妖魔皇の姫君の『普通』教育
熱もすっかりさがったシルヴィアを待っていたのは、教鞭を持ったスレヴィである。
縦に積み重なった本を、シルヴィアは無言で見つめた。
大昔に基礎は学んだ。だが、長く勉強というものから離れていたせいで、とにかく自信がない。だが開いてみた教本は、覚悟していたほど難解ではなかった。
「読み書き、計算の基礎からすべてやり直してもらいます。姫様の環境を鑑みるに、ベルニア聖爵家の教育などまったくあてにならない。すべて忘れてください」
「は、はい。……妖魔の読み書きと計算、人間と同じなんですね」
「よいところに気づきました。なぜかわかりますか?」
スレヴィはぴしゃりと鞭を手の中で慣らす。やや身を引きながら、シルヴィアは考えてみた。
「……人間をだませるから?」
「そうです。我らの姫様は大変賢い」
褒められていい発想なのだろうか。だがスレヴィの目は真剣だった。
「読み書きや計算を筆頭に、知識のない人間は簡単にだませるんです。わかりますね」
銀貨のことを思い出して、シルヴィアは頷く。
「よろしい。ちなみに、他に学びたいことはありますか?」
「……護身術に、興味があります」
いずれひとりで生きていくのだ。多少でも心得があったほうがいい。
スレヴィは椅子に座るシルヴィアを見おろして、考えこんだ。
「そうですね。自分の身は自分で守れたほうがよい。ルルカ様に頼んでおきます」
「えっ」
「私は頭脳派ですので」
すまし顔のスレヴィに、シルヴィアはそうですかと頷き返すしかない。
簡単な読み書きと計算ができるようになるまで、半月とかからなかった。呑み込みがいいとスレヴィがほめてくれたが、スレヴィの教え方がいいとシルヴィアは思う。
きっちり食事と睡眠がとれる健康な生活に体が慣れてきた頃には、午前中に勉強をすませ、午後からルルカと外の中庭に出ることになった。
「……宜しくお願い致します」
武術の稽古は初めてなので、緊張した面持ちで訓練用の木の剣を持つ。なかなか重くて両手で抱えようとしていると、ふっと木剣が浮いた。ついっと横に滑らせたルルカの指の動きと一緒に勝手に動き、地面に刺さる。
「必要ない」
「ですが、武器を使えたほうが」
「妖魔でもそうだが、女性はよほど恵まれない限り、筋力や体力で男性に劣る」
近づいてきたルルカが、シルヴィアの前に立った。
「そのかわり、女性は高い魔力を持つことが多い。聖眼を持つのは女性だからだろう。だからまず魔力を鍛える方向でいく」
「でも、私は魔力がありません」
しゃがんだルルカが、シルヴィアの額にかかった前髪を手のひらで持ち上げる。綺麗に伸ばし直すために、スレヴィが綺麗に切りそろえてくれた。
「聖眼は使えただろう。お前は魔力がないんじゃない。魔力を作れない体質なんだ」
「……結局ないのと同じでは?」
「一見そうだ。だが、自分で魔力を生成できない人間の中には稀に、瘴気を魔力に変換できる人間がいる。お前はそれだ」
ぱちりとシルヴィアはまばたく。その頭に、ルルカが手を置いた。
途端に、なんだか体が温かくなった。風も吹いていないのに、ふわっと髪の毛が浮き上がる。両手を見ると、何か淡い光が見えた――魔力だ。
「――これ……私、ですか」
「ああ。俺も多少なら瘴気をまとっている。だから手を置いただけでこれだ」
両手をにぎったりひらいたりしながら、シルヴィアは呆然とする。
(どうやってもなかった魔力が、こんな簡単に)
感動よりも困惑のほうが大きい。ルルカが頭から手を放しても、淡い光はそのままだ。
「妖魔の天敵だ。人間に取り憑かず肉体を持たない妖魔は、瘴気の塊だからな。お前のような体質の人間の近くにいくと、魔力に変換されてしまう」
「……ならなぜ、私の魔力は測定されなかったんですか」
「お前の妹の噂は俺も聞いている。浄化も何でもお手の物な天才だとか。しかも生まれはベルニア聖爵家。ずっとお前は、瘴気にも妖魔にも無縁の環境にいたんじゃないのか」
確かに、シルヴィアはベルニア聖爵邸の敷地内から出たことがない。瘴気や妖魔を見たのも、ルルカと出会ったあのときが初めてである。
