【404】ペルソナ・Ⅷ
黒服の二人に案内された別室は、カジノの喧騒から切り離された静かな空間だった。
防音の効いた重厚な革張りの部屋。中央には冷たい大理石調の合成テーブル。
壁には旧世界の宗教画の精巧なレプリカが掛けられ、天井からの間接照明が落ち着いた、しかしどこか不気味な光を投げている。
カジノで巻き上げた労働者たちの血と汗が、この一室の贅沢に凝縮されているようだった。
ペルソナはソファの真ん中にふんぞり返るように座り、正面と背後を大柄な黒服に固められた。
「勝ちすぎだ、嬢ちゃん。……うちのルールではね、イカサマをやった奴は、両手の指を詰めてもらうことになってるんだ」
正面の黒服が、懐に手を忍ばせながら低い声で脅しをかけた。
大理石のテーブルには、ペルソナがたった一時間で稼ぎ出したチップの分厚い束が山積みにされている。
ペルソナはそれを一瞥し、馬鹿にしたようにふっと鼻を鳴らした。
「イカサマ、か。凡愚というのは悲しいな」
「……なんだと?」
「私が何をしたのかも、お前たちは理解できておるまい。証拠があるなら出してみろ。それとも、ただ負け惜しみを吠えるだけの犬か?」
「証拠なんざ必要ねえよ。うちが『黒』と言えば『黒』。それがここでの法律だ」
黒服の指先が、スーツの内ポケットの銃のグリップに触れた。
だが、ペルソナは微動だにしなかった。ただ、赤い瞳を刃のように細める。
「やめておけ」
「あ?」
「お前も。私の後ろで息を殺しているそこの男も」
部屋の温度が、一瞬で凍りついたかのように下がった。黒服の手がピタリと止まる。
「私がその気になれば、この部屋の人間は三秒で全員肉塊になる」
「な……にを、バカな……」
「お前が引き金を引くより早くその首はへし折れ、後ろの男の心臓は止まっている。……試してみるか?」
静寂。
黒服の二人が、額に冷や汗をにじませながら視線を交わした。
ハッタリだと思いたい。
だが、目の前の赤いジャケットを着た少女の、絶対的な『強者』としての佇まいが、それが本物の警告であることを告げていた。
カジノに一人で乗り込んで荒稼ぎし、用心棒に囲まれても睫毛一本動かさない子供など、この世に存在するはずがないのだ。
「フッ……そう怯えるな。今日は、お前たちのような雑魚を駆除しに来たわけじゃない」
ペルソナはテーブルの上のチップの山に指先を滑らせた。
「この金で――私が、お前たちを買いに来た」
「……あ? 何を言ってやがる」
「グリム・ダイスに、テンパードの傘下に入れと言っているのだ。私の手駒になれ」
黒服の顔が険しくなった。
だが同時に、この異次元の状況を自分たちだけで判断することは不可能だと悟ったのだろう。
一人が壁の通信端末に素早く何かを告げた。
数分後、部屋の奥の隠しドアが重々しい音を立てて開いた。
「あぁ。待たせたな……」
現れたのは、一人の初老の男だった。
白髪を後ろに美しく撫でつけ、仕立てのいい高級なスーツを着こなしている。
歳は六十ごろ。痩せた体に、すべてを見透かすような鋭い眼光。指には旧世界の宝石をあしらった大きな指輪。
暴力だけで成り上がった若いギャングとは明らかに異なる、年季の入った風格があった。
「グリム・ダイスのボス――オーウェン・カーマインだな」
「いかにも」
テラとアンダーの狭間。
ツイライト・フリンジを三十年にわたって治めてきた、裏社会の生ける伝説。
「面白い客が来たと聞いてね」
カーマインはペルソナの正面に座り、優雅に脚を組んだ。
ペルソナの全身を、未知の怪物を観察するような目で見た。
「ブラック・ホーネットを、たった一晩で完全に更地にした赤いジャケットの悪魔。……噂は早いものだ。サヴォイが哀れな死体になったと、もう界隈中に広まっているよ」
「情報が早いな、老人。話が早くて非常に助かる」
「それで、即座にうちを傘下に、ときた。ずいぶんと威勢がいいが……」
カーマインは指輪をした手をテーブルに置き、静かにペルソナを見据えた。
その老いた目に、恐怖のパニックは微塵もない。
ペルソナの実力は理解しているだろう。
だがそれとは別の場所に、この男が三十年かけて築き上げた『芯』があった。
「嬢ちゃん。わしはこの土地で三十年、賽子を転がして生きてきた。暴力だけで縄張りを広げては、すぐに消えていく若造どもとは違う」「ふん……」
「人の欲を読み、金の流れを制し、極力『誰も殺さずに』ツイライト・フリンジを治めてきた。警察にも、上の階層のギャングにも、頭を下げるべき時は下げ、締めるべき時は締めた。それが、わしの渡世の美学だ」
カーマインは愛おしそうに指輪を撫でた。
「わしにはわしのやり方がある。矜持がある。腕っぷしが強いだけの子供に、それを安々と明け渡すつもりはない」
部屋が静まり返った。背後の黒服の二人が、ボスの言葉に誇らしげに背筋を伸ばす。
三十年の重みが、その言葉には確かに宿っていた。
ペルソナはしばらく黙っていた。
それから、くくっと、肩を揺らして低く笑った。
「立派だな。実に大したものだ」
嘲笑。その言葉には敬意などまるでなかった。
「だが老人。お前のその矜持は、ひどく狭くて退屈だ」
「何だと?」
「三十年、ツイライト・フリンジを守ってきた。結構なことだ。だが、お前が血反吐を吐いて守ってきたものは何だ?」
「……家族たちと、この――」
「テラとアンダーの境界の、日の当たらない薄暗い地下カジノ……それだけだろう」
