【断罪】ゲーム・ノット・オーバー
「君は賢い子だ〜。だから、わかるだろう〜? ゲームには常に『逆転の一手』が用意されているものさ〜」
ヴァルトハイムはスーツの内ポケットから、カード型の通信端末を取り出した。
「ヨハンソン一家は〜、まだ私のチェス盤の上にいる〜……」
カーバンクルの赤い瞳が、わずかに細められた。
「今この瞬間も、私の別動隊がサウス区のネズミの巣を襲撃しているところだよ〜」
ヴァルトハイムは通信端末をひらひらと振って見せる。
「君がここで私を殺せば、彼らの命も消える。簡単なルールだろう〜?」
カーバンクルは静かに一歩近づいた。
「いつ指示したの?」
「君が私の兵士たちと楽しく遊んでいる間にねぇ……」
ヴァルトハイムは心底楽しそうに笑った。
「私は常に、保険を二重、三重にかけておく主義なんだ〜」
「…………」
カーバンクルは動かなかった。
ただ、その赤い瞳でヴァルトハイムの持つ端末と、彼の顔を交互に見つめている。
「さあ、どうする? この私を見逃し、私の軍門に下るか? それとも、依頼人の一家を見殺しにするか〜?」
ヴァルトハイムの笑みが深くなる。
「依頼人の命を守るのが、君の存在意義だろう? 違うかね〜?」
カーバンクルは、ゆっくりと首を横に振った。
「違う。私はただ殺すだけの始末屋。誰かを守るのは私の仕事じゃない」
「そうかね? そういう割にエデンの子どもたちは助けたろう。君は、君が思っているほど非情になりきれてはいない」
「…………」
「図星だろう? なら」
「嘘だね」
「……何だと?」
「あなたは、どこにも部隊を派遣していない」
カーバンクルの赤い瞳が、一瞬だけ強く発光した。
その瞬間。ヴァルトハイムの持つ通信端末が、かすかな電子音を立ててフリーズした。
「な……!?」
ヴァルトハイムは端末に目を落とす。
画面には、彼の通信ログが強制表示されていた。
そして――過去数時間の記録の中に、別動隊への出撃命令など、どこにも存在しなかった。
「ハッキングだと!? いつの間に……!」
ヴァルトハイムは驚愕に目を見開いた。
「あなたが、その端末を取り出した瞬間に」
カーバンクルは冷徹に告げた。
「私の眼は指向性のハッキング機能を持つ。あなたの通信記録をスキャンした。全部、あなたのハッタリ」
「…………」
ヴァルトハイムは機能停止した端末を見つめた。
それから――彼は、堰を切ったように笑い出した。
「ハハハ、アッハハハハ! バレたか〜! いやはや、恐れ入ったよ〜!」
その笑い声には、恐怖よりも純粋な愉快さが滲んでいた。
「いや〜、試す価値はあったと思ったんだがね〜。君のスペックは、私の想定を遥かに超えているらしい」
彼は端末を、まるで使い古したカードのように床に投げ捨てた。
「ゲームオーバー、か。私の負けだね〜」
ヴァルトハイムは芝居がかった仕草で肩をすくめた。
その声には、自分の命が懸かっているとは思えないほどの軽さがあった。
「実にいいゲームだったよ〜。君は最高のプレイヤーだ。完敗を認めよう〜」
カーバンクルは、彼の目の前に立った。
二人の距離はわずか一メートル。
「あなたのような人間を、私は何人も見てきた」
カーバンクルが静かに言った。
「……ほう?」
「この世界をゲームだと思っている。自分だけがプレイヤーの、くだらないゲームだと」
彼女の赤い瞳が、ヴァルトハイムの魂の奥底を覗き込む。
「他人の痛みも、苦しみも、死も、全てはゲームを彩るイベントにすぎない。自分以外の人間は、思考を持たないNPCだと思っている」
「おやおや、私のことをよく理解してくれているじゃないか〜」
ヴァルトハイムは薄気味悪く笑った。
「その通りだよ。この世界は、あまりに退屈で陳腐なクソゲーだ〜。だから、私が面白くしてやるしかないじゃないか」
「…………」
「もし彼らがNPCでないなら、どうしてこうも簡単に支配される? あの家族だってそうだ。弱すぎる。まるで『幸せな家族』のハリボテだよ。NPC以外の何なのかね〜?」
「……けど」
カーバンクルは最後の一歩を踏み込んだ。
「ここはゲームの世界じゃない」
「…………」
「痛みは現実に存在し、苦しみは心を蝕み、死は絶対的な終わりとして存在する」
