聖女が逃げた先
結論から言えば、ルルカは帰らなかった。
朝になってから、周囲を見回ったスレヴィが場所を割り出してくれた。ニカノルのはずれにある海辺だ。ちょうど沿岸の先端にあるため、周囲からは見つかりにくい。近くに港町があるようで、そこから船が出ているのがわかった。
転移がなくとも逃げるには最適な場所、ということだ。
港町にきた早馬の知らせも得られた――ニカノル全域から瘴気が噴き出て、出入り禁止になったという話だ。中心の街は瘴気が濃すぎて、視認もできない状態らしい。
すでに聖女プリメラが元凶の妖魔を捕らえているにもかかわらず、瘴気はどんどん広がっているようで、街から大勢の人間が逃げてきていた。避難指示が出ているようだが、最低限しか浄化されていないらしい。「聖女プリメラは元凶の妖魔をなぜか殺さず鎖につないでいる」「聖殿に妖魔を引き渡すまで、街を浄化せずにしておくつもりらしい」と噂が回り、聖女プリメラが何を考えているのかと皆が戦々恐々としている。批判にならないのは、ベルニア聖爵家から見捨てられかねないからだ。
しかしそれも時間の問題のように思えた。港町にも瘴気が漂ってきているらしい。被害が広がるのを放置しては、他聖爵家からの批判はまぬがれないだろう。
「生きてるみたいですねえ、我らが宵闇の君は。案外しぶとい」
朝食の給仕をすませたスレヴィがのんびりと言う。食事の前の祈りをささげていたマリアンヌが、ぎろりとスレヴィをにらんだ。
「生きているに決まっているでしょう。課題の配点が、まだ一点も動いていません」
「それにしても、殺さず聖殿に引き渡しとは。はてさて、なんのつもりでしょう。まさか心臓については聖女は何も知らない、とかですかねえ」
食堂でいつもの席――空席の正面の席に座っているシルヴィアは、黙ってちぎったパンを口に運んだ。
いつもと変わらないのに、味がしない、気がする。アークが悲痛な顔でつぶやいた。
「これから、どうすればいいんでしょう」
「どうもこうも。できることなどありませんよ。聖女だろうが妖魔だろうが心臓だろうが、ルルカ様が手に負えなかった相手に私は関わりたくありません」
はっきり断言したスレヴィは、皆の注視を受けても顔色ひとつ変えない。
「皆様も、逃げるべきですよ。資金は適当に屋敷にあるものを持ち出せばよろしい」
「……顔色ひとつ変えずに、よくもそんな提案を」
マリアンヌににらまれても、スレヴィは鼻で笑った。
「ご不満なら、誓約を破棄していただきたいですね」
「……。ちなみに、あなたはどうされるおつもりですか」
「私はルルカ様の従魔ですので、残念ながらルルカ様が死ぬまで待つしかない」
「言葉には気をつけなさい!」
テーブルを叩いたマリアンヌに、おやとスレヴィが笑う。
「親切で今後の方針を示したつもりですが? ルルカ様が死ねばこの屋敷も消えます。それまでにおのおの、今後の身の振り方を決めるほうが建設的です」
「……で、でも、戻って、くるかもしれないし……ルルカ様……」
ロゼがおずおずと進言し、アークもそれに頷いた。
「僕もしばらく待ってみます。ちゃんと状況がわからないと……シルヴィア様?」
立ちあがったシルヴィアに、皆が注視する。
できるだけ静かにシルヴィアは言った。
「私は出て行きます」
皆が瞬く中で、スレヴィだけが皮肉っぽく笑う。
「では支度を手伝いましょうか、姫様。――それとももう姫様とは呼ばないほうが?」
「はい。私はもう、妖魔皇の娘でもなんでもないので」
「お、おねえさま」
「ついてこないでください」
冷たく言い捨てると、腰を浮かせたロゼがびくりと止まった。
「私の仕事は終わりました。もう、妖魔も聖女も皇帝選も、たくさんです」
困った顔のロゼの服の裾を、隣のアークが引っ張って、座らせる。
「今後は身を隠してやりすごします」
「……私はともかく、皇帝選で一位のあなたを、ご実家のベルニア聖爵家はもちろん、他の聖爵家だって見逃しませんわよ」
「お父様が死ねば失格です。元々、私は聖女失格でした。未練はありません」
マリアンヌが眉をよせて黙る。椅子から立ち上がり、シルヴィアは踵を返した。
「皆様、お元気で。お世話になりました」
ロゼが引き止めようとする気配がしたが、無視してシルヴィアはそのまま食堂を出て行き、昨夜のうちに用意しておいた鞄を手に取った。
外套を羽織って、鞄を背負う。何か持ち出さなくても、この間街で買い物をした残りのお金で当面は十分だ。
(逃げるなら今しかない)
そう、今が好機なのだ。足早に屋敷を出て、真っ白な砂浜を歩いた。
港町は意外と近くにあった。崖を跳び越えたあげく、木々を足場に飛んで林を跳び越えたからかもしれないが――すぐに人混みに紛れることはできた。瘴気がくる前に海を越えたほうが安全ではないかと港に詰めかけている人間も多く、臨時の船の案内が出ている。
人が増えたせいで少々値上がりしているが、食べ物と水を買っておいた。
何からしようか、と思案する。
(女騎士とか、できるかも)
何せ、中級妖魔くらいは倒せるよう育ててもらったのだ。
(山ごもりもいいかも。鹿やイノシシを飼って……チーズの作り方、ロゼに教えてもらえばよかった。他にも、神殿に保護してもらうとか……どんな生活になるのか、マリアンヌ様から情報収集しておけばよかった)
いつの間にか、色んな道が選べるようになっている。
だから自分が向かう先は、自分の選択だ。
港町の門を抜けて街道を進むと、遠くに霧のように漂う瘴気が見えた。立ち入り禁止の看板が掲げられているが、見張りはいない。瘴気の中に突っこんでいく馬鹿など想定していないからだろう。
おかげでここからは人目につかずにすみそうだ。色々おさまるまで、この周辺で身を隠すのもありかもしれない――そう、思った。シルヴィアは瘴気の中でも平気だし。
立ち止まるならここだ。
けれど、瘴気の中からうっすら黒い影がひとつ、現れる。シルヴィアは静かに尋ねた。
「無事でよかった。お父様に逃がしてもらった?」
グルゥ、とよく背中で聞いたうなり声が答えた。地響きと一緒に、目の前までやってくるのは毎度おなじみ、妖魔熊だ。
「妖魔皇の娘って、まだ有効ですか」
全身から魔力を立ちのぼらせ、目を光らせている妖魔熊は、くるりと背中を向けて四つん這いになった。
背中に乗れ、ということらしい。
どこへ向かうのか、聞かなくてもわかるようだ。
「お願いします」
背中に乗ったシルヴィアに答えるように妖魔熊が咆哮し、駆け出した。まっすぐに、瘴気の中心へ――街へと。




