユは、ちょうど到着した街で馬を乗り替えることにした。
それにしても夜通しエレーユの無茶に付き合ってくれた屋敷の馬には感謝である。
「ありがとうね」と顔を撫でる。どういたしましてと思っているのか、もう懲り懲りだと思っているのかは分からないが、馬は鼻を鳴らして返事をした。
エレーユは街の馬屋を訪ね、乗って来た屋敷の馬を預かってもらった。
金貨を多めに渡し、とびきりの人参と広い寝床を用意してもらうように馬屋の主人に頼んでおいた。
「また後で迎えにくるわね」
「ヒン」
エレーユは屋敷の馬と簡単に別れの挨拶を済ますと、馬屋の表に戻った。
馬屋の表では、貸出、または購入用の馬が並んでいる。
エレーユは馬たちをざっと眺めてから、あまり時間をかけずにそこに居た八つ足の馬を借りることにした。
八つ足の馬は騎士団が軍用に使うものと同じ種類で、持久力もあれば速度も段違いだ。
貸し出しのお値段も四倍と高いけれど、エレーユはポンと料金を支払った。
八つ足の馬を引いて馬屋を出る。
街を横切っている間に見つけた小さな雑貨屋で、馬に乗りながらでも食べられる携帯食を購入し、少し食べて少し懐に入れる。
街を出たら、エレーユはすぐに馬に乗り、腹を蹴って走り出した。
それからほとんど休憩なしで、丸一日走り続けた。
八つ足の馬は、やっぱり四本足の馬より格段に速い。乗っている時の揺れも段違いに少ないし、スタミナもある。
ただ、八つ足の馬を操るのは四本足の馬より難しい。
借りる時も「おいおい、素人に八つ足は乗れねえよ。やめといた方がいいんじゃ無いか」なんて、馬屋の主人に何度も確認された。
しかしエレーユは素性を隠していても公爵令嬢だ。八つ足の馬の乗り方くらい心得ている。
こう見えて運動神経は各種取り揃えているし、なんなら乗馬は得意な方で、六つの時にマスターした。
八つ足の馬を乗りこなし、エレーユは進んだ。
先ほど北の要所に到達したので、砦まではもう一踏ん張りだ。
うまくいけば、あと数時間で目的地に着けるかも知れない。
「寒くなって来たわね」
走る馬の上で、エレーユは首に巻きつけたスカーフを整えた。
まだ午前中なのに、冷たくなってきた風が頬に痛い。
周りを見ると、林の木々が寒冷地特有のものに変わっていた。
そして生き物が生きている音が無くなって、気づけばエレーユの馬が乾いた砂を蹴る音しか聞こえない。
……北へ向かって進むほどに人気がなくなって来たわ。
魔物が迫っている事が、より現実的に感じられるようになって来てエレーユは眉を寄せた。
しかし進み続けるエレーユは、小道から目の前にある村へ入った。
村には一昔前の王国様式の家々が、身を寄せ合うようにして建っている。
この辺りの村は避難命令こそ出ていないものの、このタイミングで訪れる人などほとんどいないようだし、自主的に避難している住民も少なくはないだろう。
がらんとした街は、恐ろしいものが去ってくれるのを震えながら待っているように感じられた。
……次の角から、今にも魔物が出て来そうね。
しかしエレーユは街角も次々と走り抜け、がらんどうの街の大通りを横切った。
自分がどんどん魔物の大群との距離を縮めていると言うのに、今は何も怖いと感じなかった。
我ながら、全く冷静ではない。
だがエレーユは、思わず出て来てしまった自分自身が間違いだとは思わなかった。
……エルフリート様。
ふとエルフリートの顔が思い浮かぶ。勿論、エルフリートなんて名ばかりの婚約者だ。
別に好きなわけでもなんでもない。特別な思い出なんて無いし、ドラマティックな出来事を二人で乗り越えた小説の中の王子とお姫様みたいな間柄でも全くない。
でもエルフリートには、死なないで欲しい。
エレーユが行ったところで奇跡なんて勿論起こらないし、エルフリートが助かるわけでも喜ぶわけでもない。
できる事など何もないからこそ、エレーユは祈るような気持ちで走り続けていた。
エレーユは、王国のはずれの街目前の地点で馬を降りた。
目の前にあるのは、昨日避難命令が出た街だ。この街には、魔物が到達する恐れがある。
