11. 悪夢「姉妹とナイフ」
「王子の命を受け、この靴に足の合うお嬢様を探しています。その方を花嫁にするということで、この家のお嬢様方にもぜひご協力をお願いしたい」
役人はそう言って右足のガラスの靴を母親に差し出した。母親は慈悲をたたえた笑みで、役人にねぎらいの言葉をかける。
「まあ、お城からは長い道のりだったでしょう。娘たちが靴を履く間、エールでもいかがですか?」
「それはありがたい。連日家々を尋ねているのですが、一向に見つからないのですよ。本日も明け方から捜索していて、喉が渇いておりました」
母親が台所へと彼を案内する間、姉たちは唇を噛んでガラスの靴を見下ろしていた。椅子の上に置かれたガラスの靴、それが自分の右足にそぐわないことを理解しているようだった。
目の前で起こる出来事を認識し、千花は自分がまた『シンデレラ』の夢の中へ落ちてしまったのだと気づく。しかし今回は千花が千花として、部外者の第三者としてこの場に立っている。
……体が動かない。それに私の姿が見えてないの?
何もできず干渉もされない。傷つけられないことに安堵しながらも、母親や姉たちの観察を強いられる現状に意味を見出せずにいた。
シンデレラは二階に追いやられているのだろうか、姿が見えない。視線を動かしてみると、馴染みのない中世ヨーロッパ建築の内装が目に映る。
漆喰壁は白く、床は石のタイル。アーチ状の窓にはドレープ感の美しいカーテンが半分ほどかかっている。台所のシェルフには飾り皿が並べて立てかけられ、その隣には洋白銀製のカトラリーが吊るされている。仕切り壁はほとんどなく、広い大きな一部屋の造りになっている。
ダイニングテーブルをはさんで談笑していた母親は、役人に断りを入れて娘たちに近づいた。台所は階段に面した壁に囲われ、役人から彼女たちの姿は見えない。役人は椅子にもたれかかり、連日の疲れをエールとともに飲み込んでいた。
「あなた達、足は入ったのかしら?」
「あの方の死角で試してみましたけれど……」
「そう……なら、仕方ないわ」
ため息をこぼしながら、母親は右手を差し出した。娘たちに力を貸す、そんな優しい所作を錯覚し、千花はハッと息をのむ。そこに握られていたのは、鋭く光るナイフだった。
「切り落としておしまい。妃となれば足は不要よ」
聞き間違いだと、何かの間違いだと縋るように二人は母親の顔を見つめる。後ろ姿しか見えない千花にも、彼女の冷徹な一言が残酷な本心に違いないと直感した。姉たちの表情が丸めた紙くずのように歪んでいる。それでも握った拳を持ち上げようとしているのは、拒絶するためではない。葛藤しているのだ。
……どうしてかけがえのない自分を天秤にかけられるの?自分を犠牲にして得られる幸福なんて不幸に決まっているのに!
千花は母親と姉たちの間に入って、そう叫びたかった。自分の娘になんてこと言うのって睨みつけてやりたかった。しかし無慈悲にも、千花の体は動かない。無機質なオブジェのようにただそこにあるだけだ。
長女が震える両手でナイフを受け取った。痛みにさえ我慢すれば、王子様の妃となり生涯の幸せを約束される。ナイフの先端を眺め、母親の命令は正しい、私の選択は私のためになるのだと言い聞かせて、呼吸を荒くする。
強情で欲深い姉の罵倒を千花は知っている。自分を曲げずに膨大な願いを通そうとする姿がそこにある。頭に残るあの女の声を、もう二度と聞きたくない。けれど、苦痛に染まるあの女の叫びも、絶対に聞きたくなかった。
何もできないのか。千花はふと、あの暗闇を照らしてくれた優しい光を思い出した。黄色に発光する幻の雛鳥を。
……そうだ、あの光なら私に道を指し示してくれるかもしれない。
動けない千花には足の切断を阻止する術がない。この間にも彼女は徐々に腕を動かし、ナイフを自分のつま先へと近づけている。
ぎゅっと目を閉じ、神に祈るように千花は光を待った。心臓の音がうるさい。目の前で足が切り落とされるまでにあと何秒の猶予があるのか。目を開けて確認するのが怖かった。その音が、その悲鳴が耳に届くのが怖かった。
未来に恐怖し、過呼吸になったとき、千花は瞼の裏にあの雛鳥の光を見た。相変わらず少し遠くに見えるけれど、変わらない温かさに緊張がほぐれていく。
……まだ間に合う。力を貸して!
味方に背中を押され、千花は勇気をもって目を見開いた。
「ねえ早く、足を切り落として」
陽だまりのような女の声がなだめるように囁く。羽ばたいた光は、長女の肩の上をゆらゆらと舞う。責め立てて責め立てて、彼女を壊していく。
「どうして……どうしてそっちにいるの」
「切り落として」
「やめて」
「切り落として」
「やめてってば!」
封じ込めたい光景に千花は全身の力を喪失する。その瞬間、これまで微動だにしなかった体は音を立てて地面に崩れた。両手を床につき、絶え間なく溢れる空気を嗚咽とともに吐き出す。呪縛から解放されても、心が鎖で締め付けられているように痛かった。
呼吸音の奥で女の声にならない叫びを千花は聞いた。反射的に顔を上げると、ぼやけた視線の先で女がナイフを振り上げた。目は充血し、狂気の笑みを浮かべている。催促される行為と幸福に心のセーフティーが破壊されたのだ。足を切断することにもう躊躇などなかった。
鮮血が飛び散り、整った指が繋がりをなくして転がる。そんな幻覚が一瞬で脳内をめぐる。光は執拗に聞きたくない言葉を並べ、周りの誰もその行為を止めようとする者はいない。
ナイフは一直線につま先へと振り下ろされた。間に合わない。届かないことは明白なのに、千花の体は考える前に飛び出していた。
憎い相手のはずだった。シンデレラをいじめる救いようのない人だと。けれど、因果応報だろうと千花には見放すことができなかった。痛みで釣り合いを取ることが正解だとは思えなかった。
「傷つかないで!」
女めがけて飛び込み、右手を伸ばす。右手が彼女の体を突き飛ばす直前、目の前を血液が躍った。




