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【404】暴君の真実

 エレベーターは、五十八秒かけて最上階に着いた。


 扉が開いた先は、会長室というより温室に近かった。

 壁の三面がガラスで、その向こうにはセレストの浮遊大地が浮かんでいる。


 人工の青空、白い雲の演出、緑の庭園。

 この高さからでも、下界は雲に隠れて見えないよう設計されていた。


 部屋の中央には低いテーブルと、向かい合った二脚の椅子。


 片方には既に人が座っていた。四十代半ばに見える女だった。


 濃紺のスーツ、化粧は薄く、後ろで束ねた髪に白いものが数本混じっている。

 膝の上で本を開いていたが、ペルソナが入ってくると静かに栞を挟んで閉じた。


「よかったわ。エレベーターに乗ってきてくれて」


 女は立ち上がらなかった。

 ペルソナは扉の前で足を止める。血の乾いたブーツが、木の床に赤い染みを移す。


「フェブラリーか」

「ええ。二月のフェブラリー。……座って。立ったままだと首が疲れるの、私」


 ペルソナは動かなかった。

 女は肩をすくめ、テーブルの上のポットに手を伸ばす。


「では私だけお茶をいただくわ。あなたを待っていたの」


 湯気が二本立った。カップは初めから二つ置かれていた。


「ノーベンバーは死んだぞ」

「知ってる。あの子、脊髄をいじった時から嫌な予感がしてたのよね」


 フェブラリーはカップの縁を指で撫でた。

 声は落ち着いていたが、そこにはかすかな苦味が混じっていた。


「技能を積んで、反射を買った。買った方が速いから。私は反対したの。積み上げたものの上に、買ったものを載せてはいけないって」


 彼女は一口飲んだ。


「聞かなかったわ。あの子、私より三ヶ月だけ年上でね。年上ぶるのが好きだったの」


「……感傷か? 機械が」

「たぶんね。私たち、そういうふうに作られてるのよ。十二人分の性格の見本市。EDENの本体が人間を理解するために、人格の型を十二個ぶら下げてるだけ。……それでも、いなくなれば寂しいわ」


 ペルソナは初めて足を進めた。

 椅子の背に手をかけ、しかし座らずに、テーブルの向こうの女を見下ろす。


「では次はお前の番だ」

「それなんだけど」


 フェブラリーはカップを置いた。


「取引をしましょう」


 彼女は指を一本立てた。


「……取引だと?」

「あなたがクローネクス社でやったこと、全部見ていたわ。EDENの署名がないとクローン施設が動かないと気づいた顔、記録に残ってる。あれ、いい顔だったわよ」

「……」

「だから分かるの。あなたが欲しいのはクローン管制権限。違う?」


 答えはなかった。フェブラリーは構わず続ける。


「それなら、私が出してあげられるわ」


 ペルソナの指が、椅子の背を軽く鳴らした。


「五分。いいえ、三分あればいい。私は署名権を持つ十二人のうちの一人。ここで承認を通せば、市内全ラインが今日中に再稼働する。

 あなたの器も、望むなら十体でも二十体でも作れる。……それだけじゃないわ」


 彼女は身を乗り出した。目に、初めて熱のようなものが灯る。


「生き残ったテンパードの連中に階層タグを配れる。アンダーの住民登録も、やろうと思えば通せるのよ」

「…………」

「あなた、下の子たちを随分従えてたでしょう。あの子たちに銀タグを渡してごらんなさい。あなたがこの三週間血まみれで奪ってきたものより、ずっと大きなものが手に入るわ」


