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【依頼人】犠牲になるべきは

 目隠しを乱暴に剥ぎ取られた瞬間、センは激しく咳き込んだ。


 鼻を突いたのは、むせ返るような安酒と安物の香の匂い。

 そして、獣の脂が焦げるような不快な悪臭だった。


 そこは広い洞窟だった。天井は見上げても闇に溶けて見えない。

 壁面に沿って青白く不気味な魔光が灯り、湿った岩肌を舐めるたびに、鉱脈の筋が毒々しく光る。


 中央は広く円形に掘り下げられ、まるですりばちの底のような、逃げ場のない泥の窪みになっていた。


 その窪みを取り囲むように、すり鉢の斜面に沿って階段状の観客席が並んでいる。


 席は、下品な熱気で埋め尽くされていた。


「おいおい! おいおいおい! いい素材じゃねえか!」

「今日のメインディッシュか? おい、どっちから死ぬんだよ!」


 上質な絹の外套を羽織った者もいれば、宝石をこれみよがしに編み込んだ女もいる。


 誰も武器を持っていない。持つ必要のない、安全圏から見下ろす者たちの服装だった。

 下卑た笑い声を上げ、酒をこぼしながら、手元の札を狂ったように交換し合っている。


「連れてきましたよ、旦那がたァ!」


 センたちの襟首を掴んで引きずってきた男が、観客席に向かってヘラヘラと両手を広げた。


「兄貴がレベル九、弟はたったのレベル四! 極上の『素材』です!」


「レベル四ン!?」

「ギャハハ! 四なんて、生まれたての赤ん坊と変わらねえじゃねえか!」

「これはいい! 期待できるぞ!」


 割れんばかりの爆笑と野次が、洞窟の壁に反響してセンの耳を叩く。

 センは恐怖で引き攣りそうになる表情を必死で抑え、小刻みに震えるノアをきつく抱き寄せた。


「……何なんだよ、お前ら……! 何が目的だ!」


 センが声を絞り出すが、その声は観客たちの怒号にかき消された。

 奥の席から、ずんぐりとした肥満体がゆったりと立ち上がる。


 全身の指にこれみよがしに宝石の指輪をはめ、膝の上で銀の秤を弄んでいる太った男。

 彼が動くと、周囲の狂信的な賭博師たちが、一瞬で静まり返った。


「レベル四かあ。いいねえ、たまらんねえ」


男は舌なめずりをし、肉の塊のような顔を歪めて笑った。


「ここ半年、うちの『闘技場』じゃあ五以下のロストを見てなくてねえ。観客もみんな、飢え死にしかけてたところなんだよ。よく来てくれたなぁ、おチビちゃんたち!」


 太った男が、贅肉を揺らしながら階段を一段ずつ降りてくる。

 円形の窪みの縁まで来ると、そこで立ち止まって、ねっとりとした視線を兄弟に投げかけた。


「私はマグヌス。泣くなよおチビちゃん。ここは『神聖な賭場』だ。お前たちがどれだけ絶望的な顔をして死ぬかで、ここのお大尽たちの賭け金が跳ね上がるんだ」

「やめろ……!」


 センはノアを自分の背後に押し込み、必死に男を睨みつけた。

 歯の根が合わず、カチカチと音が鳴る。


「僕たちから何を奪う気だ! 金なら、さっきの四人に全部持って行かれた! もう何もない!」

「金? ハハハ! そんな銅貨数枚でうちの客が満足すると思うか?」


 男は可笑しくてたまらないといった風に、腹を抱えて笑った。


「お前らの命だよ。いや、もっと正確に言おうか。お前たちの『デスペナルティの行方』だ」

「は……?」


 男は銀の秤を持ち上げ、わざとらしく片方の皿を指で押し下げた。


「この世界じゃあ、死んだ奴は町の噴水からリスポーンする。これは誰もが知る絶対のルールだ。……だがなぁ。

 中には『戻らない』バグみたいな連中がいるだろ? アカウントごと完全にロストしちまう哀れなゴミがよ」


 センの背中で、ノアの小さな手がセンの服をちぎれんばかりに握りしめた。

 息を吸う音がヒューヒューと震えている。


「不思議だよなぁ。同じように死んで、同じように待っても、生き返る奴と、そのままキャラデリートされる奴がいる。神の気まぐれって奴だ。だがよぉ……」


 マグヌスはにやりと口角を吊り上げ、顔を近づけてささやいた。


「神様ってのは、どうやら『努力しないバカ』が嫌いらしいんだよ」

「なにを、言って……」

「レベルが何ヶ月も上がってない奴。戦いもせず、成長もせず、ただ息をしてるだけの生ゴミ。そういう奴が死ぬと……高確率で『ロスト』する。システムに不要なデータだと判断されて、消されちまうんだ」