「……!」
黒服たちが拳を握る。カーマインがそれを手で制す。
「上のギャングに媚びを売り、警察に賄賂を握らせ、エデンの監視の隙間で細々と賽子を転がす。それがお前の三十年のすべてか? ただの『奴隷の処世術』だな」
「……言葉が過ぎるぞ、嬢ちゃん」
「私は、この街を丸ごと呑み込むぞ」
ペルソナは身を乗り出した。
赤い瞳が間接照明の闇の中で、まるで本物の化け物のように暗く輝いた。
「テンパードも、お前たちグリム・ダイスも、その他の路地裏で泥水をすすっている小悪党どもも、すべて私の下で一つにまとめる。バラバラに縄張りを奪い合って、上の支配者に頭を下げて生きる惨めな時代は終わりだ。テラのすべての暴力を巨大な一つの力に束ね、この都市の裏側を完全に支配する」
「……な……!?」
カーマインは何も言えなかった。
少女の語る青写真があまりにも荒唐無稽で、そしてあまりにも巨大すぎたからだ。
「そして、その先だ。テラを握り、アンダーを握り、アルミナに手を伸ばす。クローネクス社も、ファイブ・クラウンも、最終的には『EDEN』そのものも。
――この私が、この国の王となる」
「……正気か。EDENに、企業に喧嘩を売ると言うのか」
「喧嘩ではない。この都市を、私が望む形に、すべて造り直してやる」
ペルソナの声には、狂気も大言壮語の響きもなかった。
ただ、明日太陽が昇るのと同じ程度の、当然の事実を述べるような絶対の静けさがあった。
それが逆に、カーマインの背筋を凍らせる。
この少女は本気だった。
ブラック・ホーネット五十人をたった一晩、それも三時間で殲滅した実力が、その言葉に、狂気ではない説得力を与えていた。
(……こいつ、は)
三十年、数え切れないほどの人間を見てきたカーマインには、直感で理解できた。
目の前の少女の言葉は、酔っ払いの妄言などではない。
本物の『嵐』が、テラに舞い降りたのだと。
長い、長い沈黙の後。
カーマインは深く、深く息を吐いた。
指輪をした手で乾いた顔を撫で、力なく椅子に背を預ける。
「……わしは、間違っていたのかもしれんな」
「何がだ?」
「守ることこそが渡世の極意だと思っていた。だが……お前を見ていると、守るだけの人間は、いずれお前のような規格外に呑まれるのを待つだけの、ただの餌にすぎんのだと痛感させられる」
カーマインは立ち上がり、ペルソナに向かってゆっくりと右手を差し出した。
「グリム・ダイスの資金と人脈、そしてわしの三十年の知恵を、テンパードに預けよう。……いや、お前に、だな」
ペルソナは、その手を握りもしなかった。
代わりに、テーブルの上に積み上がったチップの山を、指先でピンと軽く弾いた。
カラカラと音を立ててチップが崩れ、床に散らばる。
「賢明だ、老人」
「……」
「だが、握手は対等な者同士がするものだ。お前は今、私の軍門に下った。対等に手を差し出す立場ではないということを、弁えておけ」
「……っ」
カーマインの差し出した手が、宙でピタリと止まった。
黒服たちが怒りで顔を強張らせたが、カーマインは屈辱を喉の奥に静かに飲み込んだ。
これこそが、彼の三十年で培った『引き際の見極め』だった。
老人は静かに手を引き、深く頭を下げた。
「……あなたに……従おう」
■
テンパードの根城に戻ったペルソナは、ダリオのデスクの前に、グリム・ダイスの資金力と情報網を並べてみせた。
ダリオは帳簿にそれを書き込みながら、ペンを握る手を震わせていた。
「おい、冗談だろ……。一晩で組織の規模が倍になり、さらにツイライトのボスが後見人になっただと……? お前、本当に何者なんだ……」
「まだ足りない」
ペルソナはダリオの言葉を無視して、管理室のモニターに近づいた。
ファウンドリー・ベルトの地図が表示されている。その内の一点、赤いマーカーを指差した。
「クローネクス社の中級クローン製造施設F-7。私が今朝、生まれた施設だ。……ここを力ずくで押さえる」
ダリオの手が、完全に止まった。
「クローン工場を襲撃する……!? 正気かお前! あそこは企業の直轄領だ。ギャングが手を出す領域じゃない、戦争になるぞ!」
「だからこそだ」
ペルソナは振り返り、三日月のように目を細めて笑った。
「考えてみろ、ダリオ。お前たちギャングは、クローン保険に入れない。反社会勢力だからな。どれほど粋がっても、一度死ねば二度と戻らない。……ひどく不便だと思わないか?」
「それは……そうだが、それが当たり前だろう……」
「私がクローン施設を実効支配すれば、その『当たり前』が変わる。うちの兵隊に、無限の『命のストック』を与えられるのだ」
「……まさか」
「死んでも次の日には新しい体で蘇るギャング。……そんな狂った軍勢が、この都市にどれだけの驚威になるか。想像するだけで愉快だと思わないか?」
ダリオの目が見開かれ、言葉を失った。
クローン技術は上流階級と大企業の独占物であり、裏社会の人間には決して降りてこない特権だ。
それを、力で強奪する。
死を恐れない不死の軍隊。
「お前は……本当に、この都市を地獄に変える気か……」
「大げさだな。私はただ、この歪な都市に『新しい秩序』を造り直すだけだ」
ペルソナはモニターのF-7施設を指でなぞった。
自分が生まれ、警備員を皆殺しにした施設。
「まずは、あの工場からだ。私の玩具として取り戻してやる」
どんどん組織がデカくなる