「魔力の元になる妖魔や瘴気と接触できずに育った。お前の魔力が測定できなかったのは、そのせいだ」
思いもよらない回答に、シルヴィアはただぽかんとするしかない。
「ベルニア聖爵家にもう少し冷静さがあれば、気づけたはずだ。妹のほうがわかりやすい才能だから、目が曇ったんだろう。妖魔からすれば、妹よりお前のほうがよほど恐ろしいんだが」
今ひとつ実感がわかない。自分の体が光っているのも、ルルカの仕業じゃないかと思ってしまう。
「納得できないか」
「……努力してもだめで、諦めたので」
「それは努力する方向と環境が正しくなかったからだ」
断言におずおず顔をあげると、正面のルルカと目があった。真面目な顔をしている。
「これからも当然、努力は必要だ。瘴気を際限なく魔力に変換できるわけじゃない。魔力の限界量もあるし、それをこえて瘴気を浴びれば他の人間と同じように倒れる。変換した魔力をきちんとためておく術も覚えないといけない。今も垂れ流しっぱなしだから」
「あ」
淡い魔力の光が唐突に消えた。すっとルルカが立って、シルヴィアから一歩、離れた。
「たとえば俺は、お前に魔力を吸われないよう制御できる。中級妖魔でもその程度できるだろう。それに、瘴気は地上で限られている。効率よく魔力に変換し、貯め、配分し、無駄なく的確に使う――覚えることは山積みだ」
聞いているだけで難しい。今からできるだろうか。でも、もしできたら――生きやすくなるだろう。少しくらい。
正しい努力と環境。胸に刻んで、さきほどまで光っていた手を握りしめる。
「お前は才能がある。だからちゃんと使い方を覚えなさい」
何より妖魔皇が保証するのだ。自然と背筋が伸びた。
「頑張ります。……普通に、生きられるように」
まっすぐ立ったシルヴィアに、ルルカが優しく頷き返す。
「そうだな。素手で熊が倒せれば、普通に暮らすこともたやすいだろう」
「はい。熊を素手で倒せれば確かに……普通………………?」
「ということで」
ルルカがすっと横に身を引いた。ルルカの背後にずっと立っていたらしい、黒い巨体にぎょっとする。
「お前の家庭教師として魔界からお越し頂いた、妖魔の熊さんだ」
「か、家庭教師……ですか。妖魔の、熊さんが」
「今から、鬼ごっこをしてもらう。わかるか?」
ぶるぶるぶると首を横に振ると、ルルカが無表情で続けた。
「簡単だ。最初に三十数えるので、その間お前はどこか遠くに逃げるなり、隠れるなりすればいい。そのあと、この熊さんがお前をさがし、追いかけて捕まえる」
「お、追いかけられるんですか、私が」
「そうだ。魔力の気配を消せば見つからない。あるいは、聖眼を使って未来を読み、出し抜くかだ。この屋敷自体が瘴気を帯びているから、お前は問題なく魔力は使える」
そう言ってルルカが懐中時計を懐から出した。
「制限時間は十分にしよう。その間、逃げ切ればお前の勝ち。捕まればお前の負けだ」
「あ、あの。相手はお父様ではだめなんですか!?」
焦ってついそう尋ねると、ルルカが驚いたような顔をした。
「なんだ、お父様がいいのか。意外と甘えただな、俺の姫は」
「違います! ただ怖いんです!」
「感情が出てきたな、いい傾向だ。だが、心配しなくていい。その妖魔は熊の死体に取り憑いている。動きはそんなに速くない」
ルルカの斜め後ろにいる妖魔熊が、肯定するようにかくんと横に頭を倒した。そのままゆらゆらとゆれている。ひっと喉が鳴った。
「まずは魔力が使えるということを体で覚えなさい」
「で、でも……こ、これって普通の訓練ですか。本当に?」
「普通だ」
真顔で言い切られたが、信じられない。というかこの妖魔が信じられたことがあっただろうか、今まで。
「あの、やっぱりおかしいような――」
「ではよーい、はじめ」
何の心の準備もできないままルルカが宣言する。
その瞬間、かっと瞳孔が開ききった妖魔熊が咆哮した。
「グオアアァァァァァ」
「ぎゃーーーーー!」
ここ数年で一番の悲鳴をあげて、シルヴィアは駆け出す。いーち、にー、と数字を数える優しい父親の声が聞こえた。
(あ、あれが最初の訓練相手とか、おかしい絶対!)
