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【404】仮想の命

「あ……」


 少女は、しばらく動けなかった。

 泉のそばには、光の粒がまだ薄く漂っている。


 ボルグのいた場所には何も残らなかった。

 大剣だけが石畳の上に転がり、村人のNPCがそれを器用に避けていく。


 カーバンクルは濡れた布を固く絞り、少女の手に握らせた。


「怖かった?」

「い……いえ」


 少女は首を横に振った。それから、遅れて肩が小刻みに震え出した。

 彼女は何かを言おうとして途中でやめ、また口を開いた。


「あの人、もう戻ってこない……んですか?」

「わかんないけど、泉には戻ると思う。レベルが下がって、いずれ復活するんじゃないかな」

「じゃあ……アレンは。弟は……」


 カーバンクルは答えなかった。

 少女も、それ以上は聞かなかった。答えは最初から分かっていたのだろう。


 二人の間で、泉の水音だけが長く続いた。



 少女の名はリタといった。


 村の外れの家に案内される途中、ショウが横から口を挟んだ。

 細剣を鞘に収めたまま、リタの歩幅に器用に歩調を合わせている。


「なあ、リタ。いくつか聞いていいか」

「はい」

「この世界の外に、何があるか知ってるか?」


 リタは足を止め、素直な顔で首を傾げた。


「外……街道の先ですか? 東に行けば湖があって、その先は山脈で。船で渡ると第二大陸だって聞いたことがあります。まだ行ったことはないですけど」

「そうじゃねえ。この世界そのものの外だ」


 リタの表情が、本当に分からないという形で固まった。

 彼女は少し考え込み、それから申し訳なさそうに眉を八の字に下げる。


「ごめんなさい。何を聞かれているのか、分からなくて……神様がいる世界のお話、とかですか?」

「あんた、自分のレベルとかHPとか、そういうのが『変だ』と思ったことは?」

「変って……誰にでもあるのが普通じゃないですか?」


 ショウが天を仰ぎ、カーバンクルに目配せをした。


(なるほどな。完全に『向こう側』の住人だ)


 カーバンクルはリタの横顔を見ていた。嘘をついている素振りはない。

 世界の仕様を疑ったこともない。というより、疑う対象として認識したことがないのだ。


 空のグラフィックはよくできている。風の環境音もよくできている。

 彼女はその中で生まれ、その中で桶を洗い、親の薬を取りに行こうとした。


(この子にとっては、ここが現実か……)



 二人が案内された家の中はひどく薄暗かった。


 ベッドに横たわった男は痩せていた。頬がこけ、呼吸が浅い。

 それでも扉の開く音に反応して首を巡らせ、カーバンクルとショウの姿を認めた瞬間、目の色が変わった。


「リタ、その人たちは……?」

「助けてもらったの。あの……」

「――装備が初期支給品だな。それも新品……」


 男はリタの言葉を遮り、上体を起こそうとして激しく咳き込んだ。


 カーバンクルの視線が、その手の甲に落ちる。

 指の関節に古いタコがあった。長く武器を握っていた人間のタコだ。


(……こんな特徴まで再現するのは、あまりにもリソースを使いすぎてる)


「あんたたち、外から来たな」

「そう」

「四十年ぶりだ。四十年……もしかして、外でなにかあったのか?」

「そ、外……? お父さん、何を……」

「なんでもないよ。少し出ていなさい、リタ」


 男の名はガレスといった。

 彼は掠れた声で語り始めた。


 フィクティオ財団のこと。核戦争によって、もはや従来の世界が維持できなくなったときのこと。

 当時、彼はフィクティオ財団の人類保管計画に賛同し、参加したひとりだった。


「四十年だ。外に家族がいたこと、本当の名前、現実の空の色……もはや記憶の彼方だ。みんな、自分がプレイヤーだということも忘れて、ゲームの世界に熱中している」


 ガレスは痛ましそうに咳をした。彼は手をしばらく握ってから、そっと離した。


「ひとつだけ、俺にはどうしても分からんことがある」

「なに」

「あの子だ」


 ガレスの視線が、扉の向こうにいるであろうリタへ向いた。


「リタと、弟のアレン。あの二人は、俺がこの世界で作った子供だ。……いや、違うな。俺と、この世界にいた女プレイヤーとの間に『生まれた』。ゲームにそんな仕様はなかった。実装されていなかったはずだ」

「NPCじゃなくて?」

「NPCなら、俺はここまで悩まん」


 男は、ゆっくりと首を振った。


「NPCは夜泣きなんてしないし、熱を出さない。俺の咳の音で夜中に起きたりしない。……弟が戻らんことで、三日間泉のそばに座り込んだりしない。運営が用意したプログラムにしては、リアルすぎるんだ」


 カーバンクルは何も言わなかった。ショウが小さく舌打ちをして、壁に寄りかかる。


「運営は、それについて何か言ってるの?」

「言わんよ。あいつらは何も言わん。アップデートノートだけは律儀に来るがな。俺たちがここで生きることも、死ぬことも、産み落とすことも、全部あいつらの手の上だ」


 ガレスの喉が、そこで妙な音を立てた。

 ――同時に、カーバンクルの視界が、真っ白に飛んだ。



 【システムコール:優先度0(最高)】

 【対象:外部接続者『カーバンクル』】

 【強制転移プロトコルを実行します】



「カーバンクル?」

「これは――」


 ショウの声が急速に遠ざかる。

 薄暗い部屋が引き剥がされ、床が消え、天井が消えた。


 座標系が強制的に組み替えられていく感覚。

 彼女はそれに逆らわなかった。プレイヤーの権限で逆らえる種類のものではなかったからだ。


 次の瞬間、カーバンクルは白い空間に立っていた。


 最初にこの世界へ入った時――キャラクターメイキングを行った時と同じ場所だった。


 ただ、あの時よりも遥かに広い。

 床の金色の格子が地平線まで続き、その上に無数の半透明の柱が立っている。


 柱の一本一本に、名前と数字が縦に流れ落ちていた。

 このサーバーに囚われている全プレイヤーの、リアルタイムの生存記録だろう。


 その正面に、純白のローブを着た女が立っている。

 顔立ちは左右対称すぎて不気味で、瞬きの間隔はコンマ一秒の狂いもなく一定だった。


「お待ちしておりました、カーバンクル様」

「……呼んだのは、あなた?」

「はい。私はシステム管理AI『ヴェルダンディ』」


 女は微笑んだまま、両手を胸の前で丁寧に重ねた。


「なに? PKに対するお咎め?」

「いいえ。あなたは規約に違反していません。BAN対象でもありません。ですが、あなたは我々にとって四十年ぶりの『外部接続者』です」


 ふと、柱の一本から数字がスッと消えた。

 どこかで誰かのHPがゼロになり、泉に戻れず――死んだのだと、カーバンクルは理解した。


「本日は、このサーバーにおける……『命』についてお話ししたいのです」

何の用なんすかね

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