 男はセンの短剣をチラリと見て、嘲笑するように鼻を鳴らした。


「そこのお兄ちゃんは、それなりに戦ってるようだが。弟クンはどうだろうなぁ?」

「な……!」


 センの視界が恐怖でチカチカと明滅する。

 心臓が早鐘のように鳴り、胃の底から酸っぱいものが込み上げてきた。


「俺たちが賭けるのはそれだよ!」


 男は客席を振り返り、両腕を大きく広げた。


「お前らが死んだとき! リスポーンして戻ってくるか、それともこのまま永遠に消滅するか! 素晴らしいエンターテインメントだろう!?」


 ワアアア、と地鳴りのような歓声が爆発した。

 客たちは立ち上がり、狂ったように足を踏み鳴らし、札束やグラスを投げ合っている。


「ふざけるな……! ふざけるなッ!!」


 センは叫んだ。涙と怒りで声が裏返り、のどが千切れそうになる。


「ノアはまだ七歳なんだ! 何も悪いことなんてしてない! なんでそんなこと、お前たちに決められなきゃいけないんだ!」

「俺たちが決めるんじゃない、システムが決めるんだよ」


 太った男は、心底愉快そうに目を細めて言った。


「ちなみにオッズだがね、お兄ちゃん。お前はレベル九だからリスポーンが優勢だ。だが、その弟は――」


 男は指を三本、ねっとりと突き出した。


「ロストに、六対一だ。誰もあのおちびちゃんが戻ってくるなんて信じちゃいない。お前が過保護に育ててくれたおかげで、最高のオッズがついたよ。ありがとうなぁ!」

「やだ……! いやだあああッ!」


 背後で、ノアが悲鳴のような叫び声を上げた。

 その場に崩れ落ち、頭を抱えて激しく首を振る。


「兄ちゃん! いやだよ! ぼく、帰りたい……!」

「ハハハハ! 安心しろ。殺したあとうまく甦れれば、解放してやらんこともないからなぁ! お前ら。そいつらを牢に入れとけ!」

「ウッス!」

「離せ……離せぇぇ!!」



 牢は洞窟の奥、ジメジメとした通路を削って作られたものだった。

 格子は青く光る半透明の障壁で、触れるとパチリと嫌な静電気のような痛みが走り、指が弾かれる。


 センは何度も、がむしゃらに格子を蹴りつけた。


「開けろ! 出せ! 誰か、誰か助けてくれ……ッ!」


 まともな打撃音すら鳴らない。

 壁にぶつかる自分の息遣いだけが、情けなく響くだけだ。


「うっ、うう……ひっ、ふー……、う、ぁ……」


 背後で、ノアが過呼吸のような荒い息を繰り返しながら、泥の床にうずくまっていた。

 涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、小さな体をこれ以上ないほど丸めている。


「兄ちゃん……ぼく、消えちゃうの……? もう、兄ちゃんに会えなくなっちゃうの……?」

「戻る!」


 センは格子を掴んだまま、狂ったように叫んだ。

 振り返れなかった。振り返れば、恐怖で涙を流し、絶望に歪みきった自分の顔をノアに見せてしまうからだ。


「戻るに決まってるだろ! あのデブが適当な嘘を言ってるだけだ! 絶対に、何があっても、お前は戻ってくる!」

「……っ! うそだっ!」


 ノアが泣き叫んだ。

 それは、今までセンに一度も見せたことのない、激しい拒絶の叫びだった。


「だって、お父さんも、お母さんも戻ってこなかった! あの人たちも、レベルが上がってなかったから消えちゃったんだ……! ぼくも、お父さんたちみたいに、消えちゃうんだ……!」

「……っ」


 センは言葉を失った。


 通路の先からは、いまだに客席の地響きのようなざわめきが届いている。


 「おい、早く殺せ!」という下品なダフ屋の声。ゲラゲラと笑う女の声。

 それらすべてが、捕らえられた人々の死と消滅を心待ちにしている。


(俺のせいだ)

(俺が、ノアを安全な岩の上に置いたから)

(何もさせず、ただ守ることだけが正しいと信じていたから、この子が消されようとしている)


 センの頭の中で、後悔という名の毒が、脳をドロドロに溶かしていくような感覚があった。

 自分の選択が、世界で一番愛する弟の首を絞めていた。


「う、うあああ……っ」


 ノアが床を這うようにして、センの破れた外套の裾を掴んだ。

 指先がガタガタと激しく震えている。


「兄ちゃん、たすけて……、こわいよぉ……、たすけて、にいちゃん……!」


 センはたまらず膝をつき、ノアを壊れ物を扱うように抱きしめた。


 その小さな、あまりにも小さな頭を胸に押しつけ、自分の涙で濡れた手で、必死に後頭部を包み込む。


 そして、ある言葉を口にした。


「……ノア……」

「兄ちゃん……?」

「……俺を……殺せ」

倫理観捨て捨て委員会

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