【404】ニュー・エデン来訪
ネオ・テック社十四階、社員用医務室。
常夜灯だけが点いた薄暗い室内で、ショウは診察台に腰を下ろしていた。
「ったく……」
コートは床に脱ぎ捨ててある。
脇腹の焼けた皮膚に、彼は消毒剤を直接かけた。
「くっ……!」
彼は縫合キットを開き、右手だけで針を摘まんだ。
左腕は肩から下がったまま動かない。震える指先が、二度、糸を通し損ねた。
『角度が違うよ』
カーバンクルの声が耳の奥で言った。
『傷の走行に対して直角に刺さないと、寄せた時に皮膚がよれる。あと、そんなに深く刺す必要はない。真皮まででいい』
「う、うるせえな! 見てんじゃねえよ」
『あなたの目から見てるから、見ないっていう選択肢がなくてね』
ショウは三度目でようやく糸を通し、傷口の縁に針を刺した。
手元が滑る。血が滲む。
『ショウ』
「なんだよ?」
『私がやろうか』
彼の手が、完全に止まった。
「ど……どういうことだ?」
『あなたの体と、私の意識はまだ繋がってる。私なら三分で応急処置が終わる』
ショウは自分の脇腹を見下ろした。それから、剥き出しの上半身を見下ろす。
彼の耳が赤くなった。
「――却下だ」
『なんで』
「なんでもだよ!」
声が完全に裏返っていた。
ショウは咳払いを二回して、無理やり低い声を作り直した。
「あー……あれだ。技術的な理由だ。あんたが俺の中に入ると、その、脳の負荷が上がる。連続ダイブは危険だ」
『そうでもないよ。あっちの都市では何回も試してるし』
「……その時とは条件が違う」
『どう違うの』
「違うもんは違うんだよ!」
彼は針を握ったまま、なぜか診察台の上のシーツを引き寄せて自分の腹に被せた。
『何してるの?』
「寒いんだよ」
『室温二十九度。そんなに寒くはないと思うけど……』
「体感の話をしてんだ!」
カーバンクルは何をしているのかわからない様子で、ショウの動きを見ていた。
ショウは深呼吸をした。それから、震える手で四針目を刺した。今度は角度が合っていた。
「――いいか。俺の体は俺のもんだ。緊急時以外は」
彼は自分に言い聞かせるように言った。
「それに、こういう失敗をするからこそ技能が上達するもんだ。だろ?」
『非効率』
「知ってるよ」
ショウはもう一針刺しながら、天井を睨んだ。
「……あと、その、なんだ。裸を人に見られるのがあんまり好きじゃねえんだ」
『そういうものなの?』
ショウは針を置き、両手で顔を覆った。
義手の冷たさが、熱くなった頬に心地よかった。
それから彼は包帯のロールを歯で咥えて引き出し、片手で巻き始めた。
「それより、もう戻れ。こっちは目的のものを確保した」
彼は包帯の端を義手の指で押さえた。
「あんたの体は今、向こうのホテルで転がってんだろ? そろそろ誰か心配してるぞ」
『依頼人はギャングだし、心配しないと思うけど……』
「するね。あんたの見た目で心配しないヤツはあんまりいないぜ……」
ショウは診察台の上に、仰向けに倒れ込んだ。
「……もう少ししたら俺もそっちに行く。それより先に、このビルからずらかるぜ」
わずかな間があった。
それから、少しだけ遅れて。
『わかった。ショウ』
「あ?」
『ありがとう』
ショウの動きが止まった。
彼が何か言い返すより先に、耳の奥から気配が消えた。
義眼の視界の隅で外部接続を示す表示が一つだけ残り、あとは静かになった。
「……ったく」
彼は腕で目を覆った。
包帯を巻いたばかりの脇腹が、笑うたびに痛んだ。
■
ニュー・エデン、アルミナ層。
ホテル〈ロウ・スペクトル〉404号室。
カーバンクルの睫毛が動いた。
「ん……」
赤い義眼が開き、天井のシミを捉える。焦点が合うまでに二秒かかった。
彼女は自分の指を一本ずつ動かし、右腕を上げようとして、肩の傷が引き攣るのを確認した。
「……お腹すいてる」
「! お前……!」
窓際の椅子で、ダリオ・ヴェントが顔を上げた。
彼の目の下には深い隈があった。テーブルの上には空になった合成カフェインの容器が四つ並んでいる。
「フー……起きたか」
カーバンクルは上体を起こした。
「おはよう。何時間経った?」
「十九時間だ。三日って言ってたのは何だったんだ」
「予定より早く終わってね」
彼女はベッドの縁に座り、髪を左手で軽く払った。
「ダリオ」
「なんだ」
「仲間を連れてきたよ」
ダリオは眉をひそめた。彼はドアを見て、それから窓を見た。当然、誰も入ってきていない。
