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【依頼人】餞別

 午前一時五十二分。

 ネオ・テック社本社ビル、北側配送区画。


 ショウは非常階段の踊り場に膝をつき、壁の点検パネルを外していた。

 義手の指先から伸びた極細のプローブが、剥き出しの配線に触れる。


『そこ、右から三本目』


 義眼の視界の隅に、カーバンクルの声が届く。

 ホログラムはもう出していない。光は目立つ。


 今の彼女は、ショウの網膜に流れるテキストと、鼓膜の内側に直接届く音声だけだった。


「あぁ、わかってる」


 プローブが導線に噛みつく。

 二秒後、彼の視界に配送区画の見取り図が展開された。


 監視カメラ十四台、赤外センサー六基、扉の認証端末が三つ。


『中継ドッグ、一つ目』


 ショウはコートの内側から、親指の爪ほどの黒い粒を取り出した。

 表面に接着層のある無線中継器。彼はそれを点検パネルの裏、配線の束の陰に押し込んだ。


 視界の中で赤い点が一つ灯る。

 ネットワークの中に、カーバンクルの足場が一つできた。


『繋がった。ここから北棟の低層は見える。次』

「よっしゃ。次はどこだ?」

『三階の空調シャフト分岐点。そこから中央系に乗り換える』


 ショウは階段を見上げた。


「シャフトってのはどっから入るんだ?」

『二階と三階の間、東側の壁面に点検口がある。開口は横四十二センチ、縦三十センチ。そこから入って』


 ショウの動きが止まった。


「……おい」

『どうしたの』

「幅が四十二センチだって?」

『そう』

「俺の肩幅は五十六センチくらいだぞ」


 わずかな間があった。


『そっか』

「そっかじゃねえよ! あんた通れんのか、それ」

『通れるよ。斜めにして、肩を片方だけ落とせばいい』


 ショウは額に手を当てた。義手の冷たい合金が、彼の生身の皮膚を冷やす。


「あんたは細身だから通れるってだけだ。俺が通れる道をナビしてくれ」

『じゃあ他の経路を出す。少し待って』


 それから三秒が経過する。


『わかった。二階の給湯設備室から、配管点検通路に入れる。開口は横七十センチ。……ただ、通路の途中に高低差がある』

「どれくらいだ」

『四メートル』


 それは高低差とかそういうレベルじゃないだろ……と、ショウは喉まで来た言葉を飲み込む。


「あ〜……梯子とか階段はあるんだよな?」

『ない。壁面に配管の固定金具が並んでるから、それを指で掴んで登って』


 ショウは天井を仰いだ。


「あんたはそれを『経路』と呼ぶのか……?」

『登れない?』

「……やってやろうじゃねぇか。やってみるけど覚えとけ! あんたの作戦は、前提が全部あんた基準になってんだよ!」

『……なるほど』


 カーバンクルの声には、相変わらず抑揚がない。

 しかし、その声にはわずかに何かが混じっているようにも聞こえた。


『気をつける』

「頼むぜ、ほんとに」



 午前二時十一分。

 給湯設備室の床下、配管点検通路。


「あっち〜……クソが……」


 湿った蒸気と、腐りかけた断熱材の匂い。

 ショウは背中を丸めて、四メートルの垂直区間を見上げていた。


 壁面に、拳ほどの固定金具が不規則な間隔で並んでいる。

 ロッククライミングの壁面より密度が低く、取っ掛かりが小さい。


『上に着いたら、右手に中継ドッグを一つ』

「ちょっと話しかけるな。集中するから!」


 彼は義手を伸ばし、一つ目の金具を掴んだ。