エレーユは深呼吸をし、その街の中へ入った。
坂道の多い小さな街で、独特な色彩を持つ小さな住居が建っている。
昔、文化保護の目的で訪れたこともある街だが、今は置き去りにされたように冷たくしんとしている。
命令が出て住人が皆避難し終えたからなのか、それとも最前線が戦力の総動員をしなければならないような状況なのか、警備の騎士すらもいないようだった。
嫌な予感しかしない。
しかし、弱気になってはいけない。この街を越えてもう少し行けば、北の砦に到着する。
少し警戒しながら馬を引いて街中を歩いていると、突然後ろから肩を叩かれた。
「きゃああ!!」
振り返って魔物がいたら、エレーユは一巻の終わりだ。
次の瞬間にはもう、頭から食べられているかもしれない。
しかし実際にエレーユの後ろにいたのは、温厚そうなお婆さんだった。
「お嬢ちゃん、家に忘れ物か何かかい?でも、見かけない顔だねえ」
少し耳が遠いのか、お婆さんはエレーユの悲鳴を間近で聞いても動揺した様子はなかった。
「でも忘れ物よりも、避難しないと駄目だよ。ここは避難命令が出ているからねえ」
「私は忘れ物では無くて……いえ、お婆様こそ、避難命令が出ているのに何故まだ街にいるのですか?」
「私は生まれ故郷と一緒に死にたくてね。ここが無くなっちまうのなら、私は他に行くところもないしねえ」
お婆さんは少しだけ悲しそうな顔をした。
エレーユもつられて悲しくなったが、自分自身を鼓舞する為にも、努めて明るい声を出した。
「でも、避難命令が出ただけで、まだ魔物が到達すると決まった訳じゃないわ。きっと、騎士団が食い止めてくれる筈よ」
「いんや、騎士団が負ける、ここもじきに魔物に滅ぼされるって、皆が言っとったよ」
「嘘でしょう……」
生まれた街で死ぬ事を選んだお婆さんは、全てを受け入れたような顔で首を横に振った。
騎士団が負けた。
ならば重要な任務についていたエルフリートもきっと、もう。
……そんな。
考えたくない。
そんなこと、考えたくない。
「お嬢ちゃん、若いんだからお嬢ちゃんは避難しなさい」
「……でも」
お婆さんが骨ばった手で、エレーユの腕を掴んで立たせようとする。
エレーユは知らないうちにその場に座り込んでいたようだった。
「私の息子はね、騎士だった。とっても優しい良い子でねえ。でも、魔物に殺されて死んじまったんだ。魔物は恐ろしい。だから、お嬢ちゃんは逃げなさい。国を守った私の息子のような立派な騎士の働きを無駄にしちゃあいけないよ」
「……でも私、行かないと」
「どこへだい?」
「私の、婚約者のところ……」
「騎士なのかい?なら尚更行ってはいけないよ。騎士が命を賭けるのはお嬢ちゃんのような大切なものを守る為だからねえ。……お嬢ちゃん?泣いているのかい」
堪える為の猶予も貰えないまま、突然エレーユの目から涙が溢れてきた。
感情を乗せてポロポロと流れる涙は久々すぎて、心配してくれるお婆さんの呼びかけにも声が出ない。
エルフリートが、死んでしまった。
口下手なのに頑張って、エレーユに守ると言ってくれたエルフリートが。エレーユなんかのために、命を賭けたばっかりに。
……私、エルフリート様に、何もしてあげられなかった。
仮にも婚約者だったのに。
もっと好かれる努力だって出来たかもしれないのに。
こんな事になると知っていたなら、もう少し強引にでも、いろいろ話しておけばよかった。もっと色々知る努力をしていれば良かった。
どうにかして好きな物を聞き出して、それをプレゼントすれば良かった。そうすれば小さな笑顔くらいは見ることができたかもしれないのに。食べる時の表情をもっとよく観察していたら、味の好みだってわかったかもしれないのに。
いつ婚約破棄をしてやろう、なんてことばかり考えていた自分が愚かで滑稽で、疎ましい。
「お嬢ちゃん、大丈夫、大丈夫だから……」
「うっ、ひっく、うう、うわーん!!」
エレーユは声を上げてわんわん泣いた。
幸い、ここにはお婆さんしかいない。
公爵令嬢が泣きじゃくるなんてはしたないと咎める人も、噂を立てて非難してくる人もいない。




