【404】ペルソナ・ⅩⅤ
アルミナ、コマース・ベルトの外れに建つ中級ホテル。
シルバー層の出張者が使うような、清潔だが素っ気ない造りの建物だった。
ダリオ・ヴェントは、404号室の扉の前でしばし立ち尽くしていた。
ただの安宿の、ただの扉。
都市伝説に縋ってこんな所までやってきた自分の愚かさを、今さらのように噛みしめる。
(……チッ)
それでも彼は、震える手でカードキーを差し込み扉を開けた。
部屋の照明は落ちていた。
窓の外、アルミナの整然としたネオンが床に青白い格子を描いている。
その光の縁、窓際の椅子に小さな人影が腰かけていた。
ダリオの喉が、ひゅっと鳴った。
水色の短い髪。感情の窺えない赤い瞳。だぼついた白いパーカーに包まれた小柄な体。
髪の色も、瞳の色も、服の趣味も違う。
それでも、その整った顔立ちは――あの化け物と寸分の狂いもなく同じだった。
「ば……馬鹿な」
ダリオは反射的に後ずさり、背中を扉に激しく打ちつけた。
(罠だ。あの女が、俺が裏切らないか見届けるために先回りして……!?)
冷たい汗がこめかみを伝う。
この顔は間違いない。俺は殺される。
「……依頼があるって聞いたけど」
少女は椅子に腰かけたまま、微塵も動かなかった。
その声は平坦で、拍子抜けするほど気だるげだった。
あの鼓膜に粘りつくような残酷な嘲笑とは、まるで似ても似つかない。
「……お、前」
ダリオは乾いた喉から、ようやく声を絞り出した。
「お前、双子か何かか。それとも妹がいるか。性悪な、黒髪の――」
「妹? 黒髪……?」
カーバンクルは、こてんと首を傾げた。
その反応はあまりに素朴で、どう見ても演技には見えなかった。
赤い瞳がわずかに瞬き、心底わけが分からないという色を浮かべている。
「いないよ。私は一人だから」
その一言にダリオは言葉を失った。
この少女は何も知らない。あの化け物と、こうまで同じ顔をしていながら。
(クローンか何かか? そういえば、奴が戦場でそんなことを言っていたと……)
混乱に頭が痛んだが、それでも彼は腹を括るしかなかった。もはや他に縋る先などないのだ。
「……テラで、大きな組織が動いている。『テンパード』という」
ダリオは壁伝いに歩き、寝台の端に腰を下ろして掠れた声で語り始めた。
「私が三十年かけて育てたギャングだった。だが、そこに一人の女が転がり込んできてから、すべてが変わった。
敵対組織を皆殺しにし、闇カジノの元締めを従わせ、ついにはクローン施設を丸ごと奪って――今ではテラとアンダーのならず者を、残らず呑み込んでいる」
少女は口を挟まず、ただ静かに聞いていた。
その視線がいつの間にか、ほんのわずかに鋭さを帯びていることにダリオは気づかない。
「奴は掌握した施設で構成員を何度でも蘇らせる。だから、あの群れは死なない。先日はテラ屈指の武闘派をたった一晩で消し飛ばした。……そして今、企業のクローン施設にまで直接手を伸ばそうとしている」
彼は膝の上で、震える拳を強く握りしめた。
「あれは、もう裏社会の組織などではない。街を丸ごと呑み込む気だ。……止められるのは、法でも警察でもない。私はもう、こんな都市伝説の噂話にすら縋るしかなくてな」
言い終えたダリオは、祈るように顔を上げた。そして息を呑む。
少女の表情は、変わっていないように見えた。
だがその赤い瞳の奥で、機械的な幾何学模様の瞳孔がゆっくりと回転していた。
「……その女。黒い髪……私に似てるの?」
「あ、ああ。髪の色と服の趣味は違うが、瓜二つだ」
部屋に、長い沈黙が落ちた。
あの夜の生成エラー。完了していたはずの自分の複製。破壊された発電設備。
断片が、音もなく噛み合っていく。数日前にホテルのモニターで一瞬だけ見た、赤いジャケットの黒髪。
あの時の名状しがたい引っかかりの正体が、今判明した。
(……まさか。あのときの精製は……成功していた?)
