【404】仮想の命
「あ……」
少女は、しばらく動けなかった。
泉のそばには、光の粒がまだ薄く漂っている。
ボルグのいた場所には何も残らなかった。
大剣だけが石畳の上に転がり、村人のNPCがそれを器用に避けていく。
カーバンクルは濡れた布を固く絞り、少女の手に握らせた。
「怖かった?」
「い……いえ」
少女は首を横に振った。それから、遅れて肩が小刻みに震え出した。
彼女は何かを言おうとして途中でやめ、また口を開いた。
「あの人、もう戻ってこない……んですか?」
「わかんないけど、泉には戻ると思う。レベルが下がって、いずれ復活するんじゃないかな」
「じゃあ……アレンは。弟は……」
カーバンクルは答えなかった。
少女も、それ以上は聞かなかった。答えは最初から分かっていたのだろう。
二人の間で、泉の水音だけが長く続いた。
■
少女の名はリタといった。
村の外れの家に案内される途中、ショウが横から口を挟んだ。
細剣を鞘に収めたまま、リタの歩幅に器用に歩調を合わせている。
「なあ、リタ。いくつか聞いていいか」
「はい」
「この世界の外に、何があるか知ってるか?」
リタは足を止め、素直な顔で首を傾げた。
「外……街道の先ですか? 東に行けば湖があって、その先は山脈で。船で渡ると第二大陸だって聞いたことがあります。まだ行ったことはないですけど」
「そうじゃねえ。この世界そのものの外だ」
リタの表情が、本当に分からないという形で固まった。
彼女は少し考え込み、それから申し訳なさそうに眉を八の字に下げる。
「ごめんなさい。何を聞かれているのか、分からなくて……神様がいる世界のお話、とかですか?」
「あんた、自分のレベルとかHPとか、そういうのが『変だ』と思ったことは?」
「変って……誰にでもあるのが普通じゃないですか?」
ショウが天を仰ぎ、カーバンクルに目配せをした。
(なるほどな。完全に『向こう側』の住人だ)
カーバンクルはリタの横顔を見ていた。嘘をついている素振りはない。
世界の仕様を疑ったこともない。というより、疑う対象として認識したことがないのだ。
空のグラフィックはよくできている。風の環境音もよくできている。
彼女はその中で生まれ、その中で桶を洗い、親の薬を取りに行こうとした。
(この子にとっては、ここが現実か……)
■
二人が案内された家の中はひどく薄暗かった。
ベッドに横たわった男は痩せていた。頬がこけ、呼吸が浅い。
それでも扉の開く音に反応して首を巡らせ、カーバンクルとショウの姿を認めた瞬間、目の色が変わった。
「リタ、その人たちは……?」
「助けてもらったの。あの……」
「――装備が初期支給品だな。それも新品……」
男はリタの言葉を遮り、上体を起こそうとして激しく咳き込んだ。
カーバンクルの視線が、その手の甲に落ちる。
指の関節に古いタコがあった。長く武器を握っていた人間のタコだ。
(……こんな特徴まで再現するのは、あまりにもリソースを使いすぎてる)
「あんたたち、外から来たな」
「そう」
「四十年ぶりだ。四十年……もしかして、外でなにかあったのか?」
「そ、外……? お父さん、何を……」
「なんでもないよ。少し出ていなさい、リタ」
男の名はガレスといった。
彼は掠れた声で語り始めた。
フィクティオ財団のこと。核戦争によって、もはや従来の世界が維持できなくなったときのこと。
当時、彼はフィクティオ財団の人類保管計画に賛同し、参加したひとりだった。
「四十年だ。外に家族がいたこと、本当の名前、現実の空の色……もはや記憶の彼方だ。みんな、自分がプレイヤーだということも忘れて、ゲームの世界に熱中している」
ガレスは痛ましそうに咳をした。彼は手をしばらく握ってから、そっと離した。
「ひとつだけ、俺にはどうしても分からんことがある」
「なに」
「あの子だ」
ガレスの視線が、扉の向こうにいるであろうリタへ向いた。
「リタと、弟のアレン。あの二人は、俺がこの世界で作った子供だ。……いや、違うな。俺と、この世界にいた女プレイヤーとの間に『生まれた』。ゲームにそんな仕様はなかった。実装されていなかったはずだ」
「NPCじゃなくて?」
「NPCなら、俺はここまで悩まん」
男は、ゆっくりと首を振った。
「NPCは夜泣きなんてしないし、熱を出さない。俺の咳の音で夜中に起きたりしない。……弟が戻らんことで、三日間泉のそばに座り込んだりしない。運営が用意したプログラムにしては、リアルすぎるんだ」
カーバンクルは何も言わなかった。ショウが小さく舌打ちをして、壁に寄りかかる。
「運営は、それについて何か言ってるの?」
「言わんよ。あいつらは何も言わん。アップデートノートだけは律儀に来るがな。俺たちがここで生きることも、死ぬことも、産み落とすことも、全部あいつらの手の上だ」
ガレスの喉が、そこで妙な音を立てた。
――同時に、カーバンクルの視界が、真っ白に飛んだ。
▼
【システムコール:優先度0(最高)】
【対象:外部接続者『カーバンクル』】
【強制転移プロトコルを実行します】
▼
「カーバンクル?」
「これは――」
ショウの声が急速に遠ざかる。
薄暗い部屋が引き剥がされ、床が消え、天井が消えた。
座標系が強制的に組み替えられていく感覚。
彼女はそれに逆らわなかった。プレイヤーの権限で逆らえる種類のものではなかったからだ。
次の瞬間、カーバンクルは白い空間に立っていた。
最初にこの世界へ入った時――キャラクターメイキングを行った時と同じ場所だった。
ただ、あの時よりも遥かに広い。
床の金色の格子が地平線まで続き、その上に無数の半透明の柱が立っている。
柱の一本一本に、名前と数字が縦に流れ落ちていた。
このサーバーに囚われている全プレイヤーの、リアルタイムの生存記録だろう。
その正面に、純白のローブを着た女が立っている。
顔立ちは左右対称すぎて不気味で、瞬きの間隔はコンマ一秒の狂いもなく一定だった。
「お待ちしておりました、カーバンクル様」
「……呼んだのは、あなた?」
「はい。私はシステム管理AI『ヴェルダンディ』」
女は微笑んだまま、両手を胸の前で丁寧に重ねた。
「なに? PKに対するお咎め?」
「いいえ。あなたは規約に違反していません。BAN対象でもありません。ですが、あなたは我々にとって四十年ぶりの『外部接続者』です」
ふと、柱の一本から数字がスッと消えた。
どこかで誰かのHPがゼロになり、泉に戻れず――死んだのだと、カーバンクルは理解した。
「本日は、このサーバーにおける……『命』についてお話ししたいのです」
何の用なんすかね




