【依頼人】孤児の兄弟
少年――センが目を覚ましたとき、東の空はまだ藍色をしていた。
石畳の下を通る排水路の、乾いた側の窪み。そこが二人の寝床だった。
壁の隙間から流れ込む冷気が、毛布代わりの外套の裾をゆっくりと持ち上げていく。
隣で丸くなっている弟の呼吸を、センはしばらく数えた。
ノアの前髪は寝汗で額に貼りつき、小さな手は昨日センが渡した干し肉の包みを握ったままだった。食べずに取っておいたらしい。
「ノア」
「ん……」
肩を揺すると、弟の睫毛が震えた。
まだ夢の中にいる顔で、それでもノアは体を起こそうとする。
「兄ちゃん、朝……? もう行くの?」
「ああ、まだ暗いうちに出る。ツノウサギは日が昇ると穴に入るからな。寝ぼけてると置いていくぞ」
「おいてかないで……。……これ、昨日の。兄ちゃんも半分食べて」
差し出された干し肉を、センは優しく押し戻した。
「お前が食え。俺はもう食べたんだから」
センは嘘をつき、短剣の柄を布で拭いてから腰の鞘に収めた。
刃こぼれが三箇所。
研ぎに出す金はないので、欠けた部分を避けて振る癖が体に染みついている。
町の門番は、二人が通るとき何も言わなかった。
子供が武器を提げて外に出ることを、この世界では誰も止めはしない。
現実と違い、この世界では大人も子供も等しくゲームのステータスによって縛られている。
体格やリーチを無視して考えれば、レベル10の子供のほうが、レベル5の大人よりも強いのだ。
外は霧だった。
街道を外れて左手の草地に降りると、膝から下が白く沈んで見えなくなる。
「兄ちゃん、あそこ!」
ノアが袖を引いた。
指の先、丘の斜面に、灰色の毛玉のような影が三つ。ツノウサギの群れだった。
「しゃがめ」
センは弟の頭を軽く押さえて、その場にしゃがませた。
露に濡れた草が音を立てないよう、体重を爪先に移していく。
「動くなよ。声も出すな。もし兎がこっちに気づいて向かってきたら、すぐにあの岩の影に隠れるんだ」
「う、うん。息、止めてる……っ」
風下から回り込むのに、たっぷり百を数えるだけの時間をかけた。
ツノウサギは臆病で、耳がいい。
一度でも気づかれれば、あの角は真っ直ぐこちらに向かってくる。
「――はぁッ!」
「キッ――!?」
一匹目は、跳ねる前に喉を裂いた。
二匹目が驚いて跳ね起きた瞬間、センは草の中を滑るように移動して背後を取り、後頭部に刃を落とした。
だが三匹目は逃げてしまった。
追わなかった。追えば深追いになるし、深追いは死ぬ。今は亡き父はそう言っていた。
ツノウサギの体が光の粒になって崩れ、後には角が二本と、肉の塊が三つ残った。
センは膝をついてそれを拾い、まだ温かい感触を布に包む。
「今日は上出来だ! 二匹仕留めた。半分こだな!」
「でも……ぼく、見てただけで……なにもしてないよ」
「んなことないって。見張りしてただろ。もし俺が三匹目を深追いしそうになったら、お前が止めてくれるはずだった。だから助かったよ」
ノアは唇を尖らせたが、抗議はそこまでだった。
かわりに包みを胸にしっかりと抱きしめて、少しだけ誇らしそうに胸を張る。
「ありがと。やっぱり強いね、兄ちゃんは」
■
角の一本は、町のよろず屋で銅貨四枚になった。肉は一つを売って、二つを残した。
センは残した肉を油紙にくるみ、袋の底に押し込む。
今日は買い物をしなければならなかった。
糸と針、それから塩。ノアの靴の底が剥がれかけている。
「兄ちゃん、あれ……」
広場の噴水のそばに、黒いローブの女が立っていた。
町付きの司祭で、名前をセンは知らない。
噴水の縁に腰かけた男が、女に向かって何度も頭を下げている。
「あの人、泣いてる。また誰か、やられて戻ってきたの?」
「見るな。歩け」
「……なのに。父さんと母さんは、どうして戻ってこないの?」
「……静かにしろ。その話はするなって言ったろ」
センは弟の手を引いて、人の流れの向こう側へ回った。
復活の噴水を背にして歩くと、水音がやけに大きく聞こえる。
死んで戻ってくる者は、あそこから戻ってくる。
水面が跳ねて、濡れた体が縁に手をかけて這い上がってくる。
センはそれを何度も見た。
近所の男が、狩人が、酔って喧嘩をした二人組が、そうやって戻ってきた。
(父さんも母さんも……あそこから戻ってくるはずだった)