「……なぜだ」


 ペルソナの声は低かった。


「なぜお前が私に譲る」

「譲るんじゃない。買うのよ」


 フェブラリーは椅子に背を預け、天井を仰いだ。


「私は都市の経済を回す人格なの。エネルギー、雇用、価格。毎朝、八百五十万人の食費を計算してから目を覚ますような仕事よ。

 ……あなたが暴れると、私の数字が壊れる。ロビーで四十七人。今日一日で復旧に十一億クレジット」


 彼女は視線を戻した。


「あなたを殺す方が安いなら、そうしてる。でも計算したの。あなたを止めるのに必要な戦力コストと、あなたの望みを叶えるコスト。……後者の方が、遥かに安い」


「……ク、ク……ハハハッ」


 ペルソナは笑った。

 初めて声を出して笑った。フェブラリーはその笑い方に、わずかに眉をひそめる。


「よく喋る女だ」

「悪い癖よ」

「だが無駄だったな。私の目的はクローン管制権限じゃない」


 彼女はようやく椅子を引き、腰を下ろした。

 血に濡れた背が、白い張り布に赤い形を残す。


「EDENの擬似人格を、十二体全て殺す。それが目的だ」


 沈黙が落ちた。

 フェブラリーはしばらく彼女を見つめ、それからゆっくりと首を振った。


「……それは、目的じゃないわ」

「なに?」

「手段よ。管制権限を取るために署名者を消す。それは手段。目的は権限のはずでしょう」


 彼女はテーブルを指で二度叩いた。


「私が今、その権限をあなたに差し出してるの。手を伸ばせば届くところに置いてある。それを取らずに、私を殺しに来るのは不合理だわ」

「不合理で構わん」

「構うのよ。私が困るの」


 フェブラリーの声が、初めてわずかに尖った。


「いい? 私はね、あなたのことを馬鹿だとは思っていないの。むしろ逆。……頭が回る人間が、わざと損な道を選ぶのを見るのが嫌なだけ」


 彼女はカップを両手で包んだ。


「欲しいものがあるなら、取りなさい。差し出されたものを蹴るのは、誇りじゃなくてただの癇癪よ」

「口上は述べ終わったか」


 ペルソナはテーブルの上の自分の分のカップを取った。


 一口飲み、味を確かめるように舌を鳴らし、それから床に中身を捨てた。

 木の板に茶色い染みが広がっていく。それを見て、フェブラリーの動きが止まった。


「あなた……」


 女は口を薄く開き、しかしすぐに閉じた。


 指がテーブルの縁を一定のリズムで叩き始める。

 視線はペルソナの顔から外れ、その肩、腕、首筋を順に辿っていった。


 何かを考えているというより、何かに気づきかけている顔だった。


「……おかしいと思ってたの」


 彼女は独り言のように呟いた。


「あなたはグリム・ダイスを吸収したのに、上がりを一度も回収してないわね」


 フェブラリーは顔を上げた。


「それからも、あなた、蓄えてないのよ。何一つ。……先がある人間は、蓄えるわ」


 ペルソナの表情は動かなかった。


 女はゆっくりと片手を持ち上げ、指を軽く開いた。

 空中にホロのパネルが展開し、青い光の格子がペルソナの身体をなぞっていく。


「……身体スキャンをやめろ、とは言わないのね」

「好きにしろ」


 格子が首から下へ流れ、胸、腹、四肢を順に走査した。

 数値の列が滝のようにパネルを流れ落ちる。


 その滝が、途中で赤に変わった。

 フェブラリーの手が止まる。


「……テロメア末端、消耗率、九十四パーセント」


 彼女はパネルを消さなかった。


「細胞分裂の残り回数がほとんどない。急速成長型の複製異常個体……培養時の加速が、そのまま寿命の前借りになってる。臓器の同期はもう崩れ始めてるわ。腎臓が一番早い」


 顔を上げた時、その目には先ほどまでの熱はなかった。


「あなた、あと一ヶ月もたないわよ」


 ペルソナは、椅子の背に深く体を預けた。


 そして、この部屋に入ってから二度目の笑みを浮かべた。


「……フハッ」

「……いつから、そのことを知っていたの?」

「三週間ほど前からだ」


「知っていて、あの数を殺したの……!?」

「知っていたから殺した」


 ペルソナは足を組んだ。血に濡れたブーツの踵が、木の床を小さく叩く。


「そういうわけで、少し予定が変わったんだよ。何もかも壊していくことにした」


 フェブラリーは答えなかった。

 彼女の指がテーブルの縁を叩き、そのリズムが徐々に乱れていく。


 落ち着いた女の顔から、少しずつ何かが引いていった。

 理解が追いついてくる速度が、そのまま血の気の引く速度だった。


「……待って」


 声が掠れた。


「待って。じゃあ、あなた」


 彼女は椅子の上で身を引いた。

 背もたれに当たり、それ以上下がれないと気づいて両手をテーブルの上に置く。指先が震えていた。


「権限なんて、初めから要らなかったのね」

