【依頼人】オフの日
ウエスト区、龍門ゲート。
アジアンタウンの入口。
湿ったアスファルトに反射するネオンと、香辛料の匂いが混じり合っている。
霧雨のような光の粒子を散らしながら、巨大なホログラフィック・ディスプレイが人混みの上空に浮遊していた。
縦10メートル、横20メートルの立体映像。
普段なら意味不明な漢字が躍る清涼飲料水の広告か、合成音声のアイドルが歌う音楽番組が流れている。
だが今は、緊急放送の赤いテロップが明滅していた。
『速報です』
キャスターの顔が画面いっぱいに映し出される。
ディープ・アルゴリズムによって生成されたバーチャル・キャスターだ。
『セントラル区に本社を置く警備会社、Aegis Security社のCEO、レオン・ヴァルトハイム氏が行方不明となっています』
画面が切り替わり、男の顔写真が表示される。精悍な顔つきで、自信に満ちている。
『同氏はセントラル区の自宅タワーを出たまま消息を絶ちました。警備システムの記録では、午後11時27分にリニア・カーを降りた後の足取りが途絶えています……』
キャスターの説明が続く。画面にはリアルタイムの株価チャートが表示された。
赤いラインが、ビルの屋上から飛び降りるように垂直に落下している。
『この報道を受け、Aegis Security社の株価は取引開始直後から暴落。一時、前日比63%安を記録し、サーキットブレーカーが発動しました。同社は先日も、エデンという教団と裏取引を行ったとして――』
群衆の中で人々がざわめいていた。多国籍の言語が飛び交う。
「また失踪かよ、物騒なこった」
「最近多いな、コーポの重役が消えるの」
「裏社会の抗争だろ。チャイニーズ・マフィアかヤクザか?」
「いや、都市伝説の『404号室』だろ。神隠しってやつさ――」
その会話を聞いて、一人の少女がわずかに顔を上げた。
水色のショートヘア。白いパーカー。赤い瞳。
カーバンクルだった。
彼女は人混みの端に立ち、ホログラムディスプレイを見上げていた。
その表情には何の感情も浮かんでいない。ただ、赤い瞳だけがノイズの混じる立体映像を映していた。
「……死体が見つかるのはいつ頃かな」
小さく呟き、彼女は踵を返した。
群衆の波に紛れ込むように、アジアンタウンの奥へと歩いていく。
今日は依頼がない。
つまり、オフの日だ。
ホログラムディスプレイの光が彼女の背中を照らし、すぐに別の広告映像に切り替わった。
レオン・ヴァルトハイムの顔は、けばけばしいネオンの洪水に飲み込まれて消える。
カーバンクルはパーカーのフードを少し深く被り、アジアンタウンの喧騒の中へと踏み入った。
■
アジアンタウン商店街。
それはネオ・アルカディアで最も異質なエリアだ。
セントラル区の無機質な超高層ビル群とも、サウス区の混沌としたスラム街とも違う。
ここは失われた「極東文化」のデジタルアーカイブを元に再構築された巨大なテーマパークだ。
全てが完璧な模造品であり、それ故にどこか歪んでいる。
通りの両側には、赤い提灯型のドローンが無数に浮遊している。
意味不明の漢字、古風なひらがな、ハングル。
幾重にも重なったホログラム看板が明滅し、合成音声の呼び込みが幾つもの言語で洪水のように鳴り響いていた。
「新鮮合成肉餃子! 培養槽直送!」
「本格四川麻婆豆腐、辛さ調整は1から10まで!」
「和風カフェ、抹茶風味ソイラテあります!」
屋台の店主たちが、威勢よく声を張り上げている。
その多くは人間ではなく、旧世代の接客用アンドロイドだった。
道行く人々の服装も多様だった。
ビジネススーツを着たコーポの中間管理職、発光素材のアクティブ・ファッションを纏った若者、観光客らしい家族連れ。
ウエスト区らしい雑多な空気が、ここには凝縮されていた。
カーバンクルはゆっくりと通りを歩いていた。
パーカーのフードを下ろし、水色の髪を風に揺らしながら、珍しそうにあちこちを眺めている。
立ち並ぶ店を一つ一つ見ていく。
骨董品店、茶器専門店、和紙風ナノペーパーを使った雑貨店。
どれも「本物」ではない。
資料映像を参考に出力されたイミテーションだ。