 チタン合金の握力が、鋼鉄をわずかに歪ませる。生身の脚が壁を蹴り、体が持ち上がった。


「おおおおおぉ……!!」


 二つ目。三つ目。

 四つ目の金具は、腕を伸ばしきっても十センチ足りなかった。


「グッ……くっ……! クソ、飛び移るしかねぇか……!」


 彼は下の金具に片手だけで全体重を預け、体を振った。

 一度、二度。三度目で、義手が四つ目を掴んだ。


「オラァァッ!」


 肩の生身部分に、焼けるような痛みが走る。

 義体化していない箇所が、義体の出力に耐えられていない。


「ぐぅぅっ……! ハァ、ハァッ!」


 上端に手をかけ、彼は通路の縁に転がり込んだ。

 しばらく仰向けのまま、天井の配管を睨んでいた。


『潜入はできるだけ静かに』

「誰の、せいだと……!」


 ショウはなんとか息を整え、寝返りを打った。


「……二つ目のドッグだ。どこに置く」

『壁の右側、光ケーブルの接合ボックスの中』


 ショウは起き上がり、ボックスの蓋を義手で静かにこじ開けた。

 黒い粒を貼り付ける。視界の中で、二つ目の赤い点が灯った。


『繋がった。中央系に乗れた。……ショウ』

「なんだ」

『今、あなたの生体データが見えてる。心拍が百七十一。乳酸値も上がってる』

「そりゃそうだろうよ……!」


『十四階の医務室に、鎮痛剤と筋弛緩剤の在庫があるって。経路を出そうか』

「いらねえ。取りに行く体力の方が高くつく……!」


 彼は立ち上がり、通路の奥へ進んだ。


『じゃあ三つ目』

「まだあんのかよ!」

『あと二つ。地下三階は独立系だから、その手前と、施設内に一つずついる。それがないと、あなたが挿した後のデータを外に運べない』


 ショウは唸り、それでも歩いた。


「一つ、わかったことがある……」

『なに?』

「スパイ映画は……見ている方が楽しい」



 午前二時三十八分。

 地下三階へ降りる保守用エレベーターは、ビル本体の系統から切り離されている。


 ショウはそれを使わず、隣接する非常用降下シャフトを、壁面のケーブルを掴みながら降りた。


「まったく。スリル満点のアトラクションだぜ」


 地下は静かだった。

 空調の音がまるで違う。演算施設を冷やすための大出力の風が、床下から絶え間なく流れ廊下の空気を乾かしている。


 壁は白く、継ぎ目がなく、天井の照明は昼間と同じ照度で焚かれていた。


『三つ目のドッグは、その先の分電盤』


 ショウは廊下を進み、分電盤の扉を開けた。三つ目の赤い点が灯る。


『よし。あとは施設内。第三演算施設の入口は、この廊下の突き当たりを――』


 カーバンクルの声が、そこで途切れた。


『ショウ。止まって』

「なんだよ」

『警備の巡回パターンが変わった。さっきまで四十分周期だったのが、五分前から不定期になってる。しかも人数が二人から一人になってる』


 ショウは壁に背を貼り付け、義眼の集音倍率を上げた。


「……減ってんなら好都合じゃねえのか」

『違う。周期が消えたってことは、この一人はルーチンで歩いてない。自分の判断で歩いてる』


 彼女の声に、初めて硬さが混じった。


『それと、そいつの認証権限がこの階の全区画を通ってる。警備主任クラス。ログを見る限り、勤務シフトに手動で追加されてる』

「手動?」

『たぶん、上の階のどこかであなたが痕跡を残した。配線を触った時か、通路の温度変化か……監査には引っかからないレベルだけど、それを見て『何かおかしい』って判断した人間が一人だけいた』