あの妖魔熊、絶対に安全だと思えない。
だがもう始まってしまったのだ。もたもたしていたら、最初の猶予である三十秒などすぐになくなってしまう。
(遠くまで逃げて隠れる!? それよりもまず……!)
屋敷の壁に身を隠したシルヴィアは深呼吸して一度目を閉じる。
大丈夫、使える。今の自分は前の自分とは違う。ちゃんと教えてもらった。
魔力が使えることを、まず信じるのだ。
だから両目を、答えを視るために開いた。
視るべきはあの妖魔熊がどう動くかだ。できればそう、動き出すであろう頃――いや方角がはっきりしそうな、もっと先の光景。
だが一瞬見えた光景では、妖魔熊はゆらゆらゆれてルルカのうしろにまだいた。
「え?」
シルヴィアはまばたいてみた。視線を落とせば、靴先と地面が見える。だから熊が視えたということは、聖眼が使えた証だ。
だが願った時点のものが視えなかった。使い慣れていないからだろうか。もう一度と、改めて精神を集中して、目を開く。
ルルカの背後で、妖魔熊が咆哮して走り出すのが見えた。
「違う、もっと先――っ」
「ガアアァァァァァァ!」
数秒遅れて、咆哮が聞こえた。ぎょっとしたシルヴィアは、とにかくその場から離れようと駆け出しながら考える。
(ひょっとして、数秒後の未来しか視えない?)
もう一度やってみよう。走りながら、意識を集中してみる。視えたのは、自分の背後。
ものすごい勢いで角をまがって走ってくる妖魔熊の姿だ。
「フゴアアアァァ!!」
角を曲がる寸前に背後で聞こえた声に、シルヴィアは悲鳴をあげて逃げる。こうなるともう足を使うしかできない。
がくがくゆれながら不自然な動きの四つん這いで追いかけてくる不気味な何かに、涙目になりながら必死で駆ける。
だが決死の逃亡は、ほんの数秒しか許されなかった。
あり得ない跳躍力でシルヴィアの頭上を飛び越えた妖魔熊が、前方をふさいだ。
逆さまになった頭が、ぐるんとこちらを向く。喉が凍り付いたように震えて、悲鳴さえ出なくなった。
まして、飛びかかられ、がっしり両腕で抱きしめられ、どう考えても首が折れた角度で鼻先を近づけられたときの恐怖といったら。
「聖眼を使っているのが丸わかりだったぞ。もっと気配を殺さないと」
妖魔熊に抱えられたまま帰ってきたシルヴィアは、死んだ目でルルカを見あげる。
「本物の熊より動きが速い気が……」
「それはそうだ。本物の熊を素手で倒すためには、本物の熊より強い熊を倒さなければならないだろう」
無茶苦茶な理屈に、反論する気力もなくなった。
「だが冷静に聖眼を使ったあたり、筋はいい。大丈夫だ。すぐに本物の熊を平手で張り倒せるようになる」
「……普通の人間は平手で熊を張り倒せないのでは……」
「安心しなさい。妖魔熊を倒せればベルニア聖爵家など敵ではない」
それはそうかもしれないが。
(実はどんどん平凡から遠ざかってるのでは……?)
どうか間違った未来に進んでいませんように。
聖眼を持つ聖女になっても、未来を願うしかないときはある。