カーバンクルの声が、絶対零度まで下がった。
「それを、今からあなたの身体に教えてあげる」
「ほお〜、それは楽しみ――」
ヴァルトハイムの言葉は途切れた。
カーバンクルの拳が、音もなく彼の鳩尾にめり込んでいたからだ。
「がはっ……!」
ヴァルトハイムの目が見開かれ、肺から空気が全て絞り出される。
人生で数えるほどしか味わわなかった、純粋な『暴力』の衝撃。
次の瞬間、下から突き上げるようなアッパーカットが彼の顎を打ち砕いた。
鈍い骨の音。
ヴァルトハイムの体が糸の切れた人形のようにぐらりと揺れ、そのまま床に崩れ落ちた。
完全に意識を失っている。
カーバンクルはゴミを見るような目で彼を見下ろした。
「ゲーム・オーバー? ……まだゲームは続く。生きている限り」
彼女は小さく呟くと、気絶したヴァルトハイの襟首を掴み、まるで荷物のように引きずり始めた。
■
水滴が落ちる、規則正しい音が反響していた。
ピッ……ピッ……。
消毒液と錆びた鉄と、そして長年に亘って染みついた微かな血の匂い。
レオン・ヴァルトハイムはゆっくりと意識を取り戻した。
全身を拘束する冷たい金属の感触と、鈍い痛みが体にまとわりつく。
彼は見慣れた場所にいた。
自らが設計し、幾度となく「お遊び」を繰り返してきた、私設ラボの地下にある特別観測室。
防音壁に囲まれ、床には排水溝が走り、壁には用途不明の医療器具や工具が整然と並べられている。
だが、いつもと違うのはその立場だった。
観察者ではなく被験者として、彼は中央に設えられた医療用の拘束椅子に縛り付けられていた。
首、胴、両手首、両足首。
特殊合金製の拘束具は、強化兵ですら抜け出せない特注品だ。
皮肉にも彼自身のこだわりが、彼自身の逃げ道を完全に塞いでいた。
部屋の隅の暗がりに、人影があった。
白いパーカーを着た小柄な子供。カーバンクルがただ静かにこちらを見ていた。
その赤い瞳は、これから始まる手術を待つ外科医のように冷徹で無感情だった。
「やあ、おはよう〜。随分と手荒いおもてなしじゃないか〜」
ヴァルトハイムは努めていつも通りの軽薄な口調で言った。
恐怖を悟られてはならない。
このゲームの主導権を、まだ完全に手放したわけではないのだ。
「ここは私の特別室だよ? まさか、自分がこの椅子に座る日が来るとはね〜。人生とは面白いものだ」
カーバンクルは答えなかった。
ただゆっくりと立ち上がると、壁にかけられた工具の中から、一本の細いプライヤーを手に取った。
それは精密機器の配線を扱うためのもので、先端は鋭く尖っている。
「なんだい〜? 私のサイバネティクスでも分解してくれるのか〜? 残念ながら私は完全なオーガニックでね〜。ヒト本来の性能を愛しているんだよ〜」
カーバンクルは音もなくヴァルトハイムの正面に立った。
その赤い瞳が、彼の指先をじっと見つめる。
「あなたはこれまでに数えきれないほどの人間を、この椅子に座らせてきた」
「ああ、そうだよ。とても楽しかった。彼らの犠牲は、決して無駄ではなかったのさ〜」
ヴァルトハイムは挑発するように笑った。
相手が感情的になれば、そこに隙が生まれる。それが彼の戦い方だった。
「そう」
カーバンクルは短く応じると、ヴァルトハイムの左手を拘束具からわずかに引き出す。
……そしてその指をプライヤーでゆっくりと挟んだ。
「いつまでも他人事なんだね?」
「ああ、他人事だからね。私がどんな目に遭おうと、それはゲームの結果さ。受け入れるしかない」
「……なら、その感覚を『治療』してあげよう」
冷たい金属が、小指の爪の根元に食い込む。
じわり、と圧力がかかり始めた。
「……いいね〜。そういう直接的なやり方、嫌いじゃないよ〜。だが無駄だ、私は痛みには耐性がある。幾重もの精神防壁と、薬物による痛覚制御を施している。君が私から引き出せるものなど、何もない」
ヴァルトハイムは虚勢を張った。
爪の生え際に食い込むプライヤーの先端から伝わる鋭い感触は、確かに不快ではあったが想定の範囲内だった。
カーバンクルは何も言わず、ただ静かに力を込めていく。
ミシミシと爪が軋む音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
次の瞬間。
――バキッ!