「そう言ったはずだ」

「違う、そうじゃなくて」


フェブラリーの声が上ずった。


「あなた……擬似人格を十二人殺したら、何をする気……!?」

「わかっているだろう。施設をすべて完全停止させ、あとは……中心部の炉心の出力制限を解除する」


 彼女は立ち上がった。椅子が後ろへ倒れ、木の床で大きな音を立てる。


「それ……まさか、市民全員を……」

「そうだ」

「死ぬのはあなた一人でいいでしょう! なぜこの街を連れていくの!」


 ペルソナは座ったままだった。


「連れていく?」


 彼女は首を傾げた。フェブラリーを小馬鹿にするように嗜虐的に笑う。


「勘違いするな。私は誰も連れていかない。ただ、私が消えるときに、私の見えるものが全部残っているのは気に入らないだけだ」

「それを心中というのよ!」


 フェブラリーは叫んだ。

 声は裏返り、この部屋の防音材に吸われてすぐに消えた。


 彼女は自分の手が震えているのに気づき、隠すように胸の前で握り込んだ。それでも止まらなかった。


「私はね……私はこの街を八百五十万人ぶん、毎朝計算してるの。今日どれだけ食べるか、どれだけ働くか、何人生まれて何人死ぬか。三十年よ。三十年、一日も休まず回してきたの」


 呼吸が浅くなっていく。


「それを、一ヶ月しか生きられない子供の癇癪で終わらせるの? そんな……そんな理屈が、通っていいはずがないでしょう」

「通る」


 ペルソナは立ち上がった。

 その動作に音はなかった。フェブラリーが反射的に一歩下がる。


「私はあと一ヶ月で死ぬ。お前は放っておけば、あと三百年でも数字を並べていられる。この差を、私が受け入れる理由がどこにある」

「そんなもの、ただの——」

「ただの妬みか? そうだ!」


 ペルソナはテーブルを回り込んだ。

 歩幅は狭く、急いでもいなかった。


「否定しないぞ。私は与えられた分が短いことに怒っている。だが怒ったところで一日も伸びん。ならばどうする」


 彼女はフェブラリーの正面で足を止めた。

 背丈は頭一つ以上違う。見上げる形になっているのに、退がっているのはフェブラリーの方だった。


「短い生を与えられた者は、その短さに見合った終わり方をすべきだ。細く長く消えるんじゃない。全部まとめて、一度に、派手に終わらせる。……そうすれば、生きた長さは関係なくなる」

「間違ってる……!」


 フェブラリーは首を振った。


「間違ってるわ、それは。あなたは……あなたは怖いだけよ。自分だけが消えて、明日も同じ朝が来るのが怖いだけ。だから全部持っていこうとしてる。そんなの、誇りでも美学でもない。ただの——」

「お前は言葉が多いと言っただろう」


 ペルソナが手を伸ばした。

 フェブラリーは咄嗟に身を捻り、壁際の非常回線へ手を伸ばした。


 訓練された動きではなかった。ただの人間の、逃げようとする動き。


 その伸ばされた腕の下へ滑り込み、フェブラリーの体重が前へ流れる方向を、指先で軽く押す。

 女の身体は自分の勢いのままガラス壁へ向かい、肩から叩きつけられる。息が詰まる音がした。


「あぐ……っ」

「ノーベンバーの方がいくらかマシだったぞ」


 ペルソナは彼女の襟を掴み、ガラスに押し付けた。


 眼下には雲の演出が広がっている。設計上、この高さから下界は見えない。

 フェブラリーの頬がガラスに押しつけられ、彼女は白い雲の絵を至近距離で見せられていた。


「市民が見えるか。何も見えまい。ならば消えても変わりはないのだ」

「や、やめ——お願い、聞いて。私は、まだ」

「まだ、何だ」

「まだ、来年の配電計画が……途中なの……」


 ペルソナの手が一瞬止まった。


 それから彼女は、笑わなかった。

 ロビーでも、ノーベンバーの前でも笑っていた口元が、このときだけ真っ直ぐだった。


「……そうか」


 彼女はフェブラリーの後頭部に手を添えた。


「途中で終わるのは、私と同じだ」


 ゴキリ。短い、湿った音がした。

 支えを失った身体がガラスを伝ってゆっくりと崩れ落ちていく。


 濃紺のスーツの肩に、雲の映像が最後まで投影されていた。


 ペルソナは床に倒れた女を見下ろした。


 しばらく動かなかった。

 血に濡れた指を一度だけ握り、開き、それからテーブルの上に残されたもう一つのカップ——フェブラリーが飲みかけた方——を手に取る。


 まだ温かかった。

 彼女はそれを、床の上の女の傍らにそっと置いた。


「虚しいな」


 窓の外で、人工太陽が正午の角度に達した。


 上から差す光が、木の床に広がった血溜まりを白く照らし返す。

 ペルソナは踵を返し、エレベーターへ向かった。

超珍しい悲しきタイプの破滅型悪役

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