それでも、失われた文化の残滓を感じさせるには十分だった。
「なんか懐かしいかも」
カーバンクルは小さく呟いた。
彼女の記憶の中には、彼女がこの世に生まれる前の風景データもある。
それらはただの記録でしかなかったが、こうしてノスタルジーを感じる程度には彼女の中に馴染んでいた。
通りの先に、湯気を上げる屋台が見えた。
「龍鳳拉麺」という看板。店主は、この区画では珍しい生身の人間だった。
刻まれた皺と油に汚れた指先が、アンドロイドにはない時の流れを物語っている。
「いらっしゃい! お嬢ちゃん、一杯どうだい?」
「…………」
カーバンクルは少し迷ったが、頷いた。
屋台の前に立つと、店主は手際よく麺を茹で始めた。
「何がいい? 醤油、味噌、豚骨、それとも――」
「……醤油」
「あいよ!」
数分後、湯気を立てる丼が目の前に置かれた。
透き通ったスープ、細い縮れ麺、合成チャーシュー、メンマ、ネギ。
シンプルだが、どこか懐かしさを感じさせる一杯だった。
カーバンクルは箸を手に取り、麺をすすった。
「……おいしい」
小さな声で呟く。表情はほとんど変わらないが、わずかに目が細められた。
それは彼女なりの満足の表現だった。
「そうかい! 嬉しいこと言ってくれるね」
店主は笑いながら、次の客の注文を取り始めた。
カーバンクルは黙々とラーメンを食べ続ける。
スープの温かさが、喉を通って胃に届く。
それは単なる栄養補給以上の何かだった。久しく感じていなかった穏やかな時間だ。
丼を空にすると、カーバンクルはペイチップで支払いを済ませた。
店主が「また来てね!」と声をかけたが、彼女は小さく頷いただけで立ち去った。
■
アジアンタウンの散策は続く。
次に立ち寄ったのは、「章魚焼」と大きく書かれた屋台だった。
鉄板の上で丸く焼かれた生地を、調理用アンドロイドがミリ秒単位の正確さでひっくり返している。
「たこ焼き、いかがですか! 本場大阪の味をデータ通りに再現!」
その合成音声は、データベースにある「大阪弁」のイントネーションを不完全にトレースしていた。
カーバンクルは少し考えてから、一舟を注文した。
熱々のたこ焼きに、ソースとマヨネーズ、青のり、鰹節がかけられる。
湯気と共に立ち上る香ばしい匂い。
カーバンクルは一つを爪楊枝で刺し、慎重に口に運んだ。
「あつっ……」
思わず声が漏れる。熱さに驚いたのか、少し目を見開いた。
それから、ゆっくりと噛む。外はカリッと、中はトロッとした食感。
表情は相変わらず無表情に近いが、二つ目、三つ目と食べる速度が上がっていく。
明らかに気に入ったようだった。
(……おいしかった。熱いけど)
たこ焼きを食べ終えると、次は和菓子の店に向かった。
「月兎堂」という名前の小さな店。
ガラスケースの中には、色とりどりの団子や餅が並んでいた。
「いらっしゃいませ」
店員は若い女性のアンドロイド。
データアーカイブから再現されたキモノを纏っている。その所作は、古の茶道のデータを基にプログラムされているらしかった。
「三色団子と……それから、この白いのは?」
「こちらは大福餅です。中に餡子が入っております」
「じゃあ、それも」
カーバンクルは両方を購入し、店の前のベンチに座った。
団子を一つ齧る。餅の食感と、ほんのりとした甘味。
次に大福を食べる。柔らかい餅の中から、甘い餡子が溢れ出た。
「…………」
カーバンクルは無言で空を見上げた。
ドームの天井に映し出された人工の青空。
白い雲が、プログラム通りにゆっくりと流れている。
――こんな穏やかな時間が、自分に許されているのだろうか。
ふと、そんな思いが頭をよぎった。
団子を食べる手が一瞬止まる。
しかし、すぐに首を振る。
今は考えない。今日は、オフの日だ。
残りの団子を食べ終えると、カーバンクルは立ち上がる。目的地はもう決めていた。
ホテル「龍宮殿」。
アジアンタウンで有名な、竜や鳳凰のけばけばしいホログラムが舞う高級ホテルだ。
今夜はそこに泊まろう。
たまには、少しいいホテルにも泊まらなければ。
カーバンクルは再び歩き始めた。
通りを行き交う人々の間を、小さな影のようにすり抜けていく。
■
