22話 破水
4月8日。
自分の匂いが染みついた部屋でいつも通りに目が覚める。
木製の窓を開け放ち、外の空気を堪能する。
涼しすぎず、ほんのり暖かい。ここのそんな春が好きだ。
「今日も一日頑張りますかな。」
自室の扉を開け、廊下を通ってリビングへ。そのままキッチンの水瓶へ向かう。
もはや目を瞑っていても問題ないほど慣れたルートだ。
いっそのこと、目を瞑って歩いてみるかな。
そんな何の益も無いクソアイデアも、寝起きの頭だと採用してしまう。
「あいたっ。」
案の定、額を壁に激突する。
何故だ、、ルート取りは完璧だったはずだ。
「あら、すいませんね。坊ちゃん、大丈夫ですか?」
落ち着いた声の主が俺の心配をする。
声が聞こえると同時に、インパクトを食らった頭が冷静になり、状況を把握しだす。
扉だ。こちら側に向かって開いてきた扉に激突したのだ。
その扉の裏から、扉を動かした主が顔を出す。
「怪我は無い?本当にすいませんね。」
気品あふれる黒髪の婦人。婦人というには若い気もするが、その落ち着き用からは、刻まれた年月の深さを感じずにはいられない。こんな朝方なのに、もう仕事用の服装に着替えてコルセットまでしっかり締めている。真面目な気質も見て取れる。
彼女はフキルクさん。大体一か月前から家に滞在しているお手伝いさんだ。
最近は、彼女に世界の常識などを授業してもらっているので、俺にとっては先生でもある。
彼女が滞在しているのがこの部屋で、この部屋の扉が開くと、ちょうど俺のいつもの進路を封鎖する形になるのだ。
「いえいえ、、俺がしっかり前を向いていなかっただけですので、、」
それだけ言って俺は足早にキッチンに去る。
冷静になると、意味もなく目を瞑っていた自分が恥ずかしくなってきた。
リビングに出ると、暖炉の前で大きなお腹を抱えて座っているセリナが見える。
「あら、おはようユート。」
「おはよう。母さん。」
あいさつを交わしつつ顔を洗う。なるべく節水して。
さっき廊下で追い越したフキルクさんが遅れてキッチンに到着する。
フキルクさんは俺を心配しつつ、手早い動きで朝食を作り出す。
「ふぁあああー。おはよーう。」
ヴェルトも二階から降りてきた。
最近は夜まで何かの仕事をしているからか、最近は朝起きるのも遅い。
前までは、朝は早起きして素振りをしていたのに、、、
「おはようございますご主人様。お食事の用意をいたしますね。」
そう言って、手早く食卓に食事を盛り付けていく。
食卓はみるみる完成されていく。
フキルクさんは料理が上手い。
乾いたパンも水を含ませて火にかけて柔らかくしたり、塩漬けの肉もカリカリベーコンみたいにしてくれる。しかし、卵料理の腕は、セリナの方が上手だ。たしかに、フキルクさんのスクランブルエッグも美味しいが、セリナの日替わり卵料理も恋しくなる。
俺とヴェルトが席に着く。
フキルクさんは暖炉の前の安楽椅子で座っているセリナを向かいに行く。
「大丈夫ですか?奥様。」
「え、えぇ。でも昨日の夜から痛みが強くなってて、」
フキルクさんがセリナの手を握って食卓まで付き添ってくれる。
そうして、セリナも席に着き、食事を四人で始める。それが最近の朝の光景だった。
しかし、この日は違った。
「うくっっ。」
ばしゃっ
セリナが席に着く前に、押し殺すような声を出す。そして、すぐ後に水入りバケツをひっくり返したような水音がリビングに響く。
全員の視線が音の方に向けられる。
セリナの足元に小さな水たまりができている。
破水だ。
ドラマとかで見たことがある。
えっっ、じゃあ赤ちゃんもう生まれるじゃん。
やばいじゃん。
や、やばいやばい。
焦りが言葉に出る前に、先にヴェルトが口を開く。
「おい!大丈夫か!?産まれるのか?もう産まれるんだな!」
ヴェルトが慌てて食卓を抜け出してセリナに駆け寄る。
顔面蒼白。俺も多分そんな顔だ。
しかし、セリナに付き添っていたフキルクさんが手で制する。
「落ち着いてください。まだすぐに産まれると決まったわけではありません。とりあえず落ち着いてください。奥様にいらぬ心配をかけないよう。」
静かに、しかしはっきりと告げる。説得力のある声は、心を落ち着かせる。
ヴェルトも落ち着いたようだ。
「ひとまず、ご主人は私の部屋に彼女を運んでください。お腹に圧力を与えないよう、脇から抱き支えるようにお願いします。」
「あ、あぁ。わかった。」
「坊ちゃんは清潔な布を私の部屋にあるだけ持ってきてください。」
「わかりました。」
フキルクさんの的確な指示に従い、男二人は各々動いていく。
そこからは長かった。
指示が一通り終わった後は二人でひたすらに水を調達した。
川から水を汲み、水を沸かす。
沸かした水で布を洗いつつ、定期的に水桶に入れてセリナのもとに運ぶ。
朝食のことも忘れて一心不乱に動いた。
***
色々と落ち着いた時には、もう日が傾いていた。
俺は満身創痍で、床に転がりながら乾パンに齧り付いていたが、ヴェルトはまだ落ち着かないようだった。
ただ待つ。
それが一番堪えるようで、もう十分だと言われた水を際限なく調達していた。
「ふっっぐぅううっっっ。」
定期的にセリナの痛そうな声が家に響く。
フキルクさんによると、今日中に産まれてくる可能性が高いそうだ。
俺にはどうなっているのか、もうさっぱりわからない。
前世の知識で手助けしたかったが、たかが高2程度の知識がいかに無力なのか痛感する。
保険の授業をもっと詳しくやってくれ、、、、そう思わずにはいられない。
時間は進み、時計の短針が動くたび、部屋からセリナの声が漏れてくる。
俺は気づけば祈っていた。
元は無神論者だったはずなのに。
それでも、祈らずにはいられなかった。
何の神に祈っているかもよくわからない。
無事で生まれてきますように。
ただ手を合わせてそう願っていた。




