【404】一人の力
アルミナ層。
中級ホテル〈ロウ・スペクトル〉の四階は、深夜になると空調の唸りだけが廊下を支配する。
人工太陽が落ちた後のアルミナは、街全体が静かになるよう設計されている。
窓の外では、階下のテラへ向かう貨物リフトの誘導灯が、規則正しい間隔で赤く明滅していた。
404号室のドアが、電子音を立てて開いた。
「! お前は……」
「……はぁ」
カーバンクルは何も言わずに部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。
パーカーの右肩から袖にかけてが黒く濡れている。血だ。
乾ききらないまま新しい血が上書きされ、生地が重たく張り付いていた。
「その傷は……」
彼女はテーブルの前に座るダリオを一瞥もせず、ベッドまで歩き、そのまま倒れるように寝転がった。
「……おい」
ダリオ・ヴェントはテーブルの椅子に深く腰掛けたまま、壁面のディスプレイを顎で示した。
安ホテルの備え付けディスプレイは輝度調整が壊れていて、映像が実際より二段階ほど明るく映る。
そこには崩れたエントランスと、黒く焦げた警備ドローンの残骸が映し出されていた。
『――繰り返します。本日未明、クローネクス社本社ビルが武装した何者かの襲撃を受け、社長アルバート・レイン氏が死亡しました。
現場からは黒髪の少女とみられる人物の目撃証言が複数寄せられており、メリディアン・ディフェンス社の警備部隊にも甚大な被害が――』
「見えてるか、これが」
ダリオは低い声で言った。
彼の頬には古い傷が縦に走っている。四十を過ぎたギャングの顔だった。
「ファイブ・クラウンの一角の社長が、真昼間の会社で撃たれてる。警官隊が数百単位で消し飛んでる。俺があんたに払ったのは、あれを止めるための金だ」
「明日にして……」
カーバンクルは天井を見上げたまま答えた。
声に抑揚はないが、疲れを隠しきれていない。
「あんたが受けた依頼だろうが。まさか会って戦って、それで終わりだとは言わせねえぞ。俺は――」
「うるさいなぁ」
彼女は寝返りを打ち、ダリオに背を向けた。
水色の髪が枕の上で乱れ、その隙間から赤い義眼が一瞬だけ光を返す。
シーツを引き寄せようとした右腕が、途中で止まった。
肩の関節が上がりきらない。彼女はただ左手でシーツを掴み直した。
「…………」
ダリオはその一連の動きを、黙って見ていた。
それから、深く長い息を吐いた。
彼は椅子から立ち上がり、部屋の隅に置いてあった自分のダッフルバッグを引き寄せる。
「まったく」
中から出てきたのは、軍用規格の応急処置キットだった。
ギャングの人間が三十年間、着替えより先に持ち歩くようになる類の道具だ。
「……脱げ」
「は?」
「上だ。血でシーツを汚すんじゃない」
■
カーバンクルはベッドの縁に座り直し、パーカーを脱いだ。
「…………」
露わになった上半身は、細身の少女のそれだ。
ただしその皮膚の上には、この数時間で刻まれたものが並んでいた。
右肩から二の腕にかけて裂傷、脇腹に打撲痕、鎖骨のすぐ下に何かの破片が抜けた小さな穴。
ダリオは無言で消毒剤のアンプルを折り、傷口に垂らした。
「痛い」
「我慢しろ。麻酔は要るか?」
「いらない」
彼は納得しない顔をしたが、何も言わずに医療用ステープラーを取り出した。
金属の留め具が皮膚を噛むたび、乾いた音が部屋に響く。
カーバンクルは膝の上で手を組み、少しだけ視線を下に落としていた。
「ふー……」
バツが悪そうな、というにはあまりに表情が乏しい。
それでも彼女は、いつもより静かだった。
「若えのに、よく平気だな。お前くらいの年齢なら、ステープラーなんて泣いてるぞ」
「痛みを散らす方法がある……」
ステープラーが四つ目を打ち込んだところで、ダリオが手を止めた。
「で。どうするつもりだ、あれを」
カーバンクルはすぐには答えなかった。
空調の唸りが、二人の間の沈黙をゆっくり埋めていく。
窓の外で貨物リフトの誘導灯が、また赤く点いて消えた。
「……決まってない」
「あ?」
「方針が。決まってない」
彼女は正直に言った。嘘をつく必要をそもそも感じていない。