小指の爪が根元から剥がれた。
肉と爪が引き裂かれる生々しい感触。
ヴァルトハイムの喉から、押さえ込んだ呻き声が漏れた。
「ぐ……ぅっ……!」
痛い。
だが、耐えられる。
骨が折れる痛みよりはマシだ。彼は自分に言い聞かせた。
「は、はは……やるじゃないか〜。なかなか……いい趣味をしている〜。だがこの程度の痛み、まだ私の許容範囲内だ〜」
彼は顔を引きつらせながらも、まだ笑みを崩さなかった。
カーバンクルは無言のまま、プライヤーを隣の薬指に移動させた。
バキッ。バキッ。バキッ。
爪が剥がれる音が、拷問室に規則正しく響き渡る。
ヴァルトハイムの左手は見るも無惨な血まみれの肉塊と化していたが、彼は歯を食いしばり必死に耐えた。
「ふん……どうだ、満足したか〜? これで君の『治療』とやらは終わりか〜?」
声が震えているのを、自分でも止められない。
カーバンクルは血塗られたプライヤーを床に置くと、今度は別の工具を手に取った。
歯医者が使うような、先端が鉤爪になった金属の棒。デンタル・プローブだ。
彼女はヴァルトハイムの顔に近づき、その口元を見つめた。
「多くの被害者が、歯を食いしばっていた。尊厳を、家族を、自分自身を守るために」
「それが……なんだというんだ〜……」
「あなたの歯は、まだ一本も欠けていないね?」
その言葉に、ヴァルトハイムの全身が総毛立った。
「は……まさか、やる気か? そこまで?」
「…………」
カーバンクルはヴァルトハイムの顎を掴み、無理やり口を開かせた。
そしてプローブの先端を、前歯の裏側に当てる。
神経が集まる歯茎との境目を、ゆっくりと、執拗に擦り始めた。
「待て……待へ! 君は私が憎いのか? そうでないならここまでっ……」
「うるさい」
キィィィィン、という黒板を爪で引っ掻くような甲高い音が、ヴァルトハイムの頭蓋骨の内側で直接鳴り響いた。
全身の鳥肌が立つほどの不快感。
そして、歯の根元から脳天へと突き抜ける、鋭く、耐え難い痛み――!!
薬物制御ではどうにもならない、生物としての根源的な痛みだった。
「ああ……ああああああああああああっ!!!」
もはや悲鳴を抑えることはできなかった。
ヴァルトハイムの余裕は完全に剥がれ落ち、ただの苦痛に悶える人間と化していた。
カーバンクルは無表情のまま、一本、また一本と、彼の歯を弄んでいく。
時折、力を込めて歯を根元から揺さぶる。
グラグラと揺れる歯の感触が、ヴァルトハイムの精神防壁を粉々に砕いていく。
「やめろ! も……もうやめろ! わかった! わ、私の負けだ! もういいだろう!?」
彼は必死に懇願した。
ゲームのプレイヤーとしての威厳など、どこにも残っていなかった。
「ふーん、負けね。それが何?」
「あ……、あ?」
カーバンクルは淡々と告げた。
「これは『治療』だよ。少しは現実感というものが芽生えてきたかな?」
「……っ!!」
「私が思うに……あなたみたいなタイプを治療するには、現実の『痛み』を与えてあげるしかないんじゃないかと思うんだ」
「や……やめろ! 私が悪かった! 認める! だから、もう……!」
ヴァルトハイムは生まれて初めて心から誰かに懇願した。
まったく信じていない「神」とやらにでも縋りたい気分になった。
カーバンクルは、そこで初めて手を止めた。
ヴァルトハイムの涙と涎でぐしゃぐしゃになった顔を、じっと見つめる。
「大丈夫。殺さないよ」
その言葉は、どんな拷問よりも残酷な響きを持っていた。
「な……な、に……?」
「ゲームオーバーになって暗転して終わり。ところが人生はそう簡単に終わってはくれない」
彼女はヴァルトハイムの口からプローブを離し、今度は彼の耳元に顔を寄せた。
「あなたはそう簡単に、ゲームオーバーに辿り着かせはしない。それまでに最大の痛みと苦しみを与えてあげる」
その声は、悪魔の囁きのようだった。
「あなたはそのうち、必死に殺してくれと頼んでくる。だけど殺しはしない」
「き、さま……!?」
「考えうるあらゆる痛みを与えるし、一度や二度死んでも蘇生してあげる。……それでも殺しはしない。気が狂い、失禁し、体の感覚のすべてが痛みに塗りつぶされ……」
「そのときあなたは知ることになる。その痛みだけが、あなたに残された現実なのだと」
ヴァルトハイムの瞳に、初めて純粋な恐怖の色が浮かんだ。
死。すべての終わり、ゲームオーバー。そこに辿り着けない。
終わりのない苦痛。出口のない地獄。
「この世界はゲームじゃない」
カーバンクルは、血の気の引いたヴァルトハイムの耳元で静かに繰り返した。
「痛みは本物。苦しみも本物。絶望も本物。そして――」
彼女は、壁にかけられていた電気メスを手に取った。その先端が、青白い火花を散らす。
「これからあなたが味わう後悔も、本物だけ」
ヴァルトハイムは、迫りくる絶望を前に、もはや声も出せなかった。
彼のゲームはまだ終わっていない。
ただひたすらに苦しむだけの、クソゲーが始まったのだ。
「――あなたはもう、|どこにも存在しない《404 Not Found》」
この手のサイコ相手にはぶっちゃけ殺さずに苦しめ続けるのが一番いい気がしますね