「……どこにだ」
「もう来てる」
その時、壁面のディスプレイが勝手に点いた。
輝度調整の壊れた安物の画面に、深夜のニュース放送が一瞬だけ映り、すぐに黒く落ちる。
そして黒い画面の中央に、白い線が引かれた。
線は動き、記号になった。円と、その中を斜めに走る一本の線。
『よお。ニュー・エデンの旦那』
「!?」
スピーカーから男の声がした。
ダリオは椅子から立ち上がり、腰の後ろに手をやった。
銃はもう持っていない。彼はその事実を思い出して手を下ろした。
「……何者だ」
『ショウってモンだ。そこの女の専属エンジニアだよ』
「早かったね。ビルからは出られた?」
『当たり前だ。今はもういつものカフェにいるよ』
カーバンクルは無表情のまま頷いた。
『とにかく、今はネオ・アルカディアから喋ってる。聞こえてるな?』
ダリオは画面を見つめ、それからゆっくりと椅子に座り直した。
「……ネオ・アルカディアだと」
彼は低く繰り返した。
「あの完全鎖国都市か。政府記録じゃ、中の人間は全員死んでるか廃人だって言われてるぞ。そこから、遅延なしで喋ってるってのか」
『喋ってるだろ。つか、そんな扱いなのかよ?』
「話がずれてない。声も途切れてねえ。……大したもんだ」
ダリオは素直にそう言った。それから、彼は指を組んだ。
「認めるよ。技術屋としては本物なんだろう。だがな」
彼は顔を上げた。
「あんた、あれを見たことがあるのか」
『あれ?』
「ペルソナだ。あんたが助けようとしてる相手を、半日で叩きのめした女だよ」
ダリオの声には脅しの色はなかった。ただ、絶望的な事実を確認する男の声だ。
「クローネクス社を一人で潰し、警官隊が数百単位で消えた。俺は三十年この街でギャングをやってきたが、あんな化け物は見たことがねえ」
彼はカーバンクルを一瞥した。
「そこにいる始末屋が、手も足も出ずに負けたんだ」
「いや、手足は出た……」
「回線が繋がったのは大したもんだ。だが、それで何が変わる」
言い訳をするカーバンクルを無視して、ダリオは厳しい目線をテレビに向ける。
しばらく沈黙があり、やがて画面の中の記号がわずかに回転した。
『だが、そもそも俺はそいつを知らねえ』
ショウの声は素直だった。
『名前も、顔も、ついさっき初めて聞いた。だから――』
画面の記号が消えた。
『見る』
「は?」
『知らねえバグはまず調べるんだよ。技術屋ってのはそういう仕事だ』
■
『――ニュー・エデンの公共監視系に入った』
ショウの声が少しだけ速くなった。
『カメラ密度、一平方キロあたり二千台。ケッサクだな、この街のパラノイアぶりは。これなら誰でも探せるじゃねえか』
「待て、公共の監視網にそんな簡単に――」
『黙って見てろ、おっさん』
画面に無数の映像が同時に展開した。
テラの街路。ハーモニー・ブロックの集合住宅。ファウンドリー・ベルトの工場前。
数十、数百の映像が高速で切り替わり、そのたびに人の顔が矩形で囲まれ、弾かれていく。
『黒髪、赤ジャケット、身長百四十六、女。歩行パターンは――』
ショウは一度言葉を切り、続けた。
『カーバンクルと同じ。歩幅も、重心移動も、全部同じ……と』
映像の流れが、急に減速した。
『……直近四十分。三箇所でヒット』
三つの映像が並んだ。
一つ目。テラ北部、真夜中の高架下。赤いジャケットの後ろ姿。
二つ目。二十三分後、上層への貨物リフト乗り場。同じ人影が、警備を一瞥もせずに通過している。
三つ目。
最後の映像が、画面いっぱいに拡大された。
アルミナ層、コマース・ベルト。
ガラス張りの高層ビル群の中でも一際大きい建物の地下搬入口。
監視カメラの映像の中で、黒髪の少女が立っていた。
『いたぞ!』
彼女は一人だった。ただ一人、赤いジャケットの背中を向けて、搬入口の認証端末の前に立っている。
ダリオの喉が鳴った。
「……ヘリオス・エナジー社だ」
彼は掠れた声で言った。
「ファイブ・クラウンの一角。この街の核融合発電を一手で握ってる」
カーバンクルはベッドの縁に座ったまま、画面を見つめていた。表情はない。
ただ、赤い義眼の中の幾何学模様がゆっくりと回転していた。
『なんで発電会社なんかに――』
「ショウ。リアルタイムカメラにできる?」
『あぁ、内部もカメラまみれだからな。音声もいけると思うぜ』
「まずは……ペルソナの今の狙いを確かめよう」
何しに来とんやろ