「今まで相手にしてきたのは、全部、私より弱かったから。どう殺すかを選べばよかった。事故か、自殺か、拷問か……。方法の問題でしかなかった」
「今度は違うってのか」
「同じスペック。同じ記憶。同じ戦闘者データ。そのうえで、向こうは私が使えないものを使える」
カーバンクルは自分の右手を持ち上げ、指を一本ずつ閉じた。
動く。動くが、遅い。
「初めてなんだよね。自分より強いかもしれない相手っていうのは」
ダリオはステープラーを置き、額を掻いた。
それから、椅子代わりのテーブルの端に腰を預ける。
「……三十年前、俺がテンパードに拾われた頃の話をしてやろうか」
「……なんのこと? 別に聞きたくない」
「聞け。あんたに今、必要なことだ」
ダリオは煙草の代わりに、ニコチンパッチの包装を破って手首に貼った。
「当時のテンパードは十二人だ。今の百分の一もいない。俺はその中で一番喧嘩が強かった。ナイフでも、鉄パイプでも、素手でも……誰にも負けなかったんだよ、本当だ」
彼は自分の手のひらを見下ろした。
太く、節くれ立ち、何度も折られて治った指がそこにある。
「でな、二年目に俺は一人で敵対組織の事務所に殴り込んだ。ボスを潰せば終わると思ったからだ。
実際、俺はそいつを殺した。殺したうえで、両膝を撃たれて、三か月動けなかった」
「……」
「三か月だ。その間に、うちの構成員が四人死んだ。俺が一人で片付けたつもりだった相手の、残りカスにな」
ダリオはカーバンクルを見た。彼女の赤い義眼が、彼を正面から捉えている。
瞳孔の中で、幾何学的な模様がゆっくりと回転していた。
「つまりな。人間一人でやれることには限度がある。強さの問題じゃねえ。時間と、場所と、体の数の問題だ。あんたがどんだけ強かろうが、体は一つで、一度に一か所にしかいられねえ」
カーバンクルの指が、わずかに止まった。
――体は一つ。
これまでの彼女なら、その言葉は成立しなかった。
捨てて、また立ち上がればよかった。数を並べればよかった。
その前提をEDENは今日、都市ぐるみで取り上げていった。
「テンパードが膨れたのは、俺が強かったからじゃねえ。俺が、俺より弱い奴を使うことを覚えたからだ」
ダリオは応急処置キットを閉じ、留め金をかけた。
「あんたには誰がいる?」
カーバンクルは答えなかった。
誰がいる。その問いを、彼女は今まで一度も自分に向けたことがなかった。必要がなかったからだ。
体が足りなければ用意すればいい。手が足りなければ増やせばいい。数は、いつでも彼女の側にあった。
残ったのはこの一つの器だけだ。
裂けた肩と、上がりきらない右腕を持った量産ラインの安い体。
(――誰が、いる)
最初に浮かんだのはら黒チタン合金の腕。生意気な口の利き方。
「……ショウ」
声に出してから、彼女は自分でも少し驚いた。無意識に出た音だった。
「あ? 誰だそりゃ」
「昔の、協力者」
カーバンクルはパーカーの袖に腕を通しながら、短く答えた。
「ハッキングなら、この街の誰よりも上手い。多分、EDENの下働き程度なら弄れる」
「この街にいるのか」
「……いない」
ダリオは眉をひそめた。カーバンクルは窓の外に目をやる。
アルミナの人工的な夜。
その上に広がる内殻の演出天井は、かつて見たものと似ていた。
この空のさらに外側に、もう一つのドームがある。
ネオ・アルカディア。彼女が体を捨てた街。イスラが自分の遺伝子を保管している街。
カーバンクルの赤い義眼の中で、幾何学模様が音もなく組み替わった。
「ダリオ」
「なんだ」
「しばらく部屋の中にいて」
彼女はベッドに戻り、仰向けに横たわった。
「その間、私はここを動かないから。動かないけど、寝てるわけじゃない。……体を揺すったり、落としたりしないでね」
「……おい。何を言ってる」
「ちょっと、里帰りしてくる」
ダリオが何かを言いかけた。しかしその前に、カーバンクルは目を閉じていた。
彼女の意識はすでに、この器の内側にはもう無い。
テラの地下を這うノア社の幹線を潜り、緩衝層の中継塔を跨ぎ、そして――彼女は北へ向かった。
実はカーバンクルに大人の視点からアドバイスできるやつはこれまでいなかった気がする
イスラは胡散臭い コバヤカワはメンタルが若い