二年前の冬だった。二人は南の森へ行き、帰ってこなかった。
センは十日のあいだ、噴水の縁に座って待った。ノアを膝に抱えて、水面が跳ねるたびに立ち上がった。
十一日目に、司祭が肩に手を置いて何か言った。
何を言られたのかは覚えていない。覚えているのは、その手が温かかったことと、それが心底腹立たしかったことだけだ。
(死んでも、戻らない人がいる)
理由は誰も知らない。神様の気まぐれだと言う者もいれば、弱い人間から順に別の場所に呼ばれるのだと言う者もいた。
■
宿屋の裏手の階段に腰かけて、二人は肉を焼いた。
串は拾った枝で、火は炭拾いの婆さんに銅貨一枚で分けてもらったものだ。
「兄ちゃん」
ノアが串を回しながら、脂の落ちる音の隙間に言葉を差し込んだ。
「ぼくも、短剣がほしい……!」
センは火から目を離さなかった。
焦げる寸前で串を返し、白い煙が上がるのを待つ。
「お前にはまだ早い」
「でも、ぼくもう七つだよ? 兄ちゃんが最初にツノウサギを倒したの六つのときだって、父さんから聞いたもん」
「あのときは、俺の隣に父さんがいた。お前には、俺しかいない」
言ってしまってから、センは自分の声の硬さに気づいた。
ノアが串を持ったまま黙り込む。
火の粉が一つ、風に乗って階段を転がっていった。
「……肉、焦げるぞ。ほら」
センは弟の手から焦げかけた串を取り上げ、かわりに自分の分の、うまく焼けた方を押しつけた。
ノアはそれを受け取って、少しだけ表情を緩めた。
そのまましばらく、二人は黙って肉を食べた。
センは弟の顎が動くのを横目で見ながら、明日は北の湿地に行こうと考えていた。
青苔虫なら数が多いし、ツノウサギより鈍い。
ノアを少し離れた岩の上においておけば、危ないことは何も起きない。
(そうだ。ノアには危ないことはさせない。俺が全部やればいい)
そうしてきた。二年間、ずっとそうしてきた。
ノアに刃を握らせず、血を見せず、傷一つ負わせずにここまで来た。
センはそれを、自分にできる唯一の正しいことだと信じていた。
■
翌日。
北の湿地は、思っていたより水が上がっていた。
センは膝まで泥に沈めながら、青苔虫の群れを三つ潰した。
ノアは五歩ばかり離れた岩の上で膝を抱え、兄が戻ってくるたびに袋の口を開けて待っている。
「あと二つ倒してギルドに持っていけば、新しい靴が買えるはずだ」
「ほんとう? ぼくの靴?」
「ああ。嘘は言わない」
センが泥から足を引き抜いたとき、水面を渡ってくる音が変わった。
「……?」
草の擦れる音ではない。金属が擦れる音だった。それも複数。
顔を上げると、湿地の縁の細道に四人が立っていた。
「……誰だ……?」
三人は男で、一人は女だった。
四人とも、センが今まで見たどんな装備も比べものにならないものを着ていた。
鎧の縁が朝の光を吸って、白く濁って見える。
腰の剣は鞘に触れているだけで、周囲の空気が歪んでいるように思えた。
「ほら、いた。俺の言った通りだろ」
先頭の男が、隣に向かって顎をしゃくった。
「本当ね。この時間、こんな場所にポップするなんて。あんたの情報源、意外と役に立つじゃない」
センは岩に手をついて、ノアを背に回した。
短剣は抜かなかった。
抜けば動く。動けば終わる。
相手との絶対的な実力差が、肌を通して伝わってくる。
「……金は、持ってない。PKしても、奪うようなものは何もないぞ」
「知ってるよ。そんなゴミみたいな装備、引き取っても銅貨数枚だろ」
男が細道を降りてくる。
泥に足首まで浸かっても、歩幅がまるで変わらなかった。
「じゃあ、俺たちに何の用だ。俺たちはただの……」
「ターゲットだな」
センは半歩下がった。背中で、ノアの指が外套を強く掴むのがわかった。
「おいおい、そんなに警戒するなよ」
男は両手を上げて、掌を見せた。傷一つない、綺麗な掌だった。
「俺たちはこれでも話の通じる人間だ。手荒な真似はしないし、今すぐ殺しもしない。――ゲームは手順を踏まないと、面白くないからな」
男たちの背後で、女がくすくすと笑った。
四人が同時に笑うと、湿地の水面がわずかに震えたように見えた。
「――まだ、殺さないわ」
女が投げた縄が、センの視界の端で弧を描いた。
「なっ!?」
避けようとした足が、泥に取られた。
レベルが違うよレベルが