ホテル「龍宮殿」。
五階建てのその建物は、失われた時代の日本建築を模した奇怪な外観をしていた。
太陽光吸収パネルを兼ねた漆黒の瓦屋根。
自己修復機能を持つナノコンポジットの純白の壁。
そして、けばけばしい朱色に塗られた支柱。
エントランスには巨大な石造りの狛犬が二体鎮座し、その眼窩に埋め込まれた監視カメラが赤い光点を明滅させていた。
入口の自動障子が開くと、内部はさらに倒錯的な豪華さに満ちていた。
床は衝撃吸収ジェル内蔵の畳モジュールで覆われ、壁一面にはインタラクティブ・ホログラムが投影されている。
人が近づくと、水墨画風の風景から桜の花びらが舞い散る仕掛けだ。
天井からは和紙の質感を再現した有機ELシートが吊り下げられ、計算され尽くした柔らかな光を投げかけている。
ロビーの中央には、巨大な盆栽が飾られていた。
もちろん本物の松ではない。
ナノマシンによって成長と形状が完璧に制御された、永遠に枯れることのない芸術品だ。
カーバンクルはゆっくりとロビーに入った。
水色の髪と白いパーカーという出で立ちはこの空間とは不釣り合いだったが、彼女は気にも留めていない。
フロントに向かおうとしたその時、ロビーの奥から甲高い声が聞こえてきた。
「だから言ったでしょう、お母様! 車椅子用のリフトはあちらですと!」
苛立ちを隠さない女性の声。
カーバンクルは足を止め、声のする方を見た。
ロビーの奥、荷物用オートポーターの待機エリア近くに、四人の人影があった。
中心にいるのは、旧式の車椅子に座った老婆だった。
白髪を丁寧に結い上げ、古風な和装ドレスを着ている。
背筋は曲がり、震える両手は膝の上で固く組まれていた。
「ごめんなさい、ソフィア。私がまた間違えてしまって……」
老婆の声は細く、弱々しかった。
彼女を囲むように立つ三人の家族のオーラは、冷え切っていた。
まず、40代半ばの男性。
セントラル区のコーポ幹部らしい、生体認証機能付きのスマートスーツを着ている。
「まったく、手間をかけさせないでくれ。こっちは貴重な休暇クレジットを消費して来ているんだ」
彼は腕時計型の端末を睨みつけ、露骨に不機嫌な態度を示した。
次に、30代後半の女性。
体温や感情で色調が変化するドレスに身を包んでいる。その顔面の筋肉が不快に引き攣っているのが見えた。
「本当に疲れる。どうしてこんな旅行に付き合わなきゃならないのよ」
女性は老婆に聞こえるように、わざと大きな声で言った。
そして、20代前半の青年。
ARグラスをかけた彼の視線は、現実の祖母ではなく、その上に重ねられた情報ウィンドウかゲーム画面かに注がれていた。
「マーガレットおばあちゃん、もっとしっかりしてよ。脳が劣化してるんじゃない?」
彼は笑いながら言った。
それは冗談ではなく、旧世代の人間を旧式の機械に見立てた、この時代特有の侮辱だった。
「ごめんね、ライアン。おばあちゃん、最近物覚えが悪くて……」
マーガレットは申し訳なさそうに頭を下げた。
その姿は、まるで生産性のない自らの存在を詫びているかのようだった。
「はいはい、結構です。さっさとチェックインしましょう。時間の無駄だわ」
女性は車椅子のグリップを乱暴に掴み、フロントに向かって押し始めた。
マーガレットの体がガクンと揺れ、彼女は小さく「あ」と声を上げたが、誰も気にかけなかった。
男性は溜息をつき、オートポーターを起動させて後をついていく。
「まったく、こんなことに付き合わされて……」
「仕方がないわ、ダニエル。とりあえず『これ』を置いたら出かけましょう?」
「ああ、そうだねソフィア。観光は楽しみだ」
ライアンは仮想キーボードを宙に叩きながら、無関心に歩いていた。
カーバンクルは、その一部始終を見ていた。
赤い瞳の虹彩が、カメラの絞りのようにわずかに収縮する。
パーカーのポケットの中で、彼女の手が硬く握りしめられていた。
「……はぁ」
しかし、彼女は何も言わなかった。何もしなかった。
これはこの世界のどこにでもある不幸。処理すべき依頼ではない。
彼女はただ、じっとその光景を見つめているだけだった。
始末屋にもオフの日はあるのだ