カーバンクルはゆっくりと立ち上がった。
「わかった。依頼、受けるよ」
「ほ、本当か。……いや、待て。金は、逃げる時に組織に置いてきたからほとんど残っていない。この安宿の宿泊代を払うのが精一杯で――」
「それでいい」
少女は短く遮り、だぼついたパーカーのフードを被った。
その背に「404 Not Found」の文字が、青白いネオンの光を受けて浮かび上がる。
「私の依頼料は、一晩のホテル代だけ」
■
テンパードの新たな本拠地。
旧貨物ターミナルの管制塔を改装した、最上階の一室。
窓一面にテラの薄汚れた夜景が広がっていた。
頭上五百メートルに浮かぶ富裕層の都市が、暗い蓋のようにこの層を覆っている。
「影の時間」に沈んだ街灯りが、ちらちらと血のように明滅していた。
その部屋の中央。
古びた革張りの椅子に、ペルソナは深く沈み込んで眠っていた。
赤いジャケットを羽織ったまま脚を組み、頬杖をついた姿勢で。
護衛は一人も置いていない。この街で自分を害せる者など誰もいないという、傲慢な確信の表れだった。
その瞼が、ふと、音もなく開かれる。
気配。
数百の構成員がひしめく建物を、誰にも気づかれず、警報一つ鳴らさずに通り抜けてきた静かな足音。
ペルソナは動かなかった。
ただ暗い赤の瞳だけを、扉のほうへと滑らせる。
重い鉄の扉が、静かに開いた。
「…………」
立っていたのは、水色の髪の少女だった。
だぼついた白いパーカー。感情の窺えない赤い瞳。
自分と寸分違わぬ顔立ちが、廊下の照明を背に影となって浮かんでいる。
ペルソナはしばし無言でそれを眺め――やがて、喉の奥でひくひくと嗤った。
「くく。……ようやく来たか、オリジナル」
彼女はゆっくりと立ち上がり、両腕を大きく広げてみせた。まるで待ちわびた客人を迎える主人のように。
その顔には、抑えきれない愉悦がべったりと張りついている。
「感動的な対面だな。鏡でも見ている気分だ。……いや、そうでもないか。お前はひどく退屈そうな目をしている」
「あなたが、ペルソナ。……私の、複製異常個体?」
カーバンクルの声は氷のように平坦だった。
部屋の空気が張り詰めていくのを、彼女はまるで意に介していない。
「依頼があった。あなたを始末してくれって」
「依頼、な。どこかの間抜けがすがりついたか」
ペルソナは鼻を鳴らし、ゆっくりと歩を進めた。
二人の距離がじりじりと詰まっていく。同じ背丈、同じ顔。
だが、そこに漂う気配だけが決定的に異なっていた。
「相変わらず、他人の頼みで動くか。……哀れなものだ。生き方まで他人に預け、正義の味方ごっこをして、それで自分が善良な何かだとでも思っているのか?」
彼女は数歩の距離で立ち止まり、暗い赤の瞳で相手を覗き込んだ。
「なあ、教えてやろうか。お前はオリジナルかもしれん。だが――私のほうが、お前よりよほど『人間』だ」
「…………」
カーバンクルは答えなかった。
ただ静かに、その言葉の続きを待っている。
「お前は、自分がとっくに人間でなくなったことにすら気づいていない」
ペルソナは心底おかしそうに笑い声を上げた。
「考えてもみろ。お前はクローンの体を、使い捨ての道具のように使っては捨てる。壊れれば次の器に乗り換え、必要とあらばこの街のあちこちに同時に湧いて出ることさえできる。
……そんなものが人間か? ただの『現象』だろうが」
彼女は一歩踏み込み、囁くように続けた。
「普通の人間はな、耐えられんのだ。自分の体が使い捨ての消耗品になることに。自分という存在が、同時に何人も存在することに。だから自我が狂うか、壊れるか、どちらかだ」
「…………」
「……ところがお前は、平然としている。何一つ、揺らぎもせずにな」
その指先が、カーバンクルの胸元をとん、と突いた。
「お前はもう、人の形をしたシステムだ。生き物ではない」
「……」
「対して私はどうだ。この体一つきり、複製もできん。死ねばそれきり。悦びも、渇きも、人を壊す愉悦も、すべてこの一つの重たい体で味わっている。……どちらが人間か、考えるまでもあるまい?」
カーバンクルの赤い瞳が、わずかに揺れた。
(……人間じゃない……か)
その言葉は、思いがけず深いところへ落ちた。
カーバンクルという本来の肉体は、ネオ・アルカディアで死んで久しい。
使い捨ての器を渡り歩き、痛みを痛みとして数えなくなってどれほど経ったか。
ペルソナの言葉は、彼女がずっと目を向けずにいた虚無を正確に抉っていた。
だが、それも一瞬だった。
(……依頼とは、関係ない。お喋りは終わりだ)
カーバンクルは揺らぎかけた思考を、冷徹に切り捨てた。
答えの出ない問いに沈むより先に、やるべきことがある。
自分のバグは、自分で消す。
彼女はゆっくりと、静かに構えを取った。
「よく喋るね。……もう、終わりでいい?」
「ククッ……いいだろう」
ペルソナは、恍惚と唇を歪めた。
彼女にとってこの対面は、始まりから決まっていた儀式に過ぎない。
「私はな、この街のすべてに私という人間を刻みつける。そのためには、私がオリジナルでなければ格好がつかん。……より人間らしい私が、本物になる。お前はそのための単なる踏み台だ!」
言い終えるより早く。
水色と黒、二つの影が同時に床を蹴った。
並べてみると口調違いすぎるなこいつら…