 ショウは舌打ちをした。


「そいつの名前は」

『ログの署名だと――』


 その時。

 廊下の突き当たりの角から、足音が聞こえた。


 規則的でも、急いでもいない。ただまっすぐな足音だった。


「――」


 ショウは動かなかった。動けなかった。

 義眼が対象を捉え、輪郭を解析し、データベースと照合するまで。


 角から出てきたのは五十代半ばの男だった。

 背が高く、痩せている。灰色の警備制服を隙なく着込み、左胸に主任章。


 髪は短く刈られ、こめかみのあたりだけが白い。眼鏡はかけていない。義眼だった。

 ショウのものより二世代古い、企業支給の実用品。


 男の視線が、廊下の中ほどに立つ「息子」を捉えた。


『ショウ――』


 カーバンクルの声が、遠くで聞こえた気がした。


「……親父か」


 ショウの口から出たのはその言葉。

 男は答えなかった。


 彼はゆっくりとショウの全身を眺めた。黒いチタン合金の両腕。改造された右目。汚れたコート。

 かつて自分の家にあった「もの」の成れの果て。


 その視線には驚きがなかった。困惑もなかった。

 あるのはただ確認だった。予想していた最悪の答えが、予想通りに提出されただけという顔。


「やはり……お前か」


 男の声は低く平坦だった。


「北棟の配線に遅延が出た。誰も気にしなかった。私だけが気にした。……なぜだと思う」

「さぁな。お前が不安障害持ちだとか?」

「私は知っているからだ。こういう防壁の抜き方をする人間を、私は一人しか知らない」


 男は一歩前に出た。


「私が育ててしまったからな」


 ショウの義手が、無意識に半分だけ握られた。


「……久しぶりだな。元気そうで何より、とでも言えばいいのか?」

「何をしに来た」

「借り物だよ。地下の計算資源をちょっとな。壊しはしねえ。誰も損しねえよ」

「盗人が。そう言われて引き下がると思うのか」


 男の口調は怒鳴っていなかった。それが余計に気味悪かった。


「出来損ないが」


 その一言はひどく静かだった。


「お前は生まれる前から上位0.3パーセントだ。あれだけの数値を与えられて、お前が最終的に到達したのがこれか」

「これって? 指示語を使いすぎるとボケるぜ」

「犯罪者だ。自分の腕を切り落として、他人の家に忍び込む、ただの犯罪者だ」


 ショウは笑おうとした。うまくいかなかった。


「それはあんたらのミスだろ。教育失敗だ。残念でした!」

「口だけは達者だ。昔からな」


 男は制服の袖に触れ、通信端末を起動させた。

 ショウの義眼がその周波数を捉える。


『ショウ、あれは本部への回線じゃない』


 カーバンクルの声が鋭くなった。


『階層内の警備班への直通。四人。もう動いてる。……本部には上げてない。この人、記録を残す気がない』


 ショウは、その意味を理解するのに一秒かかった。


「……あんた」


 彼は父親を見た。


「報告しねえのか。侵入者だぞ。手柄になる」

「なるものか」


 男は端末を下ろし、初めてわずかに感情らしきものを見せる。

 それは、やはり怒りではなかった。侮蔑でもなかった。


「お前が捕まれば記録が残る。記録が残れば名前が照合される。私の息子が――かつて私の息子だったものが、この会社の地下に盗みに入ったという事実が残る」


 彼は一歩、また一歩と近づいてくる。


「妹が来年、社内の適性教育プログラムに入る。あの子には未来がある。お前という記録が、あの子の経歴の隣に並ぶことは断じて許さん」


 ショウの呼吸が、一度だけ止まった。


「……妹?」

「知らなくていい。名前も、顔も、一生な」


 廊下の奥。複数の方向から金属が擦れる音が近づいてきた。

 四人分の足音。装備の重さから、非武装ではない。


 男は制服の腰から警備用の高圧スタンロッドを抜いた。


「身内の恥は、身内で処理する」


 彼は静かに構えた。


「ここでお前は死ぬ。記録は残らん。侵入者は存在しなかったことになる。それが、私がお前にしてやれる最後のことだ」

『ショウ』


 カーバンクルの声が、耳の奥で低く響いた。


『廊下の東と西、二人ずつ。挟まれる。三秒後に接触』


 ショウは動かなかった。

 黒いチタンの指がゆっくりと、完全に握り込まれた。


 合金が軋み、乾いた音を立てる。

 彼の右目の義眼が、赤みを帯びた光度に切り替わった。


「――なあ、親父」


 彼は言った。声は驚くほど落ち着いていた。


「あんたは俺のこと一度も見てねえって、ずっと思ってたんだ」


 男は答えない。


「今もそうだ。あんたが見てんのは、あんたの経歴に付いたシミか?」


 ショウは足を半歩引き、腰を落とした。


「いいぜ。消してみろよ」


 両側の廊下から、四つの影が飛び出した。

ショウくんやペルソナはセリフ特徴強くて面白いんですよね なぁカーバンクルさん…